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けれどそんなことを知る由もないトーマは、「喉痛いの?大丈夫?」などと見当違いな心配をするので、少女は再びふるふると首を横に振る。
それでもどこか心配そうな表情のトーマは、やがて何かを思い出したようにハッと息を吸い込むと、バッグに手を突っ込んで無造作に中をあさり始めた。
「確かあったと思ったんだよな……」と呟きながらバッグをかき回すトーマを、少女はキョトンとした顔で見つめる。
程なくしてトーマは「あっ、あった!」と嬉しそうに笑って、バッグから手を引っこ抜いた。
「これ、喉の痛みに凄く効くらしいよ。町の露店で買い物をした時に、おまけだってくれたんだ」
「はいっ」と渡されたものをおずおずと受け取ってみると、少女の手の平で、紙にくるまれた丸いものがコロンと転がった。
「ハチミツ飴だよ」
もう一つ同じもの手にしてにっこり笑ったトーマは、紙の中から黄金色の飴を取り出して口に放る。
「うん、甘くて美味しい。ショウガも入っているのかな……少しピリッとする感じもいいね」
口の中でコロコロと飴玉を転がすトーマを見て、少女も包み紙をそっと開く。
黄金色の球体を指先で摘んで口元まで持っていくと、ハチミツの甘くていい香りがした。
「もし苦手な味だったら、無理して食べなくてもいいからね。その辺に置いておいたら、明日にはきっとアリのご飯になっているだろうから」
そう言って笑うトーマを横目に、少女は舌先で飴をチロッと舐めてみる。
とろけるように甘いハチミツの中に、確かにピリッと舌を刺激するものがある。
けれどその爽やかな辛味が、よりハチミツの甘さを際立たせた。
ぽいっと口の中に放った飴玉をコロコロと転がして、その美味しさに少女は頬を緩める。
その様子を見て、トーマもまた嬉しそうに笑った。
「それでね、さっきの話だけど」
唐突に話題が戻って、少女は一瞬キョトンとする。
それでも構わず、トーマは続けた。
「キミは、何もお話を持ってないって言っていたけど、そんなの全然構わないよ。だって僕が聞きたいのは、特別なお話じゃなくて、キミの日々の生活、日常のことなんだから」
日々の生活、日常の話とは、一体どんなことを話せばいいのか――ますますキョトンとする少女に、トーマは安心させるように笑ってみせる。
「いきなり、さあどうぞって言われても困ると思うから、まずは僕が気になったことを質問していくよ。もちろん、答えたくないことだったら無理に答えてくれなくていいから」
トーマの笑顔と優しい声、口の中に広がるハチミツの甘さが、またじんわりと警戒心を解かしていく。
右から左に飴玉を動かすと、通過した舌の上にショウガの爽やかな刺激も広がった。
「じゃあ、もう一度改めて」
そう言ってこほんと一つ咳払いしたトーマは、その瞳に真っ直ぐ少女の姿を映す。
「キミの日常の物語を、是非僕に形にさせてください」
お願いしますと頭を下げたトーマは、数秒の間を空けてから顔を上げ、少女の答えを待つ。
しばらく悩むような沈黙を挟んでから、少女はようやくコクリと小さく頷いた。
途端に、トーマの顔にぱあっと花が咲いたような笑みが広がる。
「ありがとう!凄く嬉しいよ」
興奮気味に喜びを表すトーマは、その勢いのままに少女に手を差し出す。
スッと目の前に現れた手を見て、少女はキョトンとした顔で首を傾げた。
「あれ?えっと……握手って、知らない?」
する機会がなかっただけで知らないわけではないが、少女は再び不思議なものを見るように、差し出されたトーマの手を見つめる。
しばらくそのまま、トーマは少女の反応を待った。
けれどいつまで経っても一向に反応が見られない為、諦めて手を引こうとした時、少女はようやくおずおずと自分の手を差し出した。
伺うように顔を上げる少女に、トーマは安心させるようにニコッと笑って、引きかけた手をそのままにして、近づいてきた少女の手をそっと握った。
触れた瞬間、少女の手がピクっと動いて、少しだけ逃げるように引かれる。
