3:赤色蛍の池の淵で
日が傾き始めた頃、近くの養殖ウナギの定食屋に入った。夕飯の時間にはまだ早かったが、日曜の夜は混むから早めに、と〈テラ〉がアドバイスをくれたのだ。それでも、席はほとんど埋まっていて、メニューを選んでいる間に、外には列ができていた。外国人の割合が半分程だった。提供を待つ間、ひかるが訊いた。
「真弓。この間の模試、どうだった?」
先月受けた、大学受験共通試験の模擬試験のことだ。
「ちょっと成績落ちた。思考力パートは相変わらずだけど、知識パートでも七十届かなかった」
「ほんと? 珍しい」
「ひかるはどう?」
わたしは間髪入れずに聞き返した。成績が落ちた事情を蒸し返されるのは嫌だった。
「相変わらず。知識パートが五十すれすれ」
「でも、思考力パートは安定の八十オーバーでしょ」
「まあ、そうだけど」
ひかるはばつが悪そうに俯く。堂々としろよ。MENSAにだって軽々と受かるIQの持ち主のはずでしょう、あんたは。それを謙遜して、うちなんて大したことがない。その言葉が持つ鋭さは、時として持たざる者の心を簡単にスパッと両断することを、この子は分かっているのだろうか。
でも、わたしも同じ穴のむじなだ。ただ、悪い気はしない。わたしにも持てるものがあるのだから、ひかるの謙遜の切れ味が心地よくすら思える。わたしは頭の中で、自分の刃でひかるを切り裂いて、その返り血で濁った心を洗い流している。だから、ひかるの言葉で、わたしも切り裂いて欲しかった。自分の血と、返り血とが同じ色をしているのを見て初めて、わたしはひかると対等になれる。
「ひかるの思考力が本当に羨ましいよ。地元の公立小学校じゃ一番の成績だったけど、この進学校に入学してさ、あんたみたいな化け物に打ちのめされるの、結構効く」
「うちだって、真弓の知識が羨ましいよ。早く二十歳になって、脳内SSDの移殖をしたい」
「それはわたしだって」
「真弓はいらないでしょ。記憶力いいんだから」
「わたしだって忘却力あるよ。忘れたくないことも、どんどん風化してく」
「ちょっと、意外」
ひかるは独り言のようにそうこぼして、緑茶を啜った。
「ねえ、真弓」
改まってひかるが言う。
「何?」
「どの大学受けるか、決めた?」
その言葉を聞いたとき、わたしがまず気にかかったのは、「進路」という言葉をひかるが使わなかったことだ。わたしたちが通う高校は進学校だから、九十九パーセントの生徒が大学に進学する。東大の合格者数も女子高の中ではトップクラスだし、海外の大学への進学実績も多い。だから、わたしもひかるも、言われた通り勉強して、大学を受験する。それが当然の進路だと思っていた。それ以外の進路はわたしの中にはなかった。
ヴィオラが現れるまでは。
これから越えなければならない受験という壁を乗り越えなくていいというオプションは、この学校で平均すれすれのわたしには喉から手が出る程欲しいもの。得るものも大きいであろう代償に、失うものもあまりにも多いことは百も承知だし、完全に大学受験を諦めた訳でもない。
けれども、大学受験に本気にならなくても進路はある状態になって、勉強に身に入る高校生はいないだろう。どうせ、ここからの勉強を片手間にしたところで、先生の期待には応えられないが地方国立には受かる見込みは十分にある。むしろ、地方に行ける方が、ひかると縁を切らざるを得なくなったときのために、都合がいいかもしれない。ヴィオラを見たことで、わたしの中にひかるが埋め込んださぼり遺伝子が目覚めた脇坂真弓という個体はそう考えるようになっていた。
気が付くと、ひかるがわたしの顔を覗き込んでいた。そこで、ああ、と息を漏らす。ひかるの質問に答える仮面を被り忘れていた。
「真弓、もしかして恋の悩み?」
