11
階下から聞こえてくる物音が気になってしょうがないトーマは、様子を窺うようにして一段一段階段を下りていく。
足音を忍ばせるようにして五段ほど下りたところで、それ以上足が動かなくなった。
これより先は、今はどうにも行きづらい。ヘタレな自分に内心ため息をつきながら、トーマはその場に腰を下ろした。
聞こえてくる音に黙って耳を澄ましていると、また昨日の光景が蘇る。
飛び込んできたルウンを腕に抱いた時に感じた、柔らかさや温かさ、想像以上の小ささや華奢な体つきは、思い出す度に愛おしさがこみ上げる。
家族や友達、今まで出会った人達に対する”好きだ”という気持ちとはまた違う、もっと深くて強い感情。
それをルウンに抱いてしまったと自覚した時から、当然の流れで、相手が自分に抱いている感情も気になった。
「嫌われてはいない……はず。……多分」
雨を凌ぐ屋根を持たない旅人であるとは言え、嫌な感情を抱く相手に部屋を貸してくれるとは思えない。
それにルウンは、その場限りの雨宿りを願ったトーマに、自ら部屋を提供すると言ってくれたのだ。
「これは、だいぶポジティブに考えたって、嫌われていないってことでいいよな……」
それでも、自信がないから言葉尻は曖昧になる。
トーマの分も欠かさず料理を作ってくれて、午後のお茶にもお菓子つきで招待してもらえるのは、少なからずいい感情を抱いていてくれるのかもしれないとは思うが、それがすなわち“好き”だということにはならない。それくらいは、トーマにだって分かっている。
「きっと嫌われてはいないと思うんだけど……特別好かれてもいないよな。好かれる理由が思いつかないし」
嫌われていないと思えるだけで一安心だが、好かれてもいないとなると少し寂しい。
「となると普通、か。……普通って、この場合はいいのか?それとも悪いのか?」
誰にともなく疑問をぶつけてみるが、当然返ってくる答えはない。
「普通っていうのはつまり好きでも嫌いでもないわけだから、好きでも嫌いでもどっちでもないわけで、だからつまり…………」
自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回る犬のように、トーマの脳内もまた、ぐるぐると同じところを回り続ける。
「ダメだ……分からん」
ため息混じりに呟いて、全てを投げ出すように体を後ろに倒すと、ゴチンと音がして段差に後頭部を打ち付けた。
自分が階段の途中に座り込んでいたことさえ忘れていたトーマは、鈍く痛む後頭部をさすりながら体を起こす。
「好きとか嫌いとか、言葉にすると簡単なのに……。なんでこんなに複雑なんだろう」
大きく“好き”とは言っても、そこにも様々種類があり、程度の違いがある。それを思うと、ますますルウンが自分に抱いている感情を計りかねた。
嫌われていないというのも、普通だというのも、所詮は仮定に過ぎなくて、本当のところはトーマには分からない。
都合のいい仮定ばかり組み立てている自分に気がついたとき、思わず自嘲的な笑みが零れた。
そして次の瞬間、ダンッと響いた力強い音に、トーマはビクッと肩を揺らす。
もう二段ほどそっと階段を下りると、音の正体を探るためにキッチンの方を窺う。
断続的に聞こえてくるその音は、何かを叩いているようであり、また何かに叩きつけているようでもあるが、トーマの位置からではそれがなんであるのかは分からない。
これ以上はキッチンまで行ってみるしか音の正体を探る術はなさそうなので、トーマは諦めてまたそっと階段を上り元の位置へと戻った。
「……こんなことなら、もっと恋愛の話を読み込んでおけばよかった」
作者の想像から作り上げられた物語が、現実にどれほど役に立つかは分からないが、今は何かに縋りたくて仕方がなかった。
「ああ、そういえば……前に何度か会ったことのある旅芸人さんが言っていたっけ――」
“女の子の気持ちが知りたければ、習うより慣れろ!”
