7 始まりは、昔々
相変わらずの雨の中、トーマはいつになく早い時間に、それもなんの前触れもなく唐突にパチっと目が覚めた。
まれにあることだと割り切って二度目の眠りにつくこともできたけれど、今日はそんな気分にもならないくらいに完全に目が覚めてしまっている。
なんだろう……。こういう時は、トーマが旅人生活で培った直感的なものが、何かを伝えている可能性がある。
例えば、盗賊が荷物を盗もうとしていたり、危険な野生動物が近くにいたり、雨雲が頭上に広がっていたり。
ほとんどの場合悪い予感であるのだが、今はそのどれも当てはまらない。なにせ野宿中ではなく、建物の中にいるのだ。
とりあえず体を起こしたトーマは、一応荷物の無事を確認してから、部屋の中をぐるりと見渡す。何も異常はないはずなのに、なぜだか落ち着かない。
ひとまずベッドから下りて、大きく体を伸ばしながら階段に向かう。
一段また一段と下りながら考えていると、階下に微かな違和感を覚えた。
今は朝とは言っても早朝には遅すぎるし、どちらかといえば昼よりは朝に近いくらいの時間帯。それなのに、なぜか一階はシーンと静まり返っている。
いつもはトーマが起きだしてくる頃にはとっくに身支度を整えていて、忙しそうに家の中を歩き回っている足音が、ルウンの気配が今日はしない。
ひとまず階段を下り切ったところでキッチンを覗いてみるが、そこにルウンの姿はない。
異様な程に静まり返った一階をぐるりと見渡して、トーマは窓の向こうに視線を移した。
「まさか、外に行ったのか……」
外は正しくバケツをひっくり返したような土砂降り。先日は珍しく太陽が顔を出していたのに、今日はそれも分厚い雲に隠されてしまっている。
流石にこんな雨の中に出て行くわけはないと思っても、“もしかしたら”が何度も頭の中をよぎっていく。
どこかの窓から家の裏が覗けないものかと歩き出したトーマは、不意にピタッと足を止めた。今一瞬、ぐすっと鼻をすするような音が聞こえた気がしたのだ。
首を巡らせると、今度は小さな咳が確かに聞こえた。
音がする方向に視線を向ければ、ルウンの寝室を仕切っている壁が目に入る。中の様子は覗えないが、耳を澄ませば確かに人のいる気配がした。
「……ルン?」
思い切って声をかけるも、返事はない。けれど、確かに人が動く音が聞こえる。
トーマは視線を動かして、出入口用にぽっかりと空いた空間を見つめた。
本来ならばそこに扉がついているはずなのだが、古くて立て付けが悪くなったところを、ルウンが誤って根元から壊してしまった為、今は扉の形にぽっかりと穴があいているだけで、そこには何もついていない。
トーマの中で、部屋の中の様子を確認したい気持ちと、女性の寝室に勝手に入ることを躊躇う気持ちとがせめぎ合う。
「ルン」
ひとまず、先ほどの声は聞こえなかった可能性を考慮して、もう一度ボリュームを少し上げて呼びかけた。
耳を澄ましてみたけれどやっぱり返事はなくて、それなのに人の動いている気配は確かにする。
行くべきか返事を待つべきか、悩みながら扉のない空間を見つめていると、不意にそこからルウンがひょっこりと顔を出した。
「うわっ!?」
今まさに意を決しようとしたところで突然現れたルウンに、トーマは声を上げて身を引く。
その反応にルウンもまた驚いて、ビクッと寝室の方に引っ込んだ。
「……お、はよう……トウマ」
「あっ、うん。……おはよう、ルン」
壁に半分隠れるようにして発せられたか細い声に、トーマもほんの少しの気まずさを滲ませて挨拶を返す。流石に、大げさに驚きすぎた気がして少し恥ずかしい。
けれど、恥ずかしがっていたのも気まずさを抱えていたのも束の間、トーマはルウンの様子がおかしいことに気がついた。
壁に隠れているせいで顔が半分ほどしか見えていないけれど、その頬は明らかに赤く染まっていて、瞳も熱で潤んだようになってとろんとしている。
「……ルン、大丈夫?」
何が?とでも言いたげな表情で、ルウンは首を傾げた。その拍子に、白銀の髪が肩から滑り落ちる。
けれど今は、その輝きを目で追っている場合ではない。
「顔が赤いけど、もしかして熱があるんじゃない?頭とか喉とかは痛くないの?」
ゆっくりとだが、ルウンは首を横に振ってみせる。いつもより格段に鈍いその動きだけでも、調子が悪そうなのは明らかだ。
「……今、起きるところ……だから」
壁に手をついて体を支えるようにして、ルウンがのっそりと寝室から出てくる。
全身が顕になった瞬間、トーマは思わず息を呑んで慌てて目を逸らした。
見慣れた長袖のワンピース姿であることは変わらないが、いつもその上からつけているエプロンが今日は見当たらない。
けれどそれよりなにより、昨日まではきっちりと留められていたボタンが、今日は上から三つ目までは外れているし、その下に至っては掛け違えている。
ほんの一瞬だけ、胸元から覗く白が見えてしまった。
「ルン……ボタン、もう少し留めたほうがいいと思う。それから、下は全部掛け違えているから」
ゆっくりと視線を下ろしたルウンは、どこかぼんやりしたままボタンを留め直していく。
恥じらう素振りがないのは、トーマを異性として認識していないというよりは、そこに考えがいたらない程に頭がぼーっとしているから。
その様子に小さくため息を零しながら、トーマは今朝の目覚めがやけによかった理由を理解した。
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