4:遺伝子の文法

 ヒンディー語の文法によれば、ヒトの染色体は両親から二十三本ずつもらい合わさった計四十六本。そのうちの二本は性染色体と呼ばれ、女性ならX染色体は二本、男性ならXとYとが一本ずつ。そして、一対の染色体のうち、一本でもその遺伝子があればその特徴を発現する形質は顕性と呼ばれ、二本とも遺伝子があって初めて発現する形質は潜性と呼ばれる。

 タブレット端末の上でテキストを走らせる。ひかるもこれらについては覚えているようだった。わたしは一旦タブレットから顔をあげ、面と向かって訊いてみせる。

「ひかるが腋臭わきがなのはなんで?」

「え、うそ」

 ひかるは慌てて自分の腋の臭いを嗅ぎ始めた。すぐさま不思議そうに顔をしかめる。

「仮の話」

 淡々とした口調でわたしがそうこぼすと、ひかるは下唇を突き出しながらこっちを静かににらんだ。

「仮の話?」

「そう、仮の話」

 ひかるはラーメンのスープの残りをがっと飲み干してから答える。

「顕性遺伝だから。その遺伝子の一つないし二つ、持ってるから、でしょ?」

「そう。この遺伝子は耳垢のウェットとドライにも関連してるから、ひかるの耳垢は湿ってるはず」

 ひかるは躊躇せず耳に指を突っ込んだ。わたしには真似できない。ここは女子高なのだから、それを見て幻滅する異性がいる訳でもない。ただ、どうしてか、わたしの思考回路を、それでもその境界を超えることをわたしに許してはくれない。

「ほんとだ。うちの耳垢、

 再びタブレット上でテキストを走らせる。伴性遺伝の話に入ると、ラーメンをたいらげた後の空っぽのどんぶりのように、虚ろな目をし始めた。

 わたしは根気強く、もう一度説明を始める

「潜性の遺伝子がX染色体上にあっても、もう一本の染色体に別の遺伝子があったらそれは発現しないでしょ? でも、男性のX染色体の数は?」

「一本。……あ、だから潜性顕性関係なく、一本持っている時点で発現しちゃうのか」

「そう。先天赤緑色覚異常が男性に多いのはX染色体の潜性遺伝だから。女性の場合、それが二本ないと発現しないから、患者の数は男性に比べてかなり少ないって訳」

「なるほどね。そういえば……テレポーター遺伝子ってさ」

 わたしはぎくりとした。ひかるの眼を見る。その瞳の奥にはあの色は浮かんではいない。あるのは純粋な興味だけだろうか。きっと、伴性遺伝についての授業の回で、テレポーター遺伝子について先生が話したことが記憶の片隅に引っかかっていたのだろう。

「……X染色体上の、顕性遺伝だよ」

 わたしは答える。歯切れ悪く。

 二〇一六年、あの暗黒期の中期。テレポーター遺伝子の存在は予言されながら、誰もが探そうとしなかった。反テレポーターの過激派の標的になるのが目に見えていたからだ。ただ、当時、深圳にある一つのベンチャー企業が岐路に立たされていた。ヒトの胚の出生前遺伝子改変による、致命的な遺伝子の除去が主な事業だったものの、遺伝子改変を禁じる国際法の施行で倒産の危機を迎えていた。倒産するか、攻撃されるか。当時の社長は後者を選び、そしてテレポーター遺伝子を発見した。しばらくは発見を秘匿し、その間にテレポータービジネスに生物学的にアプローチする方法を練っていた。その先行者利益はエウロパ出現後にその企業を一躍世界的企業に押し上げた、今やネイバーフッドと並んで双璧と称されるオプティマイジーン社だ。

 同社の研究者は、X染色体上の擬似常染色体領域PAR1という領域のとある遺伝子型の一つこそ、テレポーター遺伝子であることを突き止めた。その遺伝子が特定の塩基配列を持っていると、その個体は「わたし」になる。高層ビルから足を投げおろして人を見下ろすのが趣味になり、友人より身長が低いことに安堵するようになる。

 喉がいがいがした。水の残ったコップを手に取り、一気に流し込む。

「テレポーターに女性が多いのって、遺伝が関わってるんだっけ?」

 ひかるが訊いた。今日の授業で扱ったX染色体の不活性化ライオニゼーションについての話はここから始まる。わたしは頷いて、その補足を始めた。

「Ⅹ染色体上にも多くの遺伝子があるけれど、男性と女性とでその数は違うし、何なら性染色体が二つじゃない人間もいる。だから、普通に考えたら、X染色体の数が多い女性の方がその影響を強く受けると考えられるけどさ、でも、遺伝子の発現量はね、男女で変わらないんだって」