聞いてもいないのにそんな格言をトーマに授けて得意げに笑っていたのは、とある有名な旅芸人一座の花形である男だった。
「……習うより慣れろって言われてもな」
そんな格言をくれたって、慣れるより先に気持ちが知りたい相手に出会ってしまったのだからどうしようもない。
「どうせならもっと、役に立つ格言が欲しかった……」
ひとまず、どうにもならない格言も、花形の名にふさわしい整った男の顔も一旦脇に押しやって、何度目かのため息をつく。
相変わらずキッチンからは、断続的にダンッと力強い音が響いてきている。
「……同じ気持ちでいて欲しいなんて、そんな大層なことは望まないから、せめて――――」
せめて、どんな種類であれ“好き”であって欲しいのか、それとも普通でいいから“嫌い”でさえなければいいのか。自分がどちらを望んで“せめて”と口にしたのか、途中で分からなくなって、トーマは言葉を途切れさせる。
どちらにしても、自分はいずれここを出て行く。
それは変わらないことで、変えるつもりのないこと。
ひとところに留まらず、気持ちの赴くままにどこへでも流れていく。そんな生活に憧れて旅人となり、旅をしながら食べていくために物書きとなった。
まもなく雨季は終わり、青い空に太陽が輝く季節がやって来る。
熱気を含んだ風のおかげで長く歩くのは少し辛いが、木陰で昼寝をするのは気持ちいい季節が。
「ずっとそばにいたいけど、でも旅も続けていたいなんて、矛盾しているよな……」
どちらか一つは選べない。でも、どちらも捨てたくはない。
また一つ悩ましげなため息を零して、トーマはそっと後頭部をさする。
打ち付けたそこが、不意に鈍く痛んだのだ。
****
トーマが階段に座り込んでため息をついている頃、ルウンはモヤモヤと頭の中に蔓延るものを振り払うために、一心にパン生地を叩いたり叩きつけたりしていた。
これで少しは気が紛れるかとも思ったのだが、ふとした拍子にトーマのことを思い出してしまって、その度に胸がツキツキと痛む。
もう充分こねられた生地は次の工程である発酵を心待ちにしているが、ルウンは中々次に移ろうとはしない。
どこかぼんやりとした状態で、まるで機械人形のように何度も同じ動きを繰り返していた。
なぜ、トーマの態度が変わってしまったのか。なぜ自分は、そのことがこんなにも悲しいのか。なぜ、トーマのことを考えるとこんなにも胸が痛いのか。
誰にもぶつけられない“なぜ”が、頭の中にどんどん溜まっていく。
気を紛らわせるために始めたのに、結局思ったように気が紛れなかったその作業を一時中断して、ルウンは後ろを振り返る。
視線の先には屋根裏へと続く階段。誰もいないそこに、ついトーマの姿を探してしまう。
階段を上っていけばそこに確実にいるのに、今はその勇気がない。
また拒絶するように背中を向けられてしまったら、目を合わせてもらえなかったら、そう思うと足が動かなかった。
それでもしばらく階段の方を見つめていたルウンだが、やがて視線を外してようやく中断していた作業と向き合う。
いい加減発酵させなければと生地をボウルに移したとき、不意に頭の中に“美味しいよ”と声が響き、トーマの笑顔が浮かんだ。
それを皮切りに、次々と色んなトーマが浮かんでくる。
出会った時の驚きと喜びと無邪気な興奮に満ちた表情、気持ちよさそうな寝顔、ペンを持った時には真剣な中にどこか楽しさを滲ませる横顔。
その全てが、ルウンの中では温かい光と日向の匂いに満ちている。
溢れてくる想いに、胸が苦しくてたまらなくなった。
こんな気持ちを、ルウンは知らない。こんなにも苦しくて、胸が痛くて堪らない程の想いが、一体なんなのかルウンには分からない。
それが、どうしようもなくもどかしくて、辛かった。
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