Earth Ⅱ Europa(初稿)

瀧本無知

プロローグ

 高層ビルの屋上から足を投げ出すようにして腰掛け、色とりどりのネオンの海を見下ろす。大潮がもたらす波が互いにぶつかり砕けあい、飛沫をまき散らすように、米粒のように小さな人々の群れが蠢き続けている。彼らはきっと自らの周りの世界に夢中で、見下ろされていることに気づきもしないのだろう。

 神にでもなった気分だ。その高揚感が体を突き抜けるのと同時、その残滓から生まれ落ちた黒々とした塊が喉につかえる。誰が神だ。彼らとわたしの何が違う。その塊を飲み込んだ後も、しばらく胃はむかついていた。わたしは自ら望んで、下界を見下ろすことで心の安寧を図るようになったのではない。わたしをそうせしめるのは、忌々しい血のせいだ。

 わたしは頭を上げた。暗雲を退けて、空の中心で静かに微笑む円い光と相対する。太古の昔から、そしてわたしの生まれる数か月前まで、この星の夜を照らす唯一の存在だったもの。地球第一衛星、月だ。今夜は彼女の独擅場だった。

 けれども、神も、ヒトも、天の座からいつの日か引きずりおろされたように、月ですら、夜の天下の座から降ろされる時はやってくる。わたしの願いは届くことなく、忍び寄る暗雲が優しい光を飲み込んで表舞台から引きずり下ろすと、今度は別の暗幕の切れ間から青白い光が漏れ始めた。その潮汐力はわたしの胃の中から苦いものをこみ上げさせる。程無くして、その凶星は姿を現した。

 月の半分程の直径に見える、青色がかった星。地球第二衛星、エウロパ。わたしは視線を自分の右掌に落とした。その真ん中に刻まれた円形の痣。死んだ兄の置き土産。わたしはこれを「月」と呼んでいる。わたしはエウロパ目掛けて手を伸ばした。指をかっと開き、掌の月をエウロパに向ける。目を瞑り、あの光を残さず握り潰すように、拳を握り締める。恐る恐る目を開ける。指の隙間から青白い光は漏れ出していた。まだだ。まだ、わたしの力はあの星には届かない。

 既に十一時を回っていた。父は仕事でしばらくイスラエルにいる。家では母が物を飛ばし散らかしていることだろう。それが却ってわたしの腰を重くさせた。彼女が怒るのは娘の安否を心配しているからではない。娘を人間ごときが捕まえられないことは、彼女が一番分かっている。ただ、代々続く由緒ある家系で、その血を正しく継いだ最後の人間である愛娘が、責務を果たさず、矜持も持たず、鳥籠の外で自由に空を闊歩していることが、彼女の神経を苛立たせるのだ。相応しい行動をしなさい、と彼女は叱責することだろう。ただ、相応と錯誤は紙一重だ。彼女の時代は鳥籠の中にしか安寧はなかった。でも、時代は変わった。

 重い溜息をビルの屋上に残して、わたしはネオンの海に飛び込んだ。

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