4
トーマが鼻をヒクつかせるのとほとんど同時に、ルウンがハッとして顔を跳ね上げる。
いい香りがするね、と声をかける間もなく、ルウンはカップをテーブルに置いて立ち上がると、慌てた様子でパタパタとキッチンに駆けて行った。
その背中を呆然と見送ったトーマの元に、先ほどよりもはっきりと、何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
キッチンの方を伺えば、何やらワタワタしているルウンの姿が見えた。
いつでも駆けつけられるようカップを置いて、「大丈夫?」と声をかけると、振り返ったルウンはコクコクと何度も頷く。
程なくして、ルウンはお皿を二つ手にして戻って来た。
「ちょっと焦げた……けど、お昼」
ルウンは、おずおずと皿をトーマの前に置く。
そこには、ホワイトソースとチーズをたっぷりのせて焼いた食パンがあった。
焦げたとは言っても、表面のチーズとパンの耳に少し色がつきすぎているくらいで、トーマにしてみれば気にするほどのことでもない。
「これくらい、焦げているうちに入らないよ。凄く美味しそう」
トーマは、早速パンを手で掴み上げる。
「あつっ!」
持ち上げた拍子にとろっと指に零れ落ちたホワイトソースに、トーマは慌ててパンを皿に戻した。
すかさずルウンが、フォークとナイフを差し出す。
「ちょっとがっつき過ぎちゃった」
トーマは、ははっと照れくさそうに笑う。
「では、改めまして。いただきます!」
ザクザクと固い音を立てながら、トーマはパンにナイフを入れていく。
二枚重なり合っていた食パンの間には、更にミートソースが挟んであった。
挽き肉に潰したニンニク、みじん切りのタマネギとニンジンとセロリに、荒く切ったトマトとトマトペースト、更に香草を加えたルウンの手作り。
切り分けられたパンの上で、チーズとホワイトソースが混じり合って、とろりと皿に流れ落ちる。
トーマはそれをナイフで掬ってパンに塗り、息を吹きかけて冷ましてから口に運んだ。
ザクザクと音を立てて噛み締めるトーマを、ルウンは不安げな面持ちで見つめる。
「うん、思った通り!いや、思った以上に美味しい。全然焦げてなんかいないよ。むしろ、香ばしくていい感じ」
笑顔のトーマに、ようやくルウンは安心したように顔を綻ばせる。
そして、ナイフとフォークを持って自分の分に手をつけようとしたところで、ふと動きを止めた。
「ん?」
ジッと見つめる視線にトーマが首を傾げると、ルウンは自分の口の端をトントンと指先で触ってみせる。
その仕草をなぞるようにトーマも自分の口元に指を当てて、苦笑いしながらパンの欠片を摘んで口に放った。
「今日中に終わるかな……」
ポツリと呟かれた言葉に、ルウンもザクザクとパンを切り分けながら首を傾げる。
「まあとりあえず、屋根があれば雨はしのげるから問題ないか。あっ、でも安心してね!部屋の片付けは、責任を持って終わらせるから。でないと、お礼にならないしね」
お礼と言うと、ルウンもお礼のつもりでトーマに部屋を貸す予定なので、なんだか変な感じがする。
お礼のお礼には、またお礼を返すべきなのだろうか――。
切り分けたパンにフーっと息を吹きかけながら、更にはふはふと熱気を逃がして咀嚼しながら、ルウンは密かに考える。
どちらが正解なのかは結局分からないけれど、ひとまずこれだけはとルウンは口を開いた。
「そろそろ、雨、多くなる。だから、あの部屋……ずっと、使っていい」
部屋を貸そうと決めた時から、ずっと言おうと思っていたことだった。
ルウンの方を見て驚いたように目を見開いたトーマは、しばらく何も言わない。
だからルウンも、それっきり口を閉じて黙り込んだ。
しばらくの沈黙のあと、トーマは遠慮がちに「本当に、いいの……?」と尋ねる。
ルウンが迷いなく頷くと、途端にトーマの表情がぱあっと華やいだ。
「嬉しいよ!ありがとう。そっか、そろそろ雨季なんだね。どうりで最近は風も湿っぽくなってきたと思ったよ」
そっかそっかと言いながらナイフとフォークを皿に置いたトーマは、姿勢を正してから改まって頭を下げる。
「何から何まで、本当にどうもありがとう。改めて、しばらくお世話になります」
自分に向かって下げられたトーマの頭を見つめながら、ルウンは返す言葉を探して黙り込む。
こういう時にはなんと言葉を返すのがいいのか、考えてみても正解がちっとも分からない。
また困ったような微妙な表情を浮かべるルウンに、顔を上げたトーマはにっこりと笑って見せた。
「ルン、これからは僕にも色々手伝わせてね。こんなにお世話になっているのに、なりっぱなしじゃ申し訳ないから」
またしても応え方の分からない言葉をかけられ、ルウンは黙り込む。
けれど、自分を見つめるトーマが明らかに返事を待っているから、迷った末にルウンは、おずおずと頷いて見せた。
トーマの笑みが、一層深くなる。
「ひとまずは、二階の掃除だね。とりあえず、今日寝る場所だけは確保しておかないと」
それから、あっという間に食事を平らげていくトーマに遅れを取るまいと、ルウンも小さな口で一生懸命にパンを頬張る。
「ルンはゆっくり食べて。僕はまだ、自分の仕事が終わってないから急いでいるだけだから」
そう言ってカップの中身を一息に飲み干したトーマは、「今日もすごく美味しかった。ありがとう」と笑顔を残して席を立つ。
「食器は、向こうでいいのかな?」
皿を手にキッチンの方を視線で示すトーマに、ルウンはふるふると首を横に振ってから、テーブルの上を指差した。
「えっ、でも……」
指差されたテーブルの上とキッチンとを交互に見つめ、トーマは困ったような声を漏らす。
それでもルウンは、トーマを見上げてテーブルの上を指差し続けた。
やがて、苦笑気味にトーマが折れる。
「じゃあ、お願いします」
ルウンがコクっと頷くと、トーマは手にしていた食器をテーブルの上に戻して、先ほどとは打って変わって足取りも軽く階段を上っていく。
そんなトーマを見送ってから、ルウンは食事を再開した。
タッタッタッと軽快に階段を駆け下りてきた足音が、またすぐに同じ音を立てて上っていく。
繰り返されるその音は、不思議と心地よくルウンの耳に響いた。
今までは一人でいるのが当たり前で、当たり前過ぎて、それに対して何か特別な感情を抱くことはなかったけれど、同じ空間に誰かがいるという事が、一人ではないという事が、不思議なほどに心を沸き立たせる。
初めてのその感覚が、内側からほんわりと、ルウンの小さな体を温めた。
タッタッタッと軽快な足音を聞きながらカップを傾けると、程よくぬるまったミルクが、溶け込んだ砂糖の甘さを引き連れて喉を伝う。
じんわりと染み込んでいく甘さに疲れも癒されて、ルウンは空になった二人分のカップと食器を手に立ち上がった。
**
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます