#2 未亡人
転校というものを初めて経験するにあたって、新しい環境でやっていけるのかどうかという人並みの不安はあったが、杞憂に終わった。教室の雰囲気は、僕が懸念していたほどには悪くなかった。転校の経緯について詳しく聞きたがる者もおらず、僕は次第にクラスに馴染んでいくのを肌で感じた。
陸田登臣という生徒がいたことは、九月中には教えてもらった。朝来のいないお昼休みにたまたま隣に座っていた男子生徒たちからだ。
陸田登臣は、一学期のうちに自宅のあるアパートの三階から飛び降りたのだという。詳しいことはわからないが、追い詰められ、自殺を図った。だが、死に切れなかった。アパートの二階にあるベランダの柵に引っかかり、落下。一命を取り留めた代わりに、足を複雑骨折した。今は病院の個室にいる。もう二度と歩くことはない、と噂されていた。
陸田は朝来と同じ中学校の出身であり、聞くところによると昔からの幼馴染だったらしい。一学期ではつねに一緒に行動している姿が目撃されていた。勇気のある女子が朝来にそのことを問い詰めると、はっきり答えは返ってこなかったものの、まんざらでもない表情をされたという。噂はそんなところから起こり、女子生徒を中心に面白おかしく広められていった。それが、陸田がいなくなってからは雰囲気が変わり、「未亡人」という朝来への揶揄だけが残ってしまっていた。
「ただまあ、俺たちだって直接あいつに向かってそう呼んだりはしねえよ」
教えてくれた男子生徒は首を強めに横に振った。
「朝来さん、怒ると怖いし。未亡人なんて呼んでいるのも一部の女子だけだ。あの人、あんまり他人に媚び売らないから」
別の男子に小突かれて、話していた男子が背中を震わせた。恐る恐るあたりを見渡したのと同時に、遠くの方で女子の一団が目を反らした。わざと目を合わせてから反らしたようだった。
「まあ、こんなわけだ。星野もあんまり朝来さんと関わると嫌な目に合うかもよ」
朝来にまつわる会話はそれっきりで終わってしまったが、僕は彼女について考えることをやめなかった。そもそも僕は転校生だ。周りの女子だってほとんど知らない。だからほかの男子よりも、朝来のことをフラットな視点で見ることができたのかもしれない。
朝来さんは強い人だった。
媚びを売らないと男子は言っていたが、それは本当だった。朝来さんが人を頼る姿もほとんど見なかった。他人に話しかけられたときは最低限のコミュニケーションは採るし、しかも明るくふるまうけれども、誰に対しても深入りはしていないように見えた。もちろん僕に対しても含めて。席が隣ということもあり、こっそり話しかけることもできたが、いつも長続きしなかった。
だからなおさら、僕の気持ちは説明しにくかった。惹かれている自分の感情に時々疑いの目を向けたくもなった。
どう見ても朝来は僕を見ていない。それなのに僕は朝来のことが頭から離れなかった。
ある日の放課後、提出物を持って職員室に行ったときに部活動の話になった。いまだにどの部活にも所属していない僕の身を案じていたらしかった。
「そういえば朝来も天文部だったな」
突然朝来の名前が出てきたことを不審に思いながら、僕は素直にその言葉を受け止めた。天文部の次の活動は九月下旬の土曜日であり、ろくに予定もない僕は簡単にスケジュールを合わせられた。
会合場所として教えられていた地学講義室の扉を潜ると、そこにはさわやかな秋風が充満していた。窓が若干開いていた。カーテンも膨らんでいる。そして誰もいなかった。
「お、熱心なやつだな。こんなに早く来るなんて」
江崎が扉を潜ってやってきた。時刻は待ち合わせより十分ほど早かった。
「興味があったものですから」
「経験は」
「ありません」
「どんな星が好きなんだ」
「えっと、天の川、とか」
「あー、うん、なるほどねー、うーん」
江崎はわざとらしく顎を捻った。教壇の前に立った。
「一応言っておくけれど、今活動できる部員は一人だけなんだ」
