7
「昨日は元気そうだったから油断した……」
久しぶりにお日様が顔を出していると、大喜びで洗濯物を外に干していたルウンの姿を思い出していると、ふと何かが視界の隅を横切っていく。
驚いて視線を向けると
「待ってルン、どこに行くの」
ボタンをきっちり上まで留め終えて掛け違いも直したルウンが、当たり前のような顔でキッチンに向かっていた。
「朝ご飯」
足を止めたルウンは顔だけで振り返えると、すぐさま進行方向に直ってまた歩き出す。
「ごめん、ちょっと待って。ルンは今、朝ご飯を作っている場合じゃないから」
“ごめん”と断りながら腕を掴み、トーマはルウンを引き止める。服の上からでも分かるくらいに、その腕は熱い。
それでも頑なにキッチンに向かおうと足を踏み出したルウンだったが、そのままふらりと体が前に傾いた。
「ルンっ!!」
トーマは、咄嗟に掴んでいた腕を自分の方に引く。
前に倒れ込みそうになったルウンの体が、今度は後ろに傾いて、トーマの胸に背中を預ける形で落ち着いた。
「ルン、しっかり」
何とか体に力を込めようとするのだが、まるで自分の体ではないみたいに重たくて、ちっとも力が入らない。
おまけに、とても熱かった。昨日の夜は、寒くて寒くて堪らなかったはずなのに。
「ごめんね。でも、ちょっとだけ我慢して」
ぐったりと力の抜けたルウンの背中を片腕で支え、もう片方を膝裏に通して、トーマはその小さな体を抱き上げる。
なるべく揺らさないようにゆっくりと歩いて部屋を横切り、寝室の前で一旦足を止めた。
「ルン、ここからベッドまで歩けそう?」
何とか頷いてみせたけれど、やっぱり体には力が入らない。
しばらく様子を見ていたトーマは、やがて意を決して
「寝室、入らせてもらうけど許してね」
一言断りを入れてから足を踏み出した。
初めて入ったルウンの寝室は、トーマの予想に反して、およそ女の子らしいと言えそうな物が一つもない。
例えば、くまやうさぎのぬいぐるみ。例えば、可愛らしい模様のカーテン。例えば、色つきのベッドカバー。
想像していたよりだいぶ殺風景な部屋を、トーマはゆっくりと進んでいく。
できるだけそうっとルウンの体をベッドに横たえると、それまで虚ろげに開いたり苦しげに閉じたりを繰り返していた瞳が、しっかりとトーマを捉えた。
「ん?」
何かを訴えかけるように、ルウンの唇が動く。
その動きを注意深く見つめ、微かに聞こえてくる音を拾ったトーマは、笑顔で頷いた。
「お水だね。すぐに持ってくる」
言葉通り一旦寝室を出てすぐに戻ってきたトーマは、ゆっくりと起き上がったルウンに、持ってきたコップを手渡す。
片手では心許ないので両手でコップを受け取って、ルウンはそっと口をつけた。
冷たい水が体内に流れてくるのが、火照った体に心地いい。
「何か食べられそう?」
水を飲んで一息ついたルウンは、考えるまでもなくゆるりと首を横に振った。
「そっか。それじゃあ、何かして欲しいことはある?欲しいものでもいいよ」
これにもゆっくりと首を横に振って答えると、トーマはルウンの手から空になったコップを受け取って、横になるよう促した。
「今日はずっと隣にいるよ。だから、何かあったらすぐに呼んで。それから、むやみに起き上がらないこと。安静にしていないとダメだよ」
コクりと小さく頷いたルウンを、トーマはどこか不安そうに見つめる。
「タオル、借りるよ。冷たくして持ってくる」
それでも、思い出したようにそう告げると、何度も心配そうにベッドを振り返りながら部屋を出て行った。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ルウンはそっと目を閉じる。
体が、とても熱かった。
心臓がいつもよりだいぶ早いリズムで脈打っていて、その振動すら頭に響いて辛い。
浅い呼吸を繰り返しながら、ルウンはただ目を閉じて、トーマが戻ってくるのを待った。
やがて、早歩きな足音が近づいてくる。
そっと目を開けると、ボウルとタオルを手に、部屋に入ってくるトーマの姿が見えた。
トーマは、枕元の棚に持ってきたボウルを置くと、氷水が入ったそこにタオルを浸して絞り、ごめんねとルウンの前髪をかき分けて、薄らと汗の浮かぶ額にそっとタオルを載せた。
「どう?少しは楽になったかな」
ルウンが小さく頷いてみせると、トーマは安心したように笑みを浮かべる。
「それじゃあ僕は行くから。何かあったらすぐに呼んでね」
その言葉に、ルウンが僅かに目を見開く。
「……どこ、行くの」
「……え?」
予想外の質問に、今度はトーマが驚いた。
「トウマ……さっき、隣いるって言った」
「うん。だから、…………え?」
確かに“隣にいる”と言った。それは“隣の部屋にいる”という意味で放った言葉だったのだが、ルウンの解釈はどうやら違ったようで。
「えっと……だってほら、なんというか…………」
意味が違うとはっきり言えず、言葉を探して忙しなく視線を動かしていると、不安そうに瞳を揺らしたルウンが、そっと手を伸ばしてトーマの袖口を掴んだ。
そんなことをされてしまったら、例え隣の部屋だろうとも、もう置いてはいけない。
「……座るものを取りに、二階に行ってこようかなって。ほら、持ち運びに丁度よさそうな丸椅子があったでしょ」
納得したように頷いたルウンは、そっと掴んでいた袖口から手を離す。
「じゃあ……ちょっと行ってくる」
コクりと頷きはしたものの、ルウンの瞳は熱で潤んでいるのも相まって、まるで捨てられた子犬のように不安そうに揺れている。
堪らずトーマは、「すぐ戻ってくるから」と足早に部屋を出た。
体調不良のせいなのか、いつもと異なるルウンの言動に、トーマはすっかり心を乱されていた。
「……本当にルンってば分かってない。僕だって、これでも一応男だってのに」
ぼそりと悩ましげに呟いて、トーマは深々と息を吐いた。
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