3:ひかる

拡張耳A E〉が嫌いな、遅刻常習犯のある同級生が言った。テレポーターだったら遅刻しなくて済むのに、と。それは嘘だ。テレポーターの八割は自分自身をテレポートさせることすらできない。仮にできたとしても、ほとんどのテレポーターが友達にもその正体を隠しているこのご時世で、見つからないようにテレポート通学するのは骨が折れる。そして何より、テレポートによる街中の移動は屋上や屋根を伝っていく空路が基本となる故に、その建造物を万が一にも損壊させてしまうと、示談になったとしても、本名とテレポーターであることが全国に晒される。待っているのは社会的制裁だ。

 そもそも、電車で通うような距離を連続してテレポートで移動するのは、全力で東京湾防潮堤一周を走破するようなものだ。ずっと走りながら通学したいと思う人間はいないように、わたしもメトロの定期利用権を購入しているし、実際、通学は公共交通機関を使うことがほとんどだ。

 ただし、危急時は違う。わたしも、〈AE〉は耳の裏を舐められるような感触がするから好きではない。普段、アラームは旧型スマートスピーカーに任せている。一回だけ、充電のし忘れで、致命的な時間に起床してしまったことがある。その時ばかりはわたしも覚悟を決めた。

 しかし、これが思いの他神経をすり減らした。日は既に昇り、通勤通学者も宅配ドローンも多い時間。ドローンはわたしを見ても、怯えなければ石を投げつけても来ない。ただ、制御AIが突然近くに現れたわたしを異物と認識し、飛んで逃げていく様を見るのはあまりいい気分とは言えなかった。

 やがて住宅街を抜け、雑居ビル群にやってくると、その注意は不要になった。反面、息はだいぶあがってきた。純白のスーツに身を包む黒人女性の写った看板のある建物だけを選んで空路を作っていく。

 家を出て三十分。高校近くのマンションの屋上に降り立つ頃には立ち上がれない程にへたっていた。それで節約できた時間はたったの二十分。

 結局そこで五分程休んでから、校内への転移を目論む。アリーナの屋上に降り立ち、端に移動して実験棟との間の狭い通路を見下ろす。人気のないことを確認し、ようやく地面に降り立った。そこからは走って教室を目指す。二分の遅刻だった。

 以来、緊急時には〈AE〉を起動して耳の裏を舐めまわせ、と〈テラ〉に命じてあった。昨日の夜更かしのせいで、ぞわりと虫唾が走る感覚で飛び起きたわたしは辛うじて正規の通学路で間に合う時間に家を出た。面倒くささはあるが、わたしは徒歩での通学が嫌いじゃない。

 駅に向かう道のりで、制服姿やスーツ姿の人間たちが合流する。似たような恰好に身を包むわたしは易々とその流れに溶け込むことができる。見上げると、ドローンは頭の遥か上を忙しそうに行き交っている。ドローンを見上げるのは好きだ。周囲に目を向けると、均一な恰好をした記号のような人間たちは、頭上を飛び交うドローンに目も向ける素振りすら見せない。

 途中、自動運転バスがわたしたちの列を抜かしていった。ふとそちらに目を向けると、その筐体の側面には見慣れない広告がある。「水の都へもう一度!」とか「AIアシスタント依存症治療にはAIメンタルクリニック」とか「新しい終活 ~マインドアップローディング~」とか。広告のバリエーションは豊富で見る度に新鮮な気持ちになれるのは羨ましい。だって、わたしが普段見る上面には、ネイバーフッド社とオプティマイジーン社の広告しかないのだから。


 わたしは都内にある私立の女子高に通っていた。サイエンス特化型の高校で、今や多くの業界で欠かすことのできない理系リテラシー全般を高校の課程で習うことができる。各々が得意とする分野では大学レベルの課程まで習えるのも魅力の一つだ。日本のみならず海外の有名大学にも多数の入学者を輩出している日本有数の女子高として、名を馳せている。

 小学生のわたしが天狗になっていたのは、加護が存分に機能していたのは、通っていた公立の小学校でわたしにテストの点数で勝てる同級生がいなかったことも大きい。六年生の間はほとんど学校には行かなくなっていたが、レベルの低い授業を受ける代わりに、有名私大に通う大学生のお姉さん家庭教師が興味を引く研究の話をいっぱいしてくれたのだから、不登校を問題には感じたことはない。