部員数が少ないことは聞いていたが、まさか一人とは。朝来さんも苦労していたんだな、としみじみ感じ入っていた僕に江崎は人差し指を向けた。
「君を入れて、一人だ」
「はい?」
思わず声が上ずった。失礼かと一瞬案じたが、江崎はただにっこりと笑っていた。
「前にいた部員が夏休みの間に止めちゃってね」
江崎は僕に説明してくれた。この学校の部活動は卒業式までに部員が三名所属していれば来年度も継続して活動が行える。逆に年度途中に部員が三名以下となる期間が三ヶ月続いたら活動停止となり、部活動経費も返還しなければならなくなる。天文部には幽霊部員の三年生が二名所属していた。一年生では朝来が所属していたが、彼女が辞めてしまったために、天文部は存続の危機にさらされていた。そのとき、偶然にも天文部顧問の江崎が担任を務めるクラスに転校生がやってきた。それが僕だ。入学前の面接の終わる間際の一言も、入学してからの僕への声かけも、全ては部活存続のためにあったのだ。
「というわけで辞めないでくれよな。私の性に合いそうな部活動なんてこれしかないのだから」
「はあ」
僕が力なく頷くと江崎は大袈裟にガッツポーズを決めた。僕には江崎のことがよくわからなくなった。やや弱々しいがちゃんとした大人、というのが僕の江崎に対する最初に抱いたイメージだったが、今、目の前にいるのは弱々しいうえにだらけた大人だった。がっかりするほどでもないが、苦笑いがなかなか離れなかった。
「朝来さんを呼び戻した方が早かったんじゃないですか」
「そんなことできるわけないだろう。ここには登臣くんがいたんだから」
自殺未遂をした陸田登臣。彼が所属していた天文部。夏の間に退部した朝来灯香。頭の中で浮かび上がったそれらの相関図を僕は捏ねくり回した。要するに陸田がいなくなってしまったために、朝来も居づらくなったのだろう。
気がついたら江崎は教壇を離れ、実験台の向かい側に座っていた。
「で、次の土曜日が晴れなのだけど、夜は空いているかな」
江崎の目はいたずらっぽく輝いていた。
天体観測は江崎によって半ば無理矢理経験させられた。並び初めた秋の星座をせっせと追い、それらの明滅を視界に捉えた。星々は僕ら人間にはまったく手が届かないところで動いていた。気を張って追いかけないとすぐにどこかへといってしまう。鏡筒を動かし、ピントを変え、体勢を整える。一番光り輝く時を捕まえて、外れてきたらまた調整する。案外忙しない行いが新鮮で、実のところ楽しくもあった。江崎にとっては幸いなことに、僕は天体観測が性に合っていたようだった。
それから天文部はできうる限り精力的な活動を続けた。
他に活動する部員がいないため、大抵は江崎と二人で観測をした。江崎は星にまつわる話をたくさん繰り広げていて、僕もそれを半分は真面目に聞き取っていた。半分は別のことを考えていた。直截的にいえば朝来のことだった。僕の転校するほんのひと月前まで彼女が所属していた部活動に僕は今、参加している。歯痒かった。教室で見かける朝来にも天文部であることは明かしていたが、特に深入りすることもされることもなかった。
「どうやら僕は君に申し訳ないことをしたみたいだね」
ある日の地学講義室で、上の空でいた僕に向って江崎が溜息をついた。
「なんのことですか」と僕は早口で言った。
「言ってほしいのかい」
「いえ」
「そうだろうね」
江崎はますますにっこりとした。
普段の江崎は、少なくともホームルームや授業の時間で見る限りでは、淡泊な男のように見えていた。授業内容、こと地学になると言葉遣いに力がこもる。それ以外の連絡事項はさっぱりとまとまっていて、雑談もあまりしない。余計な干渉がないことを喜ぶクラスメイトもいたが、これは少数派だ。大抵の生徒は素っ気ない先生を侮り、俯いてスマホをいじっていた。