ひかるがいじわるそうな目つきでわたしの顔を覗き込もうとする。長い付き合いになったから、彼女の真意くらいは分かる。照れ隠し。ひかるが見せる最大限の配慮。
「そうかもしれない」
わたしはノリのいい仮面を選び取り、乱雑に顔面に張り付けた。ひかるに通用する気はしなかったが、給仕アンドロイドがやってきて、会話をちょうど妨げてくれた。
ひかるは追求しなかった。ただ、うなぎを口に運んで、美味しいねとえくぼを作った。
わたしも口に運ぶ。美味しいね、とオウム返ししたものの、味付きゴムの蒲焼定食六百八十円はどうにも好きになれそうになかった。
養殖ウナギ屋を出た頃には日は既に沈んでいた。ゴムの重さと味の濃さがどっしりと腹にのしかかる感覚に思わず顔をしかめる。
わたしたちは再び上野公園に戻る。日が暮れた後の上野公園は一転、鬱蒼としていたが、時折、わたしたちと同じ方向へ向かう仲睦まじい二人組の姿をよく見かけた。
「やっぱり、あれってカップルで見るもんじゃない?」
周囲にちらちらと目をやりながら、ひかるがぼそりと呟いた。
「わたしが女で悪かったね。というより身長的には、ひかるが男になればいいんだよ」
思わず口を突いて出た言葉に、ひかるは虚を突かれたように目を見開く。
「別に、そんな意味じゃ」
「でも、ひかるってそんなこと、気にしない人かと思ってた」
「うち、今褒められてる? それともけなされてる?」
「前者に決まってるでしょ。わたし、人前で鼻くそほじくる勇気ないもん」
ひかるはむすっとして見せたが、すぐに前を向き直り、あ、と声をあげた。
開けた土地が眼前に広がった。目の前の草原に見えたものが、池に浮かぶ蓮だと気づくのに、少し時間がかかった。
わたしの目の前を、赤い光が横切った。
手すりに腕を乗せた私たちの目の前で、湖面から伸びる蓮の茎や葉の合間を縫うように、数々の明滅する赤色光が行き交う。引き込まれるように妖しいその赤はバラのように、棘を連想させた。ただ、棘を植え付けたのは、わたしたち、人間の側だ。
――ねえ、綺麗だよ、ほら。
どこかから、女の子の黄色い声が聞こえた。彼氏らしき人も、感嘆の声を上げる。どうやら、その反応はこの界隈では典型的なものらしい。わたしは、はしゃぐことも、目を見張ることもなく、無言で呑気に飛び回る蛍たちを眺めていた。ふと隣に目をやると、ひかるも口を閉ざしたまま、空を舞う光を目で追っていた。
どこの言語かは知らないが、今度は甲高い外国語が聞こえた。新婚旅行らしい。若い外国人カップルがいた。意味は分からなかったが、彼らの真意は、〈テラ〉に命じる間もなく、彼らの瞳の中で赤い光が躍る様子を見れば明らかだった。
ドローンも一機、飛んでいるのが見えた。本体の下には箱ではなくカメラが複数ついている。配達用じゃない。個人の空撮用だ。ドローンは池全体を跨ぐように懸命に赤色光を追いかけている。どこかにいる空撮家本人のコンタクトディスプレイに写像を同期させているのだろう。ただ、蛍に目を向けすぎて、柵にある「空撮禁止」の張り紙は目に入らないらしい。
空撮家の品位を守るためにもああいう輩には罰が必要だ。
わたしは〈ナビゲーテル〉を起動することなく、ドローンに意識を向けた。位相破壊〈不全〉の補助シークエンスもプレインストールされているが、〈ナビゲーテル〉を使ってしまえば、器物破損のログを残してしまうことになる。
それが空中で静止した瞬間、その座標から同一座標へのゼロ距離テレポートを実行する。そのゼロ距離射影の瞬間、不連続なねじれをカメラ部分にかけてやる。
位相破壊〈不全〉。
見た目はまるっきり変わらないが、機械の精緻な内部構造には大ダメージ。映像が切れたことに本人も気づいたのだろう。すぐにドローンは岸辺の方へと飛んで行った。
「――一体さ」
波紋を立てない程に落ち着いて低い声がひかるの方から聞こえた。
「どれだけの人が、真相を知っているんだろうね」
わたしは答えられず、周囲を見渡した。空を舞う光を笑顔で指さす若い女性。観光地の一つを訪れたかのような趣の外国人。
「見た感じじゃ、ほとんどいないでしょ。というか、興味なさそう」
「うちが言うのもあれだけど、あの人たちの一体何割が、ヒトの染色体の数を言えるかな」
わたしはひかるの顔をまじまじと見た。ひかるがそんなことを言うとは思わなかった。
視線に気づいたひかるは、バツが悪そうに目を反らす。
「だって、客観的に見ても、うちの方が物事を考える能力が高い可能性の方が高いから、さ」
「確かにね」わたしは苦笑を返した。
「あんたに思考力で勝てる大人がどれだけいるかって話。謙遜しなくていいと思うよ。事実だから」
そうきっぱりと言い切って見せると、今度はひかるも嫌そうな顔をした。
「それって嫌な感じ。それに、うちが得意な能力だって、直に脳神経インプラントによる知能向上で差詰められちゃうよ。ほら、スーパーインテリジェント社が来年の発売を発表したじゃん。世界初の知能向上インプラント」
「ああ、あれね。でも、仮に〈アルジャーノン〉が本当に白痴を天才にせしめるような代物だったとして、この蛍の光から問題を見出すようになるかな」
「それは、あまり想像できないね」
「でしょ。綺麗だねと甘い声で囁いて、ムードを盛り上げるだけの大人のまま、たぶん変わらない。囁く言葉の語彙のレベルが文豪のそれにはなるかもしれないけどさ。あるいは、そういうことを考えられるように価値観や性格をいじったらいけるだろうけど、それじゃもう、本人とは言えないでしょ」
ひかるは俯き、口を閉ざした。
「わたしたち人間が自然を変えた。改変した。赤い光はその傷跡」
「改造されるってどんな気分なんだろう」
ひかるがぼそりと言った。その言葉は、わたしの胸にはしっくりと収まらなかった。
「何も変わらないと思うよ」
ひかるがこちらに目を向けた。
「だって、蛍たちは遺伝子を変えられた被害者じゃん」
「そうしたら、わたしたちは、自然選択に遺伝子をいじられつづけてきた被害者の末裔って訳」
ひかるは口を半開きにしたまま答えなかった。わたしは再び湖に目を向け、幾つかの光を目で追いながら、話を続ける。
「あの子たちにとっては、自分が光る色を誰が決めたかなんて関係ない。何色に光るかも関係ない。だから、あの子たちは、あの子たちにしてみたら、正常なんだよ。だって、そう設計されて、設計図通りに育っただけなんだから。むしろ、遺伝子の突然変異で、たまたま元の緑色の光を放つようになった個体がいたとしたら、異常なのは果たしてどっちだろう」
「でも、あの蛍は自然界には存在しないよ」
「自然って、何?」
ひかるは答えられず、俯いた。
テレポーターは果たしてどうだろう。そうなるべく設計されたわたしたち。テレポーターの起源は明らかになっていない。表舞台に出てきたのは今世紀になってからだが、魔女、忍者、神隠し……かつてあったとされる超常的な現象の裏には、少なからずテレポーターが関わっていたと考える歴史学者もいるらしい。それはともかく、設計したのは、神様か、あるいは偶然のいたずらか。その違いを除けば、わたしたちテレポーターは目の前を行き交う赤い蛍と何ら変わりはない。わたしたちはそう設計された。そして設計図通りに育っただけだ。だから異端者なんかじゃない。れっきとした人間の一個体。
わたしはひかるの横顔に目を向けた。
なのに、わたしたちはこうやって、身近な人をも未だに騙し続けている。肌の色も、性的指向も、長い氷河期を乗り越えたというのに、わたしたちの間氷期はあとどれだけの月日続くことだろう。芽吹く春はどこにあるのだろう。
目の前を、呑気な赤い光が横切った。
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