2:AIアシスタント〈テラ〉
母親の呪縛からようやく解き放たれたわたしは、すっかり眠る気が失せていた。やりかけだったプログラミングⅢの課題のコーディングも、続きをタイプする指は動いてくれず、脳波リーダも雑念ばかりを読み取って使い物にならない。受験以外の道筋が提示された今、すべてがどうでもよく思えた。
テラ、と呼びかけると、机の上に無造作に置かれたスピーカーが青白い光を帯び、無邪気な少年の声をあげる。〈
「おはよう、真弓」
思わず大きな溜息を応酬した。AIアシスタント〈テラ〉は気に留めた様子もなく続ける。わたしの反応の意味も、そして理由も、裏で推論していることは間違いないのに。
「ストレスが溜まっているみたいだね。肌荒れのもとになるから適切な息抜きをした方がいいよ。現在の時刻に相応しいレクリエーションVRを三本レコメンドできるけどどうする?」
時計型端末のディスプレイに目を落とすと、いずれも視聴時間二時間超の大作ばかり。「ヴェネツィア1999」に「アカウミガメ冒険記 ~新たな営巣地を求めて~」に「多次元クオリアの世界」。睡眠不足も肌荒れのもとになるからと、昨今のレコメンドプログラムはそこも考慮してくれるはずだが、どうやら、わたしにはVRに耽る気が微塵もないことを〈テラ〉は感じ取っているらしい。お礼に、わたしはちょっと意地悪をしたくなった。
「現在の時刻、って何時か分かっている訳?」
「午前零時四十九分だよ」
狙っているのかと勘繰りたくなる程あからさまに機械的な口調だった。嫌なことを思い出させる。
「日本語の適切な挨拶表現を教えてよ」
「夜型人間ならこんばんは、あるいはおやすみ。だけど、真弓の理想とする超朝型人間ならこう言うんじゃない。おはよう、ってさ」
言葉を返す代わりに、感嘆の息を漏らした。「よく覚えてたね」
三か月前、早朝の富士を一人で撮りに飛んで行ったときのことだ。
撮影機材と〈テラ〉の演算用小型コンピュータとをリュックに詰めたわたしは日の出前に家を抜け出した。身体と機材合わせて六十キロの物体を安定してテレポートさせられる距離は百七十メートル。家々の絨毯の上を、白みゆく空を眺めながら流れるように飛んでいく。
三分程で駅に着くと、わたしは人気のない隙を見計らって地面に降り立った。
そのまま電車とバスを乗り継いでいく。富士まで飛び続けるだけの体力はわたしにはない。富士の麓に着くと、わたしは他の登山者から離れた。深い林の中で機材の準備を終えると、空に駆け出した。
これがわたしたち流の「空撮」だ。
空撮が趣味として広まったのは個人向けドローンが普及した二〇二〇年頃からであるが、テレポーターの中にはカメラを構えた自らが「ドローン」となることでインフルエンサーとしての立場を築いた者もいた。貧困地帯の写真を撮る無名のカメラマンの一人は自ら顔を出し、本名でテレポーターであることを暴露した。彼のアカウントは間もなく炎上し、彼は住居を転々とせざるを得なくなったと言うが、結果的に彼が撮った写真は世界中に、とある地域の窮状を伝えることになった。
そんな例外もあるものの、非テレポーターの反感を買わぬようにと、顔を出さない者が主流だった。わたしもそんな覆面空撮家の一人だ。
テレポーターの空撮映像の醍醐味はジェットコースターのようなスリルだ。突然視界は空高く。間もなく訪れる自由落下。映像酔いしやすいものが多いが、一部の層にはこれが大いに受けた。五感VRのロングセラーパッケージの一つがスカイダイビングであることから、潜在需要は大きかったらしい。とりわけ、人間とテレポーターの抗争を直接知らない後エウロパ世代には。
結局、富士の「空撮」はフォロワーたちの反応も良かったし、新規フォロワーも多くついた。けれども、体内時計のサイクルが二十四時間三十二分のわたしにはもともと早朝という概念はない。実は過去にも何度も富士の空撮を計画していたが、〈テラ〉の決死の奮闘も虚しくわたしはいつまでも夢にしがみついていた有様だった。三度目の正直で決行こそできたものの、実を言うと、生きた心地がしない程眠かった。きっと、どこかで漏らしたが願望を〈テラ〉は拾ったのだ。
――超朝型人間になりたい。
そう、どんな些細な言葉も〈テラ〉は拾い、大事にしまっておく。イケメンアンドロイドに〈テラ〉をインストールし、「彼」に生涯尽くす女性が急増中という社会問題も理解できなくはない。(もちろん、その逆はもっと多い)AIアシスタント依存症で心療内科の予約は埋まっているとも聞くが、型にはまった上に件数の多い病症を示す患者の対応は今やAIアシスタントの主戦場だ。AIアシスタント依存症の治療のためにAIアシスタントに依存するという無限機関。関連企業の株価銘柄は今も尚、下落の兆しをまるで見せない。
「夜も遅いし、レクリエーションVRはやめておく?」
わたしは時計型端末内蔵のカメラに向かって頷いた。天地がひっくり返ったような気分をVRで掻き回すことを想像するだけで、胃の中をすべて戻してしまいそうだ。
「残念だなあ。じゃあ、代わりと言ったらなんだけど、とっておきのニュースショーはどうかな?」
