11
「はあ……」
ルウンに代わって朝食の片付けを終えたトーマは、久しぶりに屋根裏のベッドに横になっていた。
口を開けばため息が漏れ、薄暗い部屋がますます暗くなっていくように感じる。それでも、悩ましげなため息は止まらない。
寂しいと言って抱きついてきた温もりを両腕で包んだとき、確かに愛おしさがこみ上げた。ずっとそばにいてあげたい、守ってあげたいと思った。
「そっか、これが……」
口に出すのが少し恥ずかしいその感情は、言葉を飲み込むようにして胸の内にそっと留める。
気を抜けば、すぐにルウンの顔が頭に浮かんだ。鼻から息を吸い込めば、どこもかしこもルウンの匂いがする気がして落ち着かない。
久しぶりにベッドで少し眠ろうと思って上がってきたのに、横になってみても一向に眠気はやってこない。
どんな場所でも、どんな状況でも、眠ろうと思えばすぐに眠れる体質のトーマにとって、こんな事は初めてだった。
パッチリと開いた目で天井を見つめ、しばらくして諦めたように体を起こす。
先程まで頭があった位置からバッグを引き寄せると、そこからノートを引っ張り出し、見るともなしにパラパラと捲った。
時折、手を止めて書いてあることをなんとなく眺める。
そこに綴られているのは、ルウンと言う名の不思議な銀色の少女の日常。何気ない日々の営みが、トーマのミミズがのたくったような字で書き記されている。
またパラパラとページを捲っていくと、あっという間に裏表紙にたどり着いてしまった。
少し戻って、残り少ない白紙のページをしばらく眺めると、トーマはまたぱたりと仰向けに倒れ込む。
「……そろそろ新しいの、買わないとな」
天井に向かってポツリと呟くと、トーマはなんとなく目を閉じた。
そういえば今日は、まだ一度も雨の音を聞いていない。
相変わらず空には重たい雲が立ち込めているけれど、風で雲が動けば、僅かに開いた隙間から光が指す。
終わりが迫っていることを、トーマはひしひしと感じていた。雨季にも、そしてルウンとのこの生活にも。
それを思うとなんだか寂しくて、今まで出会いそして別れてきた人達には感じたことのない離れがたさも抱かせる。
それでも、旅の物書きであることはやめられないから。トーマは、悩ましげな息を吐きながら目を開ける。
その時、階下から微かな物音が聞こえた。
トーマは上半身を起こし、聞き間違いではないことを確認するように耳を澄ます。また、確かに音が聞こえた。
**
トーマが屋根裏に上がるより少し前、寝室の壁に背中を預けてうずくまっていたルウンは、片付けを終えたトーマが近づいてくる足音を聞いて、慌ててベッドの中に潜り込んだ。
頭からすっぽりと布団を被ってまもなく、寝室の前でピタッと足音が止まる。
声をかけられたらなんと答えたらいいのか、それともこのまま寝たフリをするのがいいのか、ぐるぐると考えていたルウンだったが、結局トーマはしばらくそこに立ち止まっていただけだった。
声をかけず、中を覗いてみることもなく、トーマは寝室の前を離れて屋根裏へと階段を上っていく。
足音が完全に聞こえなくなったところで、ルウンはそうっと布団から顔を出して、出入口部分を窺った。
そこは相変わらず扉の形にポッカリと空いているだけで、今はもう誰も立っていない。
詰めていた息をそっと吐き出して、ルウンはもぞもぞと布団から出てくると、ベッドの端に足を床に下ろして座った。
今日のトーマは、昨日までとはどこか違う。その事が、ルウンの胸に痛みをもたらす。
今日とは言っても、朝食を食べている時までは変わりがなかった。昨日までと同じ、優しくて温かいトーマだった。
それが変わってしまったと感じたのはいつからだったか――確か、風邪が治ったという話をしていた辺り。夜に体がポカポカしたのだと話したあと、トーマの顔がなぜだか朱に染まった。
なにがいけなかったのか、なにがトーマの態度を変えてしまう原因となったのか、考えたけれどさっぱり分からない。
今日ではなく昨日に原因があったと仮定してみても、やっぱりルウンには思い当たる節がない。第一、昨日のことでルウンが覚えているのは、トーマが作ったホットワインを飲む前まで。
そこまでは記憶がはっきりしているが、そこを堺に記憶が曖昧になる。
頭がポーっとして、ふわふわと心地よくなったのはなんとなく覚えているし、何か話をしたような気もする。覚えているのはそれらと、始終気持ちが高陽していたことくらい。
次に記憶がはっきりするのは、今朝方ベッドで目覚めたあと。
自分が覚えている中に、トーマの態度が変わってしまった理由は見つからない。
それがまた、ルウンの胸にツキツキとした痛みを与える。
しばらく下ろした足に視線を落として考え込んでいたルウンは、やがて顔を上げて立ち上がった。
何かしようと思ったのだ。このまま座り込んで答えの分からない問題をぐるぐる考えていては、胸の痛みが増すばかり。だから、とにかく体を動かそうと。
よし、では掃除でも。と思って寝室を出たところで、ルウンは思い立ったように足を止める。
胸の内にわだかまるこのやるせなさをぶつけるのに、掃除よりも良さそうなことを思いついた。
くるりと体の向きを変えたルウンは、そのまま地下へと向かい、粉袋を持って今度はキッチンへ。
ルウン一人でも楽々持ち上げられる程に少なくなった粉を、この機会に全て使ってしまおうと思った。
作り置きしておいたパンも、在庫が少なくなってきていたので丁度いい。
トーマから、“今日もまだ安静に”と言われていた事などすっかり忘れて、ルウンはまず念入りに手を洗った。
それから、大きめのボウルを取り出して、そこに量った材料を入れて混ぜていく。
体を動かしていると、やはり気が紛れていい。おかげで、ツキツキとした胸の痛みも今は収まっている。
そのことに安堵しながら、ルウンは一心にボウルの中身を手で混ぜていく。
この時、自分の手元に意識を集中させていたルウンは、階段を下りてくる足音があることに、全く気がつかなかった。
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