Side-B 僕一人

#1 太陽

 例えば誰かが僕のことを思い起こすとしたら、どんな説明をするのだろうか。

 身体的特徴はあるか。性格はどうか。どんな癖を持っているか。好きなものや嫌いなものは何か。何に所属していたか。何を誇りにし、何に心を落ち着かせるか。動物に例えると何であり、芸能人では誰に似ているか。

 表現の仕方は無数にある。証言する人の数だけの僕がいるようなものだ。誰もが他人を好き勝手に評価して、自分の敵か味方かを判断している。

 もしも叶うならば、僕は誰に対しても中立でいたかった。

 理想は、全ての人に対して程ほどの距離を保つこと。

 誰の目にも平凡であれば、自分を他者と同類だと見做すことができる。

 普通の家庭に生まれ、普通の生活をし、普通に成長し、普通に大人になる。

 僕の中で、それらは憧憬だった。現実の僕が喉から手が出るほど欲していたものだった。

 どうしてそう思うようになったのかというと、その理想が絶対に叶わないものだと知ってしまったからだった。


 ××十六年十二月十三日。僕は携帯電話のカメラ画面越しに父の背中を追っていた。

 父は周囲を気にしながら、路地裏に入り、数回折れて、どこかの裏口前に佇んだ。やがて父のもとに女性が現われた。白い肌と金色の長髪。薄いピンクのジャケットが窮屈そうに伸びていた。若い。二十代だろうと僕は見積もった。彼女は僕の父を両腕で絡めると、宵の口の繁華街を浮ついた調子で歩いて行った。

 一部始終の動画を撮り終えた僕は激しい鼓動を感じた。血が止めどなく身体を駆け巡った。今まで生きてきた中でのどの興奮にも勝っていた。

 塾の帰り、出張に行ったはずの父が歩いている。その疑問を突き止めようとして、不倫の現場を目撃してしまったことから、僕の日常は崩壊を始めた。何食わぬ顔で家に帰ってきた父に吐き気が込み上げてきた。母が何も気づいていないのも気にくわなかった。僕の暮らしている家が、急によそよそしい張りぼてのように思えてきて、我慢がならなかった。僕は動画を温存した。時期をおいて、父の危機感が鈍るのを待った。

 年が明けて、高校生活が始まり、一学期の終わりの頃、インターネット上で手に入れた仮のメールアドレスを用いて母の携帯電話に動画を送りつけた。

 効果は覿面だった。夏休みの間に母は父と喧嘩をし、家を飛び出していった。実家に帰ったのだと父は仏頂面で説明した。

 家はたちまち父の煙草の匂いで充満した。煙草嫌いの母がいたから今まで抑えていただけで、父は元来ヘビースモーカーだったらしかった。離婚調停が進められているのを僕は内心愉快な心地で眺めていた。父が頭を抱えている様を見るのは気分が良かった。これに懲りて反省してくれればいい、と内心ほくそ笑んでいた。

 ところが、僕の撒いた火種は予測外の広がり方をしてしまった。夏休みの終わり間際、警察が父を連行したのだ。

 僕があの日目撃した、金髪にピンクの派手な女性は、二〇代ではなかった。若づくりしていたのでもない。真相は逆だ。あの人は、あろうことか僕が入学したばかりの高校を卒業したばかりだったのだ。

 父が連行された次の日には母が僕の前に現われた。誰も居なくなった一軒家を後にして、僕は母の実家だという盆地へと引っ越した。父の公判の後、正式な刑が執行された暁には、晴れて離婚の手続きを済ませるのだと母は嬉々として言っていた。

 以上の経緯により、僕は晴嵐高校に入学することとなった。

 学校側への説明は全て母が行った。母は特に、僕が普通の子であることを強調していた。僕は不登校児でも発達障害でもないごく健全な一般人であるが、ただ不幸にも愚鈍な父を持ってしまった、いわば被害者である、という具合だ。母の論旨には多様に感情が交ざり、同じ言葉が何度も繰り返された。それに対し、新しく担任になる江崎という先生は嫌がりもせず何度も憂いを交えた相槌を打った。

 白髪の見え始めた髪、やせ気味の頬。それでいて大きい目。年齢を重ねていることを感じさせる江崎は母から目を逸らすと真っ直ぐに僕を見つめた。

「君、星に興味はないかい」

「……はあ?」

 それが最初の会話だった。

 うっかり口が開いて喉が震えて勝手に発音した感じだった。

 母は素っ頓狂な声を上げて僕の腕をつねったが、思い返しても、僕に非はなかったと思う。

「いいえ、あまり知りません」

「もしも興味が湧いたら、天文部に入るといいよ」

 そう言って江崎は面接の終わりを告げた。

 九月一日が近づくにつれて、新しい学校に対する期待がそこはかとなく巻き上がったが、同時に平穏無事な学生生活を営むためにも、息子とほぼ同年代の少女と淫行して逮捕された父のことについて嘘をつき続けなければならない億劫さが僕の内側を満たしていった。


 星野泰時。


 黒板に書かれた俺の名前を江崎は掌で小さく小突いて示した。

「今日から君らと同じクラスに通う星野くんだ。ご家庭の事情もあってこの九月からの入学となった。みな、仲良くするように」

 自己紹介を、と促されて、僕は簡単に口を開いた。

 名前、年齢、趣味は読書。部活動はまだ迷っているので良さそうなものは教えてほしい。

 当たり障りのないことを言ったつもりだ。最初の方ではクラスメイトからの反応は多少あったが、部活動のくだりの頃には大半は既に興味を失っているようだった。僕が教室の扉を潜って入ってきた途端、露骨に顔を顰める男子もいた。女子が良かったという意味なのだろう。別に喜んでほしいわけでもないが、あからさまに見せつけられるのは不快だった。

 クラスメイトは可もなく不可もなく、みな人並みに保守的で自分勝手なように見えた。前の学校と似たようなものだ。偏差値はこちらの学校の方が低い。とはいえ際だって荒れているようにも見えなかった。

「席は一番後ろでいいだろ」

 江崎が指を差したのは、窓際から二列目、一番後ろに空いている席だった。木製の机の上には埃が被っていて、もう長い間誰にも使われていないようだった。

 席へと向う途中、

「あそこって確か……」

 それから先を聞き取ることはできなかった。

 不穏だった。そういえば入学当初に江崎が何かを言っていた気がする。

「クラスの雰囲気は最初のうち暗いかもしれないが、我慢してくれ。ちょっとした騒ぎがあったんだ」

 とかなんとか。

 席に座ると、江崎は早速別の話題を皆の前で振った。文化祭に向けての話し合いであり、ほぼ部外者の僕が傍観うちにどんどん進んでいった。

 ホームルームがあと三分で終わろうとしていたとき、教室の後方の扉が開かれた。

「こら、遅いぞ」

 江崎が鋭く指摘する。声色は柔らかかった。

「すいません!」

 反省しているようには聞こえない、快活な声が帰ってきた。クラス中から失笑の声が漏れ聞こえてきた。

 その人は真っ直ぐ僕の横の席へと座った。

「あれ、あなたは?」

 即答はできなかった。言い淀んで、黒板の方に視線をやると、彼女の方も得心したらしく大きく頷いて見せた。

「転校生なんだ」

 その人は改めて僕を振り向いた。

「私は朝来。よろしくね、お隣さん」

 僕の身体は硬直した。身体に電流が流れたみたいだった。

 まるで太陽のように、彼女の笑顔は明るく思えた。

「未亡人」

 教室のどこかから、そんな言葉が耳に届いた。

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