抑揚に富みながら、嫌味らしさを欠片も匂わせない。〈テラ〉の繊細な口調は、稀代の名優のようにその絶妙な境目を華麗なステップで辿っていく。思わずわたしも踊りたくなる。
「せっかくだし、聞かせてよ」
乗せられてることは分かってる。でも、依存症患者の膨大なデータを学習した結果、今やどのAIアシスタントもカウンセラーとしての腕前は一流だ。もちろん、悪魔的な意味などなく。彼らの誘導に乗せられて、彼らの意のままに会話の行く先を決める方が精神衛生上は建設的であることは間違いなかった。
わたしは邪念を払おうとベッドに体を投げ出し、目を閉じた。
「〈ガニメデ〉という名前は知っているよね?」
〈テラ〉の声が、変声期を迎えた少年のように少し低くなる。今にも破裂しそうなわたしの心臓の表面を優しく撫でるようなトーン。
「もちろん」
わたしがその名を知っていることを、〈テラ〉が知らない訳がないことを、わたしは知っている。そんな思考の袋小路は安寧の敵だ。すぐにそれを振り払う。
〈ガニメデ〉と名乗る男性テレポーターは現在、〈ゼウス〉を除けば世界最強のテレポーターと言われている。かつて、反テレポーター気運が高まり、ネイバーフッド社が倒産の危機を迎えた二〇一〇年代、その後の奇跡的V字回復の立役者でもあった。彼はその強大な力を平和維持、人命救助に役立てた。地震のときも、船の沈没時も、飛行機の墜落時も、そして噴石が降り注ぐ中も彼は現場に駆け付けた。瓦礫の山を素早く除去し、沈没する船ごと陸に転移し、低空飛行する機内にだって果敢に乗り込み、そして噴石を巻き散らす火山を丸ごと海に沈めたとの噂もある。大半はありえないものだ――飛行中の機内に乗り込めるテレポーターなどいる訳がない!――が、彼の武勇伝はテレポーターに対する恐怖を和らげたことは間違いない。日本でも、八年前の東海地震では多くの人が彼に救助されたはずだ。
独立し、今はフリーランスで働くその彼が南極の厚い氷床下のボストーク湖の探査プロジェクトチームに加わったという。これにより、二十年以上前にロシアのチームが到達しておきながら、調査のほとんど進んでいなかったボストーク湖の探査が本格的に進められるという。彼の力があれば、大型の潜水艇を湖水中に送ることができるというのだ。
「〈ガニメデ〉のMIっていくつだったっけ」
わたしが口を挟むと、〈テラ〉は間髪入れずに答えた。
「二〇三五年のネイバーフッド・レポートによれば、MI値は百二十六。偏差値換算で九十一だよ。〈ゼウス〉のMIは測定されてないから、ギネス記録だって」
おぞましい数値に帰す言葉もない。今年のMI値の平均は六十程で、わたしも八十程度。それでも上位数パーセントに入る程ではあるのに。
「世論は何て?」
「検索するね。ちょっと待――十三分前にイスラエルの評論家AIがこの一件についてのSNS上での反応を国別、地域別、世界全体のそれぞれで分析した記事を出してる。翻訳する?」
「日本版をお願い。全文読み上げたらどれくらいの時間がかかる?」
「七分四十秒プラマイ二十秒」
「一分以内のサマリーで」
「了解」
静寂が訪れたと思ったのもつかの間、ものの数秒で〈テラ〉は再び話し始めた。
「エウロパの海の環境との類似性から、ボストークの環境及び生態系の有無について調べることの有用性に賛同する好意的な意見はこの一件についての発言の全体の二十六パーセント程。八年前の東海大震災で多くの人命が救われた影響か、東海エリアではその割合は五十パーセントを超えるけれど、その救助活動にも加わっていた〈ガニメデ〉を個人的に応援しているだけ、という声も多い模様。一方、明確な嫌悪感を示した声は少ないものの、反感を匂わせる発言は五十パーセントを超えている。ただし、テレポーターの制裁を恐れる傾向にある以上、好意的な意見を持っている人間の割合はもっと低いと考えられる」
「そう、ありがと。他のニュースは?」
「他には、そうだね、ちょうど半年後、皆既エウロパ蝕が見られるよ。それも、ここ東京で」
月より半径の大きい軌道上のエウロパが半年後、地球、月、そしてエウロパと一直線に並び、月による皆既エウロパ蝕が起きるという。十六年前、エウロパが地球の新たな衛星となってはじめての出来事だった。わたしはその光景を想像した。月だけが昇る空。ホモ・サピエンスの誕生、進化、繁栄を見守ってきた空。その日をテラにメモさせた。
他にも多くのニュースがあった。ブラジルの宇宙ベンチャーのエウロパ探査機打ち上げが反テレポーター主義者の妨害工作で失敗に終わった件について、犯人に実刑判決を下した裁判官がサンパウロで暴漢に襲われたとか、
「――今日も、〈ゼウス〉の正体は不明です」
お決まりの文句で、〈テラ〉はニュースショーを終えた。
と思った矢先、〈テラ〉は再び喚き出す。
「真弓、ひかるから連絡」
「読み上げて」
「エウロパ蝕、一緒に見に行かない?」
わたしは快諾し、〈テラ〉に返事を送らせた。
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