 ただ、いざこうして私立の進学校に通い始めると、わたしの伸びすぎた鼻はあっという間にへし折られた。わたしの頭脳は、ここでは平均。暗記はずば抜けて得意だったが、大人になれば、脳内インプラントを埋め込んで、記憶を引き出すようにネットから情報を引き出せるのだから、それは生涯の特技とは言えなくなる。ひかるのように、定期テストは赤点すれすれながら、模試で全国一位を叩き出す化け物を見て、わたしはようやく井の外の世界の一端を知った。

 わたしは、加護の半分を失った。ただ、それを補うように、血の加護は、わたしが力を伸ばすと共に、その効力も増し続けていた。月が暗雲に飲まれても、エウロパの妖しい光が夜空を照らすように。そして、加護に縋ることでしか心の平穏を保つ手段を知らなかったわたしは、ますますそれに依存するようになっていた。

 たとえば、模試で全国一位を取ったひかるがはしゃいでいるとき。わたしは自分のテレポート能力の限界を考える。そして目の前で満開の笑顔を花咲かせる少女にはその力がないのだと考えると、不思議と嫉妬心は霧消する。その気になれば、ノールックテレポート使いのわたしは彼女の心臓だけを抜き出すことができる。脳幹に小石をぶち込むことだってできる。

 でも、わたしがそんな物騒な思考で心を鎮めていることなど露知らず、ひかるは無邪気に笑い転げていた。


「このライブを聞いている皆さん、〈ガニメデ〉です」

 彼のペルシャ語の上に、彼の声色で話された日本語が被せられる。

 わたしは休み時間を、コンタクトレンズ型ディスプレイで動画を見ることで過ごしていた。音声は〈AE〉から、わたしだけに聞こえるように。今見ているのは、ボストーク湖探査プロジェクトに世界屈指のテレポーター〈ガニメデ〉が加わったことについてのインタビューのライブ配信だった。そのライブ配信の音声にわたしはAIアシスタントの拡張機能の一つ、〈コンジャック〉を使っていた。その売りは自動翻訳機能と機械学習による声色の再現だ。特に後者の技術は、語り手の声色をそのままに世界のありとあらゆる言語への翻訳を可能とする。自分の母国語や英語以外の言語の話者のライブも気軽に見られる上、翻訳先の言語を、話者の声色そのままで聞けることが人気に拍車をかけた。自動翻訳字幕や読み上げは既にあったが、声調再現技術は開発したベンチャーを一躍上場に押し上げ、声優たちは映画の吹き替えという仕事を失った。

「この度、は一体となって、このプロジェクトに挑みます」

 その瞬間、会場の空気がどよめくのが通信越しにも分かった。彼らは反テレポーター論者である可能性が高いのではない。エウロパが地平線から昇るようになったあの日から世界は一つになったのだ。その代償に、人々は隣人がどちらの側であるかを考えるのを放棄した。

にも拘わらず、〈ガニメデ〉は言った。我々人類、と。わたしたちが考えることを放棄したことを、指摘したのだ。

 同じ種であるかどうかという観点から言えば、テレポーターも、非テレポーターも同じ種であろう。X染色体上にある擬似常染色体領域PAR1のとある遺伝子の型がどれであるかという違いでしかない。眼が青いかそうでないかの違いと一緒だ。交配はもちろん可能だし、複製時のエラーで、非テレポーターからテレポーターが生まれることもあれば、その逆だってもちろんありうる。

「――真弓、ちょっと助けて」

 依田ひかるが、わたしの意識を現実に引き戻す。わたしは素早く二度まばたきをし、ライブ配信を止める。一応、ライブ映像のダウンロードは〈テラ〉に命じてある。

「どうしたの、ひかる」

「さっきの遺伝学の授業だけど、インド映画を字幕なしで見ているような気分だった」

「ほら、の授業、寝てるから。谷原先生、悲しむよ」

 記憶容量を補完したい、とは彼女の口癖だ。もっとも、脳の成長に悪影響を及ぼすからと、脳内ストレージ含め、脳への外部デバイスの接続は「二十歳になってから」であるが。

 確かに、生物、化学系の分野では暗記も多いが、生物の組織も進化も結局はアルゴリズムの一種。数学で表現できることに変わりはない。先月、ヘルシーさを極めるために遺伝子改良された鶏肉を原料としたクリスパーチキンを一緒に食べに行ったとき、わたしはそのことを指摘してみた。衣を噛むサクサクとした音とは不釣り合いなくらい、ひかるは頑として首を横に振った。まだ分からないことが多すぎる、だとか。プログラムのバグは煮詰めた思考がほぐしてくれるが、生化学のバグの解決は時の運が答えをもたらすこともあることが附に落ちないらしい。わたしはひかる程の論理的思考力を持ち合わせていない。そこまでひかるに勝っていたら、わたしはもっと傲慢になる。

 という訳で、食堂で昼を共にしながら、わたしは先の遺伝学の補講をひかるにすることになった。

 記憶容量が平均以下と豪語するひかるは、こうしてわたしによく補講をお願いしてくる。知り合って間もない時期は、自分より頭の悪い同級生によくそんなことを言えたものだ、と憤りを覚えたものの、付き合ううちに、彼女はわたしたちの頭の良さを天秤にかけるどころか、天秤そのものが彼女の頭の中にはないことが分かった。わたしが思考のベースに天秤を用いているからといって、隣人がそうとは限らないということは目から鱗だった。ただ、彼女は自分とわたしの得意分野を知って、彼女自身が苦手なことをわたしに頼ろうとしてくれているに過ぎない。つまるところ、彼女にとってのわたしは、苦手なところを補い合う、対等な存在。

 そう気づいてから、わたしは加護を脱ぎ捨てて、彼女に接することができるようになった。そんなことができる友達は初めてだった。


「また、ビタミンサラダに合成たんぱく質ハンバーグに玄米飯の小? そこまで人口食料に拘らなくてよくない?」

 ひかるの冷たい視線はわたしの目の前の盆の上に注がれていた。視界の端に投影されたレシートを拡大表示すると、接種カロリーはたったの四百十三。

サラダには東京湾沿岸の植物工場で作られた遺伝子改良済みの無農薬野菜だけが使われているし、ハンバーグも同じくたんぱく質工場で作られた低カロリー高たんぱくの原料百パーセント。人口食料は安くてヘルシーだからと、〈テラ〉流のダイエット食にはよく組み込まれる。

けれども、人口食料の普及は数年前に始まったばかりで、心理的抵抗の強い人も多く、この食堂でもほとんどが天然食糧を用いたメニューばかり。

「真弓、ただでさせ痩せ型なのに、その癖ダイエット食を食べてどこを目指しているの」

「ひかるみたいに大きくないし、本当に胃がちっちゃいだけから」

 相当の痩せ型であるわたしは、一部の同級生たちにとても羨ましがられる。その上、わたしの過度な小食とヘルシーな人口食料への拘りは体重維持への病的なまでの余念のなさに映るようだ。真相は彼女たちの想像の及ばないことであるが、それを言えるはずもなく、小食を装うのが一番楽だと学習した。もちろん、食べた気はしない。

ひかるは頭を上げ、息を吐いた。

「真弓、鹿みたいに細い手足してるんだし、これ以上痩せたら骸骨になっちゃうよ」

「ただただ、食べられないんだって。それに、今の時代、よく食べて背の大きな方がもてるよ」

 ひかると並ぶとき、わたしはひかるの顔を見上げなければならない。その度に、この圧倒的なまでの身長差が愛おしく思える。わたしは、ひかるを見下したくはない。

 ひかるはまたラーメンをすする。その豪快な食べっぷりは見ていてちょっと気持ちいい。 雑談も程々に、二人の食器が空になると、互いにタブレット端末を取り出した。

「さて、今日の授業の補講になる訳だけれど」

 わたしはあからさまに声のキーを落としてみせる。〈テラ〉の真似だ。

「お、真弓センセースパルタモード」

「分かったのはどこまで、ひかるくん?」

 わたしがそう訊くと、ひかるはうーん、と口をすぼめた。一旦ラーメンのスープを啜り、どんぶりをお盆の上にどんと乗せ、げっぷを挟んでから、彼女は答えた。

「今日の授業で使われていた言語がインド語、というところまで」

 わたしは天上を仰ぎ、天井の小さなシミに向かって「オーマイゴッド」と言った。

「それじゃあ、文法の確認からしようか。語の」

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