「え、なんで?」

不活性化ライオニゼーションによって遺伝子量を補償してるから。X染色体を何本も持っていても、一本を除いて、そのほとんどが遺伝子を発現できないようなヘテロクロマチン構造に変化させられるっていう訳」

「なるほど。生物ってよくできてる」

「でもね、マウスなんかと違って、ヒトの場合、不活性化ライオニゼーションを免れる領域がX染色体上にあることが分かってる――擬似常染色体領域PAR1と言うんだと。女性だと、ここにある遺伝子は二つとも発現するって訳。テレポート遺伝子もそこにあって、それは重要な遺伝子の突然変異体だから、女性テレポーターの場合はテレポート遺伝子と正常な遺伝子の両方が発現して、テレポーターでありながら、ちゃんと生育ができる。でも、X染色体を一本しか持たない男性の場合、テレポーター遺伝子を持つということは、正常な遺伝子を持たないということを意味する。だから、ヴァソプレッシンの分泌量が異常値を示して、三歳頃までに亡くなるというケースがほとんどなんだってさ」

 わたしはいったん間を置いて、視線を落とした。右掌の月を眺める。幼くして死んだ兄の死因もそれらしい。その彼がわたしに残した遺産、あるいは呪い。そして、母がわたしよりも大事にするもの。

「じゃあさ、真弓。質問なんだけど、世の中には一定数大人の男性テレポーターもいるよね。あれはどういうこと?」

 わたしは再び正面のひかるを見据えた。ひかるは童子のように目を輝かせてテーブルに身を乗り出している。わたしは肩をすくめた。

「どういう訳かは、正直よく分からないみたい。生物って、ある遺伝子を失っても、意外と別の機能を使って補うことってあるんだって、不思議なことに。ただ、おぞましいのは、死にやすいことの代償なのか、男性テレポーターの平均MIは女性のそれより有意に大きいことが分かってる。だから、かの〈ゼウス〉も男性だろうというのが多くの学者の総意だし、テロ集団〈新人類同盟〉の幹部たちも、ほとんどが男性だったらしいよ」

 そのとき、ひかるの瞳の奥をあの色が過るのが見えた。ひかるとわたしの合間に通される無数の赤外線センサーの光。その一本を思わず遮ったのが分かった。ただ、何を遮ったかまでは分からない。

 わたしは別の話題を探そうとした。けれども、方向転換した思考のベクトルに寄り添ってきたのはひかるの方だった。

「そういえばさ、中国の違法デザイナーベビーの話、聞いた?」

 わたしはきょとんとしたが、すぐにその助け舟にしがみつくべきだと心の中の〈テラ〉が言う。わたしは頷いた。

「致命的な遺伝病を引き起こす指定遺伝子以外を初めて人為的に改変した例だよね」

「そうそう。真弓は遺伝子編集のDIYキットって触ったことある?」

「DIY? あるよ、小学生の自由研究で」

 蛍――ゲンジボタルの発光色を自在に変えられるというものだ。

 今でも、目を閉じれば当時の興奮は時間の厚い地層を突き破り、マントルから競り上がるマグマのように体を火照らせる。付属のアプリケーションをPCにインストールすると、声による命令だけでDNAの改造プログラムが自動生成される。その情報が名刺サイズの遺伝子編集機に送られ、セットした解凍済みの卵内に改造ゲノムが生成される。その後、生まれたゲンジホタルは成長すると、やがて思い思いの色の光を発するようになった。基本は単色だが、うまくやると、複数の色を発する蛍もできる。虹色蛍もできるというので、わたしは何日もかけて取り組んだ。ついぞ虹色蛍はできなかったが、わたしの蛍は三色に輝いた。その光を、わたしは空が白むまで見続けたものだった。

「今の子たちがあれを体感できないのって残念だよね」

 わたしがそうこぼすと、ひかるは「え」と声を上げた。

「あれ、ひかる、知らないの?」

「何があったの?」

「蛍の遺伝子編集キット、販売停止になったんだよ。会社も倒産しちゃった」

「虹色蛍のやつでしょ。一体どうして」

「遺伝子ドライブだよ。前々回の授業で谷原先生言ってたでしょ。特定の遺伝子を持った個体が集団に混じって、やがて集団内のすべての個体がその遺伝子を持つようになる現象だって」