その反応は何となく予想がついていたから、トーマは強く握ったりしなかった。
それはほんの少し触れ合うだけの、柔らかい握手。
「改めまして、よろしくね。ぼくのことは、気軽にトーマって呼んで」
少女がコクっと頷いたのを見て、トーマはそっと触れていた手を離す。
トーマの手が離れると、少女はしばらく握手を交わした方の手をジッと見つめていた。
「えっと……今日はもう遅いし、続きは明日ってことで、いいかな?」
まじまじと自分の手を見つめる少女に、トーマは遠慮がちに問いかける。
手からトーマに視線を移した少女は、コクっと頷いて立ち上がった。
手の平や服についた汚れをパンパンと払い落として、ほんの少し迷った末に、少女はトーマに向かってペコッと頭を下げ、踵を返して走り出す。
「あっ!ちょっと待って」
慌てたように呼び止めるトーマの声に、少女は足を止めて振り返った。
「重ね重ね申し訳ないんだけど、何度も森を往復するのは大変だから、もし良かったらしばらくこの場所を使わせてもらってもいいかな?大丈夫!絶対にこれ以上はキミの家に近づいたりしないし、外にあるものだって、勝手に触ったりしないから」
少女は、すっかり暗闇に沈んだ森に一度視線を移す。
危険な動物はいない場所だけれど、確かにこの時間に森を抜けるのは一苦労だ。
それに、近隣の村まで辿り着いたところで、朝が早い村人がこんな時間に起きているとは思えない。
少女が視線を戻してコクっと頷くと、トーマはありがとうと嬉しそうに笑った。
それからしばらく、少女は迷うように立ち尽くす。
何か言うべきか、言うとしたら何を言うべきか、ぐるぐると考えて頭を悩ませる少女に、トーマはにっこり笑って手を振った。
「また明日ね」
ふるふると振られる手と、トーマの笑顔をしばらく見つめて、少女はそうっと手を持ち上げると、おずおずと振り返した。
そうしてようやく足を前に動かすと、通り過ぎそうになったテーブルの横で慌てて立ち止まり、ティーセットが載ったお盆と、パンが入ったバスケットを持ってまた歩き出す。
中身がたっぷり入っているティーカップは、気を付けないと零れてしまうため、慎重にゆっくりと足を動かす。
ようやく館の中に入って扉を閉めると、少女は深く息を吐いた。
笑顔で手を振るトーマの姿と、その時の言葉が頭の中に蘇る。
「また、明日……」
初めて言われたその言葉を、少女は噛み締めるようにそっと呟いた。
遠ざかる少女の背中が洋館の中に見えなくなるまで見送ったトーマは、ゆっくりと顔を上げて、星が瞬く夜空を眺めた。
濃紺の空に浮かんだ丸い月が、淡くて優しい光でもって夜を照らしている。
「あっ、そういえば……名前、聞くの忘れたな」
思い出したように呟いた直後、明日からもまた会える事を思い出したトーマは、まあいっかと地面に寝そべる。
大事な商売道具であるノートと万年筆は、バッグの中にしまって頭の下に。
見上げた月は、太陽とは違って眩しすぎないから、いつまでだって眺めていられる。
「いい月だな……。ここは、月も星もよく見える」
柔らかく降り注ぐ月明かりに照らされながら、トーマはぼんやりと夜空を見上げ続ける。
森の方から、フクロウの鳴き声が聞こえた。
街では夜でも煌々と明かりが灯っていて、人の声が絶えずいつも忙しないけれど、ここはまるで違う。
夜になれば明るく輝くのは月と星だけで、時折フクロウの鳴く声と、葉擦れの音が聞こえるだけ。
ここは静かで、とても心が落ち着いた。
「月と、森と、旅人……」
ポツリポツリと呟いて、トーマは頭の下に置いたバッグに手を伸ばす。
けれど、紐で縛ってあるその口を緩めようとしたところで、ふと手を止めた。
「……今は、いいか」
浮かび上がりかけていた物語を書き留めることはせず、トーマはそれからまたしばらく月を眺め、やがて体を横向きにして目を閉じた。
月明かりが、眠るトーマと、そして少女のいる洋館を優しく照らす。
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