13
薄らと意識が浮上した時、ルウンは顔に淡い光を感じた。
その光に誘われるように目を開けてみれば、柔らかい月明かりが窓から差し込んでいる。
ルウンは、目をこすりながら体を起こした。
見回せばそこは自分の部屋ではなくトーマの部屋で、なぜここで眠っているのかを考える。
しばらくすると、全てを思い出して一気に目が覚めた。
急いでベッドから下りると、足の裏につるりとした感触があって、気がついた時には既に床にお尻を打ち付けていた。
「いたっ……」
痛む箇所をさすりながら、ひらりと舞い上がったものを目で追いかける。
ふわふわと宙を舞って床に落ちたそれに手を伸ばして拾い上げると、すっかりくしゃくしゃになった紙を持って立ち上がる。
踏み外さないように慎重に、でも素早く階段を下りると、部屋の中をぐるりと見渡した。
やはり、どこにもトーマの姿はない。
テーブルを見れば、手つかずのサンドイッチと空のカップが、自分が残していった時のままで置いてある。
薄暗がりの中を彷徨うように歩いて、ルウンは窓辺に向かった。
月明かりが、庭を明るく照らしている。星も出ているようだから、きっと明日もよく晴れるだろう。
雨季は、本当に終わってしまったのだ。
これからは外でお茶ができるし、洗濯物も干せる。でももうそこに、トーマの姿はない。
いつになく明るく照らされた庭を眺めながら、こみ上げそうになるものを何とか押し込める。
泣いてはいけない。泣いたら、止まらなくなるから。
テーブルと椅子は傷んではいないだろうか。もし森の木が倒れたりして道を塞いでいたら行商人はここまで来てくれないから、明日辺り見に行ってみよう。
あれやこれやと考えて、無理矢理に別のことで頭をいっぱいにする。
それなのに、庭を眺めていた視線が、ある一点で止まった。止まってしまった。
そこは、雨季が始まるまでの間のトーマの定位置。
いつも彼はそこで、空を見上げて寝転んだり、真剣な顔で洋館を見上げていたり、ノートに視線を落として熱心にペンを動かしたりしていた。
またこみ上げそうになったものを振り払うように、ルウンは急いで視線を外す。
けれど、何かが引っかかってもう一度、今度は少し窓に顔を寄せて同じ場所を見つめた。
何かがある。いや、何かが――誰かがいる。
微動だにしないから初めはただの影かと思ったが、そこに影ができるようなものは近くにない。
そうだ、あれは――影ではない。
脳が理解した途端、ルウンは窓から離れて飛ぶように部屋を横切る。
胸にしっかりと紙を抱いたまま、体当たりする勢いで扉を開けて外に出ると、勢い余って前のめりになった体を何とか転ぶ前に立て直し、しっかりとその場所を見据えた。
地面に座り込み、ぼんやりと月を見上げる姿に、胸がいっぱいになる。――やっぱり、さようならではなかったのだと。
走り出したい気持ちを抑え込んで、あえてゆっくりと歩いていく。
もしもこれが夢だとしたら、きっと走り出した途端にその姿は消えてしまうから。それが怖くて、これは現実であると確かめるように、その姿をしっかりと視界に捉えたまま進んでいく。
しんとした庭に、草を踏む音がよく響いた。
それなのに、彼は視線を下ろさない。その眼差しは、空に浮かぶ月に向けられたまま。
途中で、やっぱり怖さが勝って足を止めた。
これは幻なのだろうか、夢なのだろうか。だから彼は、決して視線を下ろしはしないのだろうか。
二人共に目一杯手を伸ばしても触れられない。けれど、お互いの顔はしっかりと認識できる距離で、ルウンは立ち止まる。
しばらくジッと見つめていたら――彼が、トーマが、ようやく視線を下ろした。
「やあ」
出会った時と同じ言葉。けれどその顔に浮かぶのは、あの時とは違う、どこか思い悩んでいるような歪な微笑。笑っているのに、笑っていない。
迷うように二、三歩踏み出して、ルウンはまた足を止める。でも、我慢できたのはそこまでだった。
「……っ!!」
名前を呼んだ、つもりだった。けれどそれは、どうやら声にはならなかったようで。
「うおっぶ!?」
突然駆け出してきたルウンに反応する暇もなく、トーマは勢いよく飛び込んできた小さな体を受け止める。
しかし衝撃に耐え切れずひっくり返ったトーマは、ルウンからタックルを食らった箇所だけでなく、ひっくり返った拍子にぶつけた背中や後頭部にも鈍い痛みが広がっていくのを感じた。
けれどルウンには、それを気にかける余裕はない。
「トウマ……!」
今度はしっかりとした声で名前を呼んで、飛び込んだ胸元に顔を押し付ける。
夢でも、幻でもなかった。トーマの心臓は、間違いなく動いている。少し早いその音が、ルウンの耳にも確かに届いていた。
その鼓動を感じたあとは、顔を上げてトーマを見つめる。
ジッと見つめると、トーマの肩がビクッと揺れて、また少し鼓動が早くなった。
確かにここに居るのだと分かった途端、ルウンの中で押さえ込んでいたものが溢れ出す。もう、止められなかった。
「……トウマ」
もう一度、しがみつくようにして両腕を回したら、トーマの鼓動がこれ以上ないくらい早まった。
けれどルウンにとっては、それはトーマの存在を確認できる音でしかないので、特に気にはしない。だから、トーマがやや焦ったように「ルンっ……!」と呼んでも、離すつもりはなかった。
「……もう、帰ってこないと、思った」
どれだけ帰りを待ちわびていたか、伝わればいいと願って、上手く言葉にできない代わりにギュッとトーマにしがみつく。
焦ったように名前を呼んでワタワタと慌てた様子だったトーマは、ルウンの言葉に、あれ……?と首を捻る。
「……手紙、置いていったよね。もしかして、見なかった?」
ルウンは思い出したように、握り締め過ぎてくしゃくしゃになった紙を出してトーマに見せる。
「そう、それ。あっ!もしかして……字が汚すぎて読めなかった?ごめんね。これでもいつもより丁寧に書いたつもりだったんだけど」
申し訳なさそうなトーマの言葉を遮るように、ルウンはふるふると首を横に振る。
「……読めない」
それは、トーマが思っているのとは少し意味合いが違う。
問題は字ではなく、ルウンの方にあった。
しばらくしてその言葉の意味に気がついたトーマは、ハッとしたように目を見開く。
「ごめん、ルン……僕」
知らなかった。いや、その可能性に思い至りもしなかった。
自分にとっては、読めることも、書けることも、当たり前だったから。
「……ごめんね」
顔を合わせるのが少し気まずかったから、あえて書き置きだけを残して家を出た。それでも、充分だと思って。
けれど、充分ではなかったのだ。
まさかこんな、泣くほど不安にさせていたなんて思いもしなかった。
しがみつくルウンは離れる気配がない。鼓動は、今までで一番高鳴っている。勢いに任せるようにして、トーマはおずおずと手を伸ばした。
そっとルウンの頭に手を置いて、髪の上を滑らせるようにして優しく撫でる。
白銀の髪が、月光に照らされて幻想的に輝いていた。
「買い物にね、行っていたんだ。近くの町まで」
伝えたつもりでいたけれど、結局伝わってはいなかったことを、今度こそ言葉にして伝える。
「言ったよね、そろそろ行こうと思っているって。だから、そのための準備をしに町まで行ってくるって、そう書いたんだよ」
くしゃくしゃの紙に一度視線を落としたルウンは、すぐにまた顔を上げる。
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