「ああ、それのことね。でも、あれ? 一匹だけ集団に突っ込んでもその遺伝子って拡散する? どんだけ有利な淘汰圧が働けば集団内にその遺伝子が定着するの? あるいは集団そのもののサイズがめちゃくちゃ小さいとか」

「そこで出てくるのが遺伝子編集クリスパー。クリスパーそのものを遺伝子の中に突っ込んで、その遺伝子を持ったとき、対立遺伝子も同じものに書き換えちゃうようにするって訳。そうすれば、クリスパー搭載遺伝子を一本しか持たないヘテロ結合の個体が生まれても、その個体はすぐにそれを二本持つ――ホモ結合になって、その遺伝子は必ず子孫に伝わるようになる。やがて、その遺伝子は集団を支配するに至る」

「そういうことね。蛍の、といえば、皇居の堀の蛍がみんな青い光を放つようになっちゃったってやつか。でも、遺伝子改変ってその遺伝子が集団内に広まらないようにしたものじゃないといけない、って法律なかったっけ」

「うん。キットそのものを使って改変された蛍たちは不妊だったし、仮に逃げたとしても、遺伝子汚染は起こらないはずだった」

「でも起こった」

「誰かが、キット付属のとは別の遺伝子編集機をわざわざ使って、妊性を奪うためにノックアウトされていた遺伝子を、故意に元の正常な遺伝子に戻したの。それも、ただ一つの遺伝子じゃない。会社は不妊がより頑健なものになるよう、複数の遺伝子をノックアウトしていた。なのに、犯人はそのすべての遺伝子をきちんと正常なものに差し替えて、発光色改変遺伝子にご丁寧にクリスパーを搭載した上で、逃がした」

「どうせ逃がすなら、希少な虹色蛍にしてくれればいいのに。そうしたら捕まえて売り払ってがっぽがっぽ」

 言っていることとは裏腹に、ひかるの顔はあまり楽しそうではない。

 以来、東京の夜を彩る「天然のネオン」として親しまれていた蛍たちは、「人口のネオン」のように、鮮やかな色とりどりの光を発するようになった。皇居の堀は青、目黒川の桜の下には紫色。不忍池には紅色。こうして、元来の緑色のゲンジホタルは日本の水景から姿を消した。

 ただ、これが思いの外、若者たちの人気デートスポットと聞いて賑わっているらしい。ほとんどの人間は、前戯の前戯になるものには見境はないようだ。たとえ、その裏に血と悪意に塗れた経緯があったとしても、交尾を成就させられるなら構わないということか。

「で、犯人は捕まったんだっけ? それだけ専門的なもの、一部の研究者とかしかできなさそうだけど」

「一体どれだけの人があのキットを買ってたと思う? それに、汎用型の遺伝子編集機も安価に購入できるし、ものによっては、塩基配列の情報だっていくらでもネットに転がってる。高校生でもできるってさ。だから、非難はすべて販売会社に向けられたよ。マラリアの撲滅や害虫、害獣除去で既に遺伝子ドライブを応用している事例はあったけど、そっちはうまくやっていただけにね。遺伝子ドライブが現存する種に壊滅的な変容をもたらした事案の世界第一号だけあって、全世界が鉾を向けた」

「そりゃあ会社もつぶれるか」

 おまけに、会社の倒産後、元社長の変死体が発見された。司法解剖の結果、体内から無数の赤や青に光る蛍が見つかったらしい。テレポーターの仕業だ。

 体内への物体転移がもたらす影響は大きい。わたしも、その影響を僅かながら被った身として、体内転移がもたらす影響については昔から興味があった。小学生の頃、犠牲者の解剖状況についてのコラムを読んだことがあったが、キメラ死体と言われるのも納得だった。臓器や血管の組織が融合したそのおぞましさ故か、多くの解剖医がPTSDになって退職に追い込まれた。そして専門家の予想に反し、医療のオートメーション化は通常の医学よりも、法医学の領域でまず先に遺伝子ドライブを起こしたとも聞く。

 ――コンクリート片はたぶん、相手の脳に転移されたのだと思う。

 ふと、その言葉が脳裏を過った。かつて、一人のテレポーターから聞いた、忌々しい体内転移の話だ。

 マンデリンコーヒーを飲んだ後のような苦いものを口に感じた。それを流したくて、コップに手を伸ばす。空だった。もしひかるが他所を向いていたら、給水サーバーの中の水を直接コップ内にテレポートしようかとも思った。実際に、一人で食堂にいる時にはついついやってしまう。食堂内の給水サーバーの位置は正確に把握している。ここから時計回りに百十五度の十八メートル三十センチ。だから、ノールックテレポートで百ccの水を抜き取ることなど造作もない。高精度アキュラシーを売りとするわたしが最も得意とするテレポートだ。現に、一度も給水サーバーを故障させてはいない。

