#6 時のバラ

 目を開くと一面の夜空だった。

 一際輝く星が三点。夏の大三角形だ。寝惚けていた頭も冴えてくる。頬を撫でる風はこそばゆく感じられた。

 星々の輝きは色褪せてしまっている。だからきっと、ここは街中だ。

 俺は横たわっていた。背中は冷たいコンクリートだ。街中の、どこかの屋根にでもいるみたいだ。

「やっと目を覚ましたかい」

 聞き覚えのある声に首を伸ばすと筋に激痛が走った。俺は呻いて、また首を引っ込めた。視界の端に見慣れた銀色タイツが現れた。尖り頭の下、円形の穴から覗く素顔が僕を見下ろし、手に持ったカップを近づけてきた。

「温かいうちに飲むといい。休まるから」

 銀色の男は俺を支え起こした。痛みに耐えながら座った。殺風景な景色が目に入った。やはりここはどこかの屋上らしい。コンクリートの地面の向こうには街が広がっている。夜のために見えにくいが、背の高いビルや鉄塔の並びには見覚えがあった。加えて、屋上の一角には白い看板があり、ライトに照らされて文字が裏移りしていた。僕の暮らすこの街でも特に大きい病院の名前だった。

 ホットミルクの把手を掴むと、指先が震えているのに気がついた。コップさえも重く感じる。唇で支えるようにして、ミルクを無理矢理喉に通した。やや熱かったみたいで、舌の奥が火傷気味になった。味も薄く感じた。それでも優しく穏やかな香りが俺の内側に染みこんだ。

 一息つくと、ますます頭が冴えてきた。

「どこから出したんだよ、これ」

 多少嗄れていたが、思ったよりもちゃんと声が出た。

「作ったんだよ。ほら」

 銀色の男は足下を示した。俺の顔の横だ。最初は砂時計でもあるのかと思った。よく目を凝らしてみてみると、下側は小型のバーナーで、上部は四本の足がついた浅い鍋だ。水を蒸留してお湯を作る、登山者の料理道具だった。

「暇すぎる男だな」

「暇のある時を狙ったんだよ」

 銀色の男は僕の隣に腰掛けた。一方俺は入院患者の服装をしている。屋上に入っている姿が見つかると、お互い別の理由で糾弾されそうだ。

 疲れを感じた。ホットミルクを飲むくらいの動作はできたが、立ち上がる気にはなれなかった。相変わらず指先は震えている。身体の節々に痛みが走る。全身の筋肉が強張っていた。

「君は三日間、眠っていたんだ」

 なにを質問したわけでもないのに、男は俺を見ないで疑問に答えてくれた。

「川の下流で君が発見されたのが三日前。同じ頃に山中で集団自決未遂があったことも確認されている。主宰の男が凄惨な最期を遂げたという噂が拡散されてね、ちょっとした騒ぎが今も続いているよ。きょうび自殺なんて珍しくもないけれど、グロテスクな噂は目を引くから。ちなみに君にフォーカスが当たることは今のところ観測されていないから、その点はあんしんしてくれ」

 はあ、と口から出て、やや時間差をつけてから記憶が脳の扉を強く叩いた。ペンションから逃げ出したとき、河原で聞いたせせらぎ、屠られる人影。

 今度は重たい溜息が漏れた。

「救助隊を呼んだのは、朝来か」

「そのとおり。匿名のメールを警察に送っていたらしい。いたずらだと思われないように、ご丁寧に待ち合わせする君たちの姿を撮ったデータつきでね。実際死ぬことができた人は二人くらいいたかな。そういう意味では、彼女は社会的には正しいことをしたんだろうね」

 銀色の男は口を閉じた。しばらく沈黙が続いてから、俺は「抗えねえな」とぼやいた。

「それで、朝来はさぞご満悦だったろうな。俺のところへも来ていたか?」

「いや、それはまだ。それに、喜ぶのはまだはやいよ」

 含みを持たせた物言いに俺が首を傾げていると、そのとき耳に救急車のサイレンが聞こえてきた。まだ微かだが、少しずつ大きくなってくる。

「この病院か」

「そうだよ」

 銀色の男は断定口調だった。

「誰が乗っているのか知っているんだな」

 確認する傍らで、俺の中ではすでに予感が生まれていた。

「ああ」と、男は溜息のように言った。

「ここに君を連れてきたのは、二人きりで話がしてみたかったっていうのもある。他の入院患者がいると気が散るし、万が一僕に悪感情を抱かれると面倒なことこの上ないから。でももうひとつ、実はあってね。このサイレンの音は、病室だと遮断されてしまったんだ。だから遮蔽物のないここを選んだ」

