5
旅人とは、風のようなものだと例えた人がいた。
それはひとところに留まることなく、流れていくものなのだと。
風を捕まえることはできないように、旅人を留めおくこともまた、難しいことだと。
雨季の期間は約一ヶ月。それを過ぎれば、太陽が湿った大地を乾かすように照りつける、暑い季節がやって来る。
雨季を過ぎれば天気は安定し、断然晴れた日が多くなるので、旅をする者達にとっては絶好の日和となる。
そうなった時、自分はまたこの場所で一人ぼっちになるのかと、ふとルウンは考えてしまった。
楽しい時間が続けば、その終わりが怖くなる。
一人になった瞬間に、今はまだ目を逸らしていたい現実が襲いかかるのだ。
二人分の食器を洗い、雨の中レインコートを着込んで畑と鶏小屋を見に行き、家に戻って僅かに濡れた顔や前髪をタオルで拭きながら、ルウンは考える。
このまま雨が、止まなければいい――そんな風に思ったのは、これが初めてのことだった。
ぼんやりと窓の向こうを見つめていると、不意に二階からカタンと微かに音が響く。
ルウンは視線を動かして、屋根裏へと続く階段をしばらく見つめた。
それ以上は何も聞こえてこなかったけれど、先ほど聞こえたのは何かが落ちるような音だったので、気になってそっと足を踏み出す。
自然と足音を忍ばせるようにして階段を上っている自分は、まるで泥棒のようだと思った。
体重の軽さが幸いして、階段もそれほど大きな音を立てはしないが、時折ギシッと軋むたび、尚更歩みがゆっくりになる。
最後の数段を残して様子を窺うようにひょっこりと顔を覗かせた時、薄暗い部屋の中に動くものはなかった。
そのままの状態でぐるりと部屋の中を見渡すと、ベッドの上に確かな膨らみがあって、目を凝らせばそれは上下に規則正しく動いている。
そろりそろりと残りの階段を上がり、先ほどよりもっと音に注意しながら、ルウンはベッドへと近づいていく。
その途中で、靴底が何かを踏みしめた。
慌てて足を上げて見てみると、そこにはペンが転がっていた。
拾い上げてよくよく見れば、トーマがいつも使っているものであると分かる。
ベッドの方に視線を移せば、暗闇になれた目に、広げっぱなしのノートが映った。
ペンとノートを交互に見て、なるほどと納得したルウンは、ノートの間にペンを挟んで閉じ、その横に口を広げたままで置かれていたバッグと一緒に、枕元へと移動させる。
足元が広くなって、きっとトーマも寝やすいはずだと満足げに頷き、また足音を忍ばせて階段へと向かう。
その途中でふと思い直して足を止めたルウンは、振り返って部屋の奥にある机をしばらく見つめると、そうっと進行方向を変えた。
偉い作家の気分なんて自分には分かりようもないのだけれど、そこに座っている時のトーマがあまりにも嬉しそうだったから、つい興味が惹かれてしまったのだ。
背もたれに掘り細工が施された椅子をそっと引いて、そこにちょこんと腰掛ける。
やっぱり、トーマが言うような気分はよく分からない。
でも、座り心地のいい椅子だとは思った。
立ち上がって階段に向かう途中、もう一度ベッドに近づいて、トーマの寝顔を覗き込む。
規則正しい呼吸音、屋根を叩く雨の音。全てが穏やかで、思わずホッとしてしまう。
いつかはいなくなってしまうけれど、今は確かにここにいる。
それを噛み締めるようにトーマの寝顔を見つめながら、ルウンは立ち上がることも忘れて、しばらくベッド脇に膝をついていた。
***
それは真夜中を少し過ぎたあたり、ベッドの上でもぞもぞと体を動かしたトーマは、薄らと目を開ける。
気がつけば雨の音は止んでいて、窓からは久しぶりの月明かりが差し込んでいた。
「雨、止んだのか……」
ポツリと呟いて体を起こせば、月明かりに照らされた部屋の中、一際輝くものが目に付いた。
それは自分が寝ているベッドの縁、月光を受けて煌くのは、見覚えのある白銀。
「……っ!え、なんで!?なんでここに」
ひどく驚きはしても咄嗟に理性が働いて、声は囁き程度に抑えられる。
床にぺったりと座り込んだ状態で、ベッドの縁に頭を預けて目を閉じるルウンからは、未だ安らかな寝息が聞こえていた。
「えっと……なにがどうしたんだっけ?」
もう一度ポツリと呟いて、トーマは眠る前の自分の行動を思い起こす。
「ルンとお茶して、そのあと二階に上がって、メモを取って、それで…………それで、どうしてこうなった」
確かにルウンとは二階に上がる前に別れたはずで、そのあとは顔を合わせていない――はず。
「……なんで?」
ならばますます、なぜルウンがここに居るのかが分からない。
ここは元よりルウンの家であるため、どこにいようと自由ではあるのだが、それにしたってこれは――――。
しばらく考えを巡らせながらルウンを眺めてみるが、答えはちっとも分からないし、眠っている本人を叩き起こして聞くわけにもいかない。
「そういえば……前に旅の途中で出会った行商人の飼い犬が、最初は敵意むき出しでバウバウ吠えていたのに、気がついたら寝床に潜り込んできて一緒に寝ていた、なんてこともあったな……」
旅の途中で出会った者同士、妙に気があって野宿での一泊を共にした時の事が、不意に頭の中に蘇る。
その時の犬は、子供ならば背中に乗れてしまいそうなくらいに体が大きくて、毛足も長かったので、くっついているとほかほかと体が温かかった。
「元気にしているかな……あのおじさんも、犬くんも」
当時を懐かしむように呟いて、それから再びルウンに意識を戻したトーマは、しばらく考えた末にそっとベッドから下りる。
「ごめんね」
小さく断りを入れてから、眠っているルウンの体を抱き上げると、そっとベッドに横たえる。
そのまましばらく様子を伺ったが、気持ちよさそうに目を閉じるルウンに変化はない。
サラリと流れて顔にかかった髪を払おうと手を伸ばしたトーマは、しかし直前で動きを止めて手を引いた。
気がつけば、窓から差し込んでいた月明かりは次第に薄くなってフツっと消え、部屋の中が再び暗闇に支配されている。
遠くの方で、ゴロゴロと空が鳴っていた。
「また、一雨くるかな……」
窓の向こうを見つめてポツリと呟いたトーマは、もう一度ルウンの様子を伺ってから、立ち上がって部屋の奥にある机に向かう。
その際、ルウンが枕元に移動させておいたバッグと、ペンが挟まったノートも一緒に持っていく。
椅子に腰掛けてベッドの方を振り返ると、そこに眠る少女の姿に、トーマの口から思わずため息が零れ落ちた。
「ルンは、男ってのがどういう生き物なのか、全く分かってない」
その無防備さでよくも今まで無事にいられたものだと、トーマはまた一つ息を吐く。
「まあ……僕が言えたことじゃないか」
下心も悪意も微塵もなかったが、無遠慮に何度も触ってしまったのは事実。
過去の自分の行動を色々と思い起こしながら、トーマは自嘲気味に笑った。
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