一方、部活動の間は、江崎はつねに笑みを浮かべていた。天体が好きだから、というだけでは説明がつかない。僕という、たった一人の活動的部員に対して惜しげもなく親しく接してくれていた。天文部存続のためという大義名分があるとはいえ、どちらかといえば僕のことを本気で天体好きにさせようとしているかのようだった。
「ここは趣味の場みたいなものだからね」
江崎は教壇に頬杖をつき、いわし雲の広がる窓の外を眺めた。
「一日のノルマも、教科主任の指導もない。面倒な事務仕事も無視していい。天体についての座学をし、準備をして観測を行えばいい。実績報告もあってないようなものだ。なにより気楽に、僕の好きなことができる。こうしてミーティングの最中、若者を弄ってみるのもまた一興。先生になってみて良かったと思える一瞬だよ」
納得できるような、できないような、微妙な塩梅のことを眠たげに言ってのけた。事実眠そうに見えた。九月の陽気は暑さをようやく抜け出して、寒くなりすぎることもない、ちょうどいい空気を保っていた。
「先生は最初から教師になりたかったのですか」
僕が尋ねると、江崎は「んー?」と音を鳴らした。年老いた猫のような声だった。
「いや、ここに来る前は大学で地層の研究をしていたよ。地質学だ。あちこちの地面を採取して、元々がどんな地形だったか、これからどんな地形になっていくか、調べていたんだ」
「それじゃ、どうして先生に」
「さて、なんでだろうね」
江崎は僕を向いて首を傾げた。
「教員免許は保険として持っていたけれど、実際に教職に勤める気はまるでなかった。それが、三〇歳のときにふっとやる気が湧いてきたんだ。採用試験を受けてみたら無事に通った。研修をしながら方々を巡って、この町にやってきた。これが経緯。理由の方は、まあ、研究員としての生き方に限界を感じたのかもしれないね。研究所と、フィールドワークとの往復で、現代の人間社会にはほとんど溶け込まない生活だったから」
江崎の視線がまた窓に逸れていった。口元に浮かんだ笑みが弱まった。遠くを見ているようでもあり、ずっと近くのものから目をそらしているだけのようにも見えた。
「君、こんなこと聞きたいんじゃないんだろ」
僕は何も言わなかった。首も動かさずにいた。滑稽にみえたらしく、江崎は鼻を鳴らした。
「わかったよ。聞きたいことがあればとりあえず言ってみろ。できうる限りで答えてやる。ただし、上手い言葉を期待するなよ。私が人間の機微云々を苦手としていることは見ての通りなのだから」
そう言い終えた江崎を見たとき、ふと僕は気づいた。自殺未遂した陸田登臣、天文部を去った朝来灯香。二人が部活からいなくなってしまったことを一番悲しんでいるのは他でもない江崎なのではないだろうか。
「先生、知っていたら教えてください」
たった一文を口にするのが随分と重苦しく感じられた。江崎の疲れた双眸とまともに向いあうと尚更逃げたくなった。
それでも、僕は江崎に尋ねた。
「陸田登臣はどうして自殺を図ったんですか」
高速道路の高架下に公園があった。遊具はブランコとシーソーのみで、申し訳程度の砂場があった。公園を囲うフェンスは当たり前のように赤茶に錆びていて、大型車の走行音が聞こえてくる度にビリビリと震えていた。
僕は一脚きりのベンチに腰掛けた。錆びている鉄の足がみしりと嫌な音を立てた。なるべく綺麗な場所を選んで座ったが、尻の皮膚にささくれ立った座面が感じられた。
高速道路の両脇には細い県道が延びている。公園はそれらに挟まれていた。信号の無い横断歩道の先には、薄い灰色の病院の壁が広がっていた。
陸田登臣と、彼の自殺未遂の原因となった月ヶ瀬隼人という少年。二人があの病院に入っていた。僕にとっては面識はまるでない。月ヶ瀬に至っては同じ学校ですらない。だが、彼らの死が僕の現状のもどかしさに浅からぬ影響を及ぼしていることは既に江崎から聞いていた。
両手で口元を多いながら、前屈みになって病院を見つめた。じっとしていても壁が透けて中が見えることはない。それでも僕は姿勢を変えるのも億劫だった。