 銀色の男はこのとき初めて、俺と目を合わせた。

「運ばれたのは朝来だよ。彼女はとうとう、自分の体力を使い果たしたんだ」

 タイムリープをするとき、周りの人々は記憶がリセットされる。対して、タイムリープをする本人は過去の記憶を引きずっている。タイムリープをする人には、その分の精神的負担が掛かっている。それにも関わらずタイムリープを続けていくと、体力を使い続け、やがて死に至る。

「これは僕の、実体験を許にした推測だった。でも今回の朝来を見るに、ある程度本当のことだったらしい」

 男は簡潔に言い終えると、サイレンの迫り来る方向を見た。もう敷地内に入っているかもしれない。これから搬入口へ向かい、青白い顔をした朝来が送り込まれていく。想像するのにかたくなかった。

「そして、明日の朝に死ぬ」

 ごく短めに男は言った。なにもかも押し隠すような、平坦な声色だった。

 予想はしていても、驚きは隠せなかった。俺は口を開けてしまったし、閉じることも忘れていた。ただ男を見つめていた。見つめていれば何かが変わるかも知れないと思った。さきほど口にした予言は全部嘘だ、と言ってくれるまで安心はできないと思っていた。しかしその言葉は結局誰の口からも発せられなかった。

「そしてここで、改めて僕の目的を話そう。僕は朝来を死なせたくないんだ」

 銀色の男はもはや完全に僕を見つめていた。格好はふざけているのに、顔つきは大まじめだった。

「朝来が死なないためにも、君は自殺をしてはいけない」

 銀色の男は俺を睨みつけてきた。有無を言わさぬ、といった調子だ。

 しばらくは俺も目を合わせていた。睨みには睨みをもって応えていた。長々と、目が乾くまで続き、やがて俺の方から逸らした。

「そんなこと、わざわざ言う必要あるのかよ」

 笑おうとしたが、上手くいかなかった。奇妙な震えを帯びたまま口を動かした。

「了解なんていらねえだろ。お前がタイムリープすればいいんだ。そうすればお前の記憶以外は過去に戻る朝木は死なずに済む」

「それではダメだ」銀色の男はまだ瞬きをしていない。「それではお前はまた死のうとする」

「いいじゃねえかよ、死なせてくれよ」

「死んでもらっては困るんだ! 君が死んでしまったら、朝来は――」

 銀色の男は、威勢の良かった様子から一転し、声のトーンを潜めて言った。

「朝来はずっと君に囚われ、他の誰かと付き合うこともなく、一生想い続けてしまうんだ」

 言葉の意味が頭の中に落ちてくるまでラグがあった。

 時間が止まったような気がした。

「何を言ってるんだ、お前」

「君こそいつまで気づかないんだ。それともわざとか? 気づかないふりをしているのか? 朝来は君のことが好きなんだ」

「馬鹿なこと言うな」今度は俺が声を荒げた。「朝来が好きなのは隼人だろ。だってずっと、あいつのことを」

「見ていた。その通りだ。月ヶ瀬君と併走する君を見ていたんだ」

「そんなこと、信じられるかよ……今まで一度も、何とも聞いたことがない……」

「なら、否定できるか?」

「……」

 口を動かしても、声を為さなかった。声の出し方を忘れたみたいに。

 頭は掻き乱されていた。一度起きた波はなかなか静まらず、新しい波を起こした。

「本当なのか」

 朝来の視線が思い浮かぶ。

 隼人の入院を悲しんでいた。もう目が覚めないかもしれないと悟り、二人して泣いた。朝木は辛いだろうと思った。あいつは隼人のことが好きだったから。でも確認なんて取らなかった。だってそんなの野暮じゃないか。朝来はいつも、俺の前を行く隼人を見ているのだとばかり思っていた。いったいこの世界のどこに、競走で負けている方に見惚れる奴がいるというんだ。

