#彼女へ(1)

「どうせなら、陸田の近くに連れていってあげたかったんだけどな」

 弧を描く朝来の髪に触れる。彫刻のような滑らかさが、その冷たさを際立たせていた。

 朝来は陸田と一緒にいたい。そう感じたのは、ずっと前からだ。競走をすると朝来がいつもついてきて、陸田を目で追うことを僕は何度もこの目で見てきた。

 朝来と陸田。傍から見ていても似合っていると思う。さすがに幼馴染みというべきか。彼らの仲の良さを羨ましく思うこともあった。そんな彼らが、僕のことを無条件で受け入れてくれていることが嬉しかった。

 彼らに出会うまでの僕が、どんなことを考えていたのか、実はあまり思い出せない。彼らを愛おしく思い、彼らの邪魔をしないように、これからも付き合っていたかった。

「でもね、君たちと出会えて良かったよ。なんか、楽しかった」

 ずっとなかったはずの、風を感じた。

 空の黒の中に、さらに黒が見える。ついに穴が裂けたらしい。吸い込むような風を肌で感じる。黒々とした遠くの山が、ボロボロと崩れて持ち上がっていくのが見えた。

 とうとう終わりのときらしい。地鳴りのような音がして、風がますます強くなる。まだ飛ばされたくなくて、朝来の腕にしがみついた。固まった朝来は、どうにかまだ動かない。

 こんなに朝来に近づいたのは、実はあまりなかった。陸田の手前、それははばかられた。あまりにも陸田が気づいてくれないと、嘆く朝来の愚痴だって何度も聞いた。

 僕は朝来を応援し続けていた。それが朝来にとって幸せだと信じていたからだ。

 地響きがする。

「何だって言うんだよ」

 山の影がなくなって、地面にもヒビが入り始めた。立っているのも怪しくなる。素っ頓狂な声を上げて、なお朝来にしがみついていた。膝が床にしたたかに打ちつける。そこからすでにヒビが入る。どこが壁で、どこが床なのか。曖昧になる。壊れかけていることだけは実感できた。

 朝来の身体が少し動いた。意識的な動きではない。空の穴に、引き寄せられている。黒い穴。言葉どおりのブラックホールだ。戻ってこれない虚空は、ひどく寂しい声を上げている。

「お別れか」

 これが最期なのだろう。そう思うと、身体の奥が火照った。

 これまでの記憶が蘇ってくる。走馬灯というものだろうか。

 陸田に初めて声を掛けたとき。その彼に誘われた運動公園で、初めて朝来と出会ったとき。練習の度に二人と出会い、競走をして、大抵の場合は笑い合っていた。

 そうして出会っている時間もいつか終わるときがくる。例えば新しい友達付き合いが始まったり、僕らが仲違いをすれば終わってしまう。僕はそんな想像を巡らせることも怖かった。だから気にしないようにして、僕らの関係にひびが入らないように気をつけていた。

 世界にヒビが入り始めてから、そんなことを思い出す。僕はいったい何をしていたのだろう。今まで何度も、気づくことができたのだ。世界はすぐに壊れてしまう。だから、もっと気をつけていたかった。たった一度しかない関係を大事にしていれば、こんなときに寂しくもならなかった。

 僕は彼らにいったい何をしてあげられただろう。仲間といいつつ、彼らに対して本音を打ち明けたことはついになかったような気がする。このまま卒業して、離れて、彼らのことを思い出したときに僕は果たして心からよかったといえるだろうか。

 ありふれたものかもしれない。しかし、尽きることのない後悔が頭の中に去来する。たった十五年ほどの人生でも、随分とある。比較はできないし、もう取り戻せない。気づかない方が良かったのかもしれない。空に吸い込まれる瓦礫たちの音が、無闇に心を責め立てる。

「朝来」

 打ち寄せて砕ける波のように、言葉は届かず散っていく。そう思うと、却って気楽だった。何を言ってもいいと思えた。



「君のこと好きって言ったら、笑う?」

 誰にも言ったことのないことを言いたくなってしまった。



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