朝来は陸田、月ヶ瀬と、小学校時代から交友が続いていた。その二人を一気に失った。まだ生きているにしても、陸田は半身不随。月ヶ瀬に至っては未だに意識が戻らないのだという。
朝来の心境を思いやるには、僕はあまりにも部外者だ。ただ惹かれたというだけで彼女を見つめていることを責めたくなる気分だった。
口元を覆っていた手を広げ、顔を包む。視界は暗くなる。西日の残光が侵入してきて、瞳を刺激した。
そのとき突然、公園の隅に伸び始めたススキを踏みしめる音が聞こえた。
「星野くん?」
声を聞いて声が出そうになった。手に覆われたまま目を見開いた。すぐに振り向くには衝撃があまりにも強すぎた。
「驚いた。どうしてこんなところにいるの」
言い訳は何も思い浮かばなかった。朝来と遭遇する可能性は、この場所が病院の前であることを考えればすぐに思いつくことなのに、対策は何もしていなかった。改めて自責の念が強くなった。
時間を掛けて振り向くと、朝来は花壇に聳える枯れかかったヒマワリに触れていた。
背の高いヒマワリは朝来よりも高く伸びている。夏の間は今よりもさらに背を伸ばしていたことだろう。秋の半ばに茎が残っているだけでも、その生命力の高さが窺えた。
「私もここに来るんだよ。あそこの病院、知り合いが入院していてね」
ヒマワリのしなびた花弁を朝来は撫でていた。小さな花弁の何枚かが地面にひらひらと落ちていった。くっついていたことの方が誤りであるかのようだった。
「このヒマワリ、私が植えたんだ。すぐに芽を出して、伸びていって。もしかしたら窓からも見えたかもね」
僕は朝来さんのことを知りつつある。彼女の過去に何があったのかを人伝いに聞いている。
だが、彼女からはまだ何も説明を受けていない。それを受けるだけの立場に今の僕はいなかった。
「朝来さん」
僕は彼女に惹かれているのだろうか。それとも悲しんでいる彼女を励ましたいだけなのだろうか。今の僕は本当に本心で口を動かしているだろうか。
去来する疑問の全てを無視した。
「天文部、戻りませんか」
本当はもっと、踏み込んだことを言うつもりだったのに、その浮ついた言葉は素早く隠れて見えなくなった。あまりにも迅速な動きで、捕まえようがなかった。
朝来さんはヒマワリから僕へと視線を動かした。
「なんで天文部に入ったの」
「江崎先生に勧められて」
「経験者?」
「いえ」
「なんか、固くない?」
「え? あ、うん」
話しているうちに、僕はようやく朝来にそれなりに近づくことができた。物理的にも、心理的にも。
心の機微はわからない、と江崎は言っていたが、そんなの僕にもわからない。朝来は微笑みながら僕を見ていたが、それが受容なのか嘲笑なのかの判断はつかなかった。僕にはそのときの朝来が僕に好意を持ってくれていると信じるしかなかった。
「せっかくだけど、私はもう天文部には戻りたくないかな」
ごめんね、と朝来は小さく添えた。
僕は朝来と並んで帰ることにした。
「星野くん、結構背が高いんだね」
僕の肩のあたりを朝来さんは見つめていた。朝来が普通に立つとそこが目の位置だった。
「登臣くんと同じくらい」
僕は自然な流れで、朝来の口から陸田登臣の話を聞いた。
彼が幼馴染みだったことや、陸上部に所属していたこと。彼らの共通の友達だった月ヶ瀬隼人のことも聞いた。全て江崎から聞いていることを僕は微塵も明かさなかった。
僕は朝来に近づいた。
たった一日でそこまで考えるくらいには舞い上がっていた。
結論を言えば、僕の思い上がりは勘違いだった。
僕が朝来と二人きりで言葉を交わしたのはその日が最後だったのだ。
その日から一週間後の休日、朝来は拘束され、留置所へと連れて行かれた。現行犯逮捕。罪状は殺人未遂だった。
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