「君の方がわかっているだろ」

 銀色の男の声は冷めていた。一時の熱気も落ち着いていた。睨まずに、俺を見据えていた。

「改めて言うよ。死ぬな。朝来のためにも」

 口調の落ち着いていたのが良かった。乱れていた俺の思考が銀色の男の言葉を頼りにまた収束しはじめた。

「お前はどうしてそんなに朝来を助けたいんだ。恋人か?」

「朝来は君が好きだと言ったばかりだろ」

「じゃあ、なんで」

「……まあ、知り合いではあるよ」

 銀色の男が若干目を逸らし、呟くように付け加えた。

「僕のことはどうだっていいんだ。もう言ってもいいだろう。僕は朝来を救いに来た。君が死ぬ限り、それは叶わない。だから君には生きててもらう」

「変な言い回しだな」

「まだダメか?」

「ダメっつうか、横暴だろ」

 俺もだいぶ余裕が出てきた。口はだいぶ自然と回った。

「だいたいお前らタイムリープする側の連中は何でもかんでも勝手すぎる。俺みたいな一般人にも意見はあるんだ。そういうの、大事にしろよ。つうか聞けよ。ちゃんと」

「死にたいか、死にたくないか。さあ聞いたぞ。言え」

「……この野郎」

 サイレンの音が終わってから時間も経っている。

 慌ただしかった夜の街は静けさに包まれた。俺の足元では今、原因不明のまま衰弱する朝来に医者たちが手を焼いている。

 朝来は死のうとしている。俺を救おうとして。

「死にたいなんて、もう言えないだろうが」

 喉の奥が絞られて、声の終わりは途切れてしまった。肩の荷が下りた。こんがらがっていた頭の中に風が吹きわたった。見れば、銀色の男が腹立つくらい微笑んでいた。

「なら決まりだな。タイムリープだ」

 銀色の男は急に胸元に手を差し込んだ。一瞬度肝を抜かれたが、よく見ると胸のところに切れ込みがあり、ポケット状になっているらしかった。捻った手首を取り出すと、そこには黒ずんだ紫色の塊があった。やや細長く、形だけなら薩摩芋のようだ。星の光のせいにしてはいやに多く光を湛えていた。

「聞きたいことがあっても答えられないぞ。僕もよくわかっていないんだから」

 銀色の男は先に釘を刺してきた。

「よくわかっていなくてもできるのかよ」

「念ずれば通ず。君の部屋にもメモくらいあるだろう。今から四ヶ月の春休みに君が部屋にいるときを目指す。戻ったら必ず僕の言葉をメモしろよ、死ぬなって」

「ああ」と、口にしてから、疑問がわいた。

「隼人のことも知っているんだろ? あいつが死ぬのは止められないのか」

「僕からでは無理だ。僕は月ヶ瀬君とは知り合いでもない。顔も、覚えていられなかった」

 試したことはあるらしい。それが少し嬉しくもあった。本当に少しだが。

「なら朝来は試したのか」

「朝来に聞けばわかるだろうな。僕からはわからない。ただし、もちろんだが何をしたにしてもその試みは失敗している。現状は意識不明の重体なのだから」

 銀色の男は言葉を区切ると、おもむろに空を見上げた。

「あるいは、試みた結果だったのかもしれないな」

 別の世界では、隼人はもう死んでいるのかもしれない。

 銀色の男の言葉から想起した事柄に、俺は戦慄を覚えた。もしもそうであれば、もっと立ち直れなかったかもしれない。

「嫌なもんだよ、タイムリープなんて」

 とうとう銀色の男はそう口にした。「君もしようと思うんじゃないぞ」

「やりたかねえよ。明らかに人智超えているだろそれ」

「やっぱりそうかな」

 銀色の男は紫の石を掌に置いた。角張った石は歪な菱だ。掌の上で揺れている。おさまるのかと思って見つめていたら、徐々にくるくると回り始めた。どこから押されるふうでもない。

「で、まだやらないのか」

「興味はあるのか」

「そりゃそうだろ。時間を飛び越えるんだぜ。一生に一度だってあるものか」

「飛び越えて数秒もしたら全部忘れるぞ」

「ああ、まあそうだけど。憶えている間楽しけりゃいいよ」

 話している間にも紫の石は独楽のように回転していった。だんだん速く、狂ったコンパスのように進み続けている。

「どうやって手に入れたんだ」

「話すと長い。途中でタイムリープしてしまうよ」

「簡潔に」

「拾った」

「拾うものなのか?」

「疑ったって、拾ったものは拾ったんだよ。それからすぐタイムリープした」

「名前とかないの」

「名前? そんなの無いよ。僕が見つけるまでは誰の目にも触れなかったと思う」

「じゃあ、お前が名付けりゃいいじゃん」

「いいものか・・・・・・うーん」

 銀色の男は掌の石を見つめて唸った。すでに回転は止まりそうもない。普通は止まりゆくところ、どういう原理か石は速度を上げ続けている。もともと誰にも押されていないのだ。この世の道理に反しているのだろう。

「ひとつだけ、つけるとするならば」

 紫色の光りが迸った。

 始まる。

 俺でさえ直感できた。

 漏れてくる光に目を細めつつ、銀色の男が口にした。

「時のバラ、かな」

 その名前の理由を尋ねる暇も無く、視界は一気に紫に染まった。ものの影も、星空もあちこちが埋もれて消えた。光りが束ねられ、折り曲げられて攪拌される。何も目に映らない。

 何かを描く猶予もない。

 こうして俺の視界から全ては消え、実感すらも薄れて果てた。

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