 ひかるの目を一瞥しようとしたところで、入れてくるよ、とすかさずひかるはわたしのコップをかっさらっていった。ありがとう、と声をかける間もなかった。

 人間は、蟻の巣に水を流し込み、トカゲの尻尾も切る子供時代から何も成長してない。純粋と残酷は紙一重。人間はまだ倫理を知らない。少なくとも、遺伝子を触る上で機能する倫理を進化させる猶予はもらってない。なら、神様は? わたしは顔を上げ、天井のシミに向かって内心毒づく。あなたは何故テレポーターをこの世に生み出したの。純粋な興味故か、あるいは残酷な世界を眺めて遊びたいのか。わたしの色は緑色? それとも妖しげな紅色? その問いに神様は黙ったまま、何も言わない。

 ひかるの「お待たせ」の声が、わたしの意識を現実にテレポートさせる。

「この話さ、『遺伝子工学と社会』のレポートで扱ってもいい?」

「技術と社会」の授業で出された期末レポートだ。提出まではまだ一ヶ月以上あるとはいえ、わたしはまだテーマの検討すらしていなかった。する気力が失せてしまっていた。

「いいんじゃない。ひかるならいいレポート書けるよ。あ、よかったら、一緒に蛍、見に行く? 日曜、上野に行く訳だしさ、そのついでに」

 いいね、とひかるの声のトーンが上がった。わたしもひかるもすぐさまスマートウォッチに話しかけ、メモさせる。

「真弓は何書くか決まってたっけ」

「ううん」

「候補はあるの?」

「いや、まだ」

「珍しい。真弓が課題片づけるの、うちより遅いなんて」

 返答に困った。勉学に対するモチベーションが下がっている本当の理由を言う訳にはいかなかった。

「もしかしてさ、ひかるの遺伝子、寝ている間に遺伝子編集でわたしに組み込んでないよね?」

 こんなときは冗談に逃げるが勝ちだ。わたしは「神妙」の仮面を被って、低い声でそう呟いてみせると、ひどーい、とひかるが頬を膨らませる。わたしはすぐさまその仮面を打ち破り、歯を見せて笑ってみせる。ひかるも膨らんだ頬を弾かせてはにかんだ。

「違法デザイナーベビーの話、だったよね」

 かすかな沈黙が訪れて、薄氷の上にそっと足を差し出すようなトーンでわたしは切り出した。

「あ、そうだった」

「どうしてその話を?」

「授業とかさ、真弓センセーの補講とか受け取るとさ、思うんだよね。これだけ遺伝子編集が一般的になるとさ――」

 わたしはコップに口をつけ、ひかるの話に耳を傾ける。

「ごく一部の例外を除き、国際法でヒトのDNA改変は禁じられているけど、今回の事件みたいに、遺伝子編集の誘惑に耐えられなかったというケースってこれからもっと出てくると思う。あなたの息子は筋、筋ジス……なんだっけ」

「筋ジストロフィー」

「ああ、それそれ。長すぎてうちの記憶領域のビット数じゃ保持しきれないけど、そんな筋なんたらみたいな遺伝病になります。でも、適切な遺伝子編集によってそれを除去できます。それどころか、賢くすることも、瞳の色も、髪の色も、肌の色も思いのままです。そう言われたら、ころっと来ちゃう気持ちも分かる気がする。でも、今、真弓の話聞いて思っちゃった。テレポーターにせしめる単一の遺伝子が見つかってるんだから、テレポーターって、作れるんじゃないの? それこそ、〈ゼウス〉をもう一度作ることができたら、大変なことになりそう。ヒロシマ、ナガサキ、ニューヨークに次いで『忘れるな』と言われる場所にもう一つ追加されてもおかしくないよね。地球、って」

 わたしは、どの仮面を被っていいのか分からなかった。ひかるの目を見られなくて、天井のシミを見上げた。

 神は死んだ。ヒトをつくったのは神などではなかった。そんなパラダイムも、月だけが昇る空のようにある日、突然終わるのだろうか。今度は、ヒトがその座につくときだ。ヒトがヒトをつくる。ヒトがテレポーターをつくる。新たな時代はもう、地平線のすぐ下に来ている。そして高々と空に舞い上がるその時を今か今かと待っている。

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。生徒たちの溜息が、来る何かへの憂慮の現れのように聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る