Bonus Track 私の友達

# 私について

 私の名前は朝来灯香。S市に生まれ、そのまま育った。

 趣味は天体観測。交友関係はそこそこ。特に仲が良いのは、陸田登臣と、月ヶ瀬隼人。二人は走ることが好きで、実力は拮抗している。ここ一番の勝負時ではいつも隼人くんが勝つけれど、練習での勝率は半々だ。私はそれを知っている。私は二人の走る姿を見ることが好きだったから。

 二人との付き合いがいつから始まったのか、じつはあんまりよく覚えていない。

 登臣くんとは幼馴染みだったから、記憶が無いのも無理はない。おそらくこの世のことについて何のとっかかりも得られないでいるうちに、気がついたら親同士が仲良くなっていたのだろう。愚痴のように述べたけれど、登臣くんのことは嫌いではない。むしろ好感情を抱いている。彼は普段猫背だけれど、走るときは背筋が伸びて、矢のように鋭く突き進む。周りに目もくれないで、自分の信じた道を走っていく。

 隼人くんは、登臣くんと最初に友達になった。小学生の体育の時間、徒競走でたまたま同じレースに参加したのが始まりだった。結果としては隼人くんの勝利だった。足の速さを自慢していた登臣くんはショックを受けていた。本人は心酔したかのように言っていたけれど、私にはわかった。だって登臣君は其の頃、しばらくは食事も半分くらい喉を通らないようだったから。

 それでも数週間をおいてから、登臣くんの方から隼人くんと接するようになった。走ることについて話していたのが、身辺の打ち明け話になり、冗談に代わり、いつの間にか肩を組むくらい仲良くなっていた。

私は登臣くんの友達として、隼人くんのことを知った。体つきは大きくとも、穏やかな表情を常に浮かべている隼人くんのことを、私はすぐに気に入った。走るときは見た目に反してしなやかに手足を伸ばすのも良かった。隼人くんの走りはいつも、曲線でのみ描かれた絵画のように流動的で、目を引いた。

登臣くんは初めのうち隼人くんをライバルとして見ていた。実際にそんなようなことを口にするのも耳にしていた。それが、中学生になった頃から変わってきた。隼人くんのことを持ち上げて、自分自身のことは貶しはじめた。登臣くんは自信を無くしていった。代わりに隼人くんを熱心に応援するようになった。走れなくなった自分の代わりに期待をしているかのような熱意だった。

当然ながら、登臣くんの身体にはどこにも不調がなかった。走ろうと思えば走れたはずだ。それなのに登臣くんは自分に蓋をしてしまった。彼が走る姿を見る機会は日に日に減っていった。

私はずっと、登臣くんにたいして煮え切らない思いだった。だけど、私から言えることなんてせいぜいが「頑張れ」と言うくらいなもので、例えば大会の前にそれを告げても、陸田は何も考えていないような顔で親指を立てるだけだった。それでいて本番になるとやはり隼人を応援する。始末が悪い。私が応援したいのは登臣くん自身なのだ、と伝えるには、登臣くんの意志が強すぎた。

私は登臣くんの走る姿を見たかった。

私は運動が不得手だ。徒競走なんてもってのほか、五〇メートルを走りきるのもやっとだ。それも十秒はかるく超える。自分が走るくらいなら、誰かの走る姿を見ることが好きだった。幼稚園児だった頃から、その思いは全く変わっていなかった。

そしてその幼稚園児だったころから、私は登臣くんの走る姿を見ていた。慣れ親しんだ姿、というには図々しすぎるかもしれないけれど、私は親しみを抱いていた。

登臣くんが隼人くんに憧れていることも知っていた。自分を卑下して彼を上に立てようとしていることも痛いほど伝わってきた。彼は嘘がとても苦手で、そんなもので自分さえもだませていると本気で信じているようだった。自分に見切りをつける登臣くんが、私は悲しかった。

誤解無いように注釈すれば、私は隼人くんのことも嫌いでは無かった。繰り返すようだが彼もまたたしかに私の友達だった。足の速さもさることながら、登臣くんのことを大切に思う気持ちは隼人くんも共有していた。

だから私は、登臣くんのことを隼人くんに相談することもあった。彼の気を引くにはどうすればいいか。あまりにもストレートな問いかけに、隼人くんが困惑していたことを今でもよく覚えている。それから隼人くんは、いつものように穏やかな笑みを浮かべて私を見る。

「朝来さんは朝来さんにできることをすればいいんだよ。登臣は鈍感だけど、きっといつか伝わるから」

 アドバイスをしてくれた次の週に、隼人くんは県大会行きを逃した。

落胆した彼に、私は何も言えなかった。言葉をかけるべきだったのだろうが、どうやって慰めればいいのか皆目わからなかった。そんな私の脇を通り抜けて、登臣くんが隼人くんの肩を小突いた。俯いていた隼人くんは唖然として、それから笑った。

 登臣くんは走る人に敬意を表する。それが彼のいいところであり、私にとっては不満点でもある。そのどっちもが両立していることがなんとも悩ましかった。


「お疲れさま」

 晴嵐高校の職員室の扉を潜った途端、江崎が棚の奥から姿を見せた。白髪交じりの頭をかきながら、コーヒーカップを手に持っている。

「一人で片付けるのは骨が折れただろう」

「仕方ありませんよ。他の部員、みんな幽霊なんだし」

 天文部。それが私の所属している部活。参加しているのは三年生が多いのだが、受験勉強を理由にみんな最近の活動に不参加だった。二年生の部員はおらず、一年生は私以外に数名いるが、最近は先輩達のサボり癖が身についてきてしまった様子だった。つまるところ、夏休みのお片付けにわざわざ参加してくるような奇特な部員は私以外存在しなかった。私とてまだ一年目だというのに、何のアドバイスもなく、相談もなく、顧問である江崎の傍に一番いる学生になっていた。

「君が居なかったらどうなっていたことか」

 江崎は自席に着き、呟いた。出迎えてくれたのかと思っていたが、単にコーヒーを注ぐために立ち上がっていただけだったらしい。

「でも、このまま一年生が私だけになったら終わりですよ。天文部」

 と言って、私は屋上用の鍵を江崎の机上に置いた。天体観測のために設置した機材を撤去するために借りたものだ。江崎はそれを受け取ると、指先で摘まみ、小さく弄った。

「せめて一年は持たせたいんだけどね。朝来君、知り合いで興味を持っている子とかいないのかい」

「興味、くらいなら」

 私の友達なら、話くらいは聞いてくれるかも知れない。そんな分野に興味があると、そういえばずっと前に言っていた気がする。

「え、ありそう?」

「でも、向こうはもう陸上部に所属しているし」

「兼部かな」

「すると思います?」

 私が即座に言うと、江崎はがくりと肩を落とした。

「何事も上手くいかないものだな」

 遠くの方を見やる様子で、江崎がぼんやりと呟いた。

「何かあるんですか」

 ふと気になったので尋ねてみた。ちょっとした話題だったつもりだったが、江崎は大袈裟なほど仰け反った。

「知っているのか」

「何がですか」

「あ、いや」

 江崎の視線が机上を泳ぐ。それにつられて視線をずらすと、資料棚の中のひとつが心持ち僅かに飛び出していることに気づいた。まだ真新しいフォルダのラベルには、生徒異動関係と綴られていた。

「もしかして転校生?」

「しーっ」

 江崎は焦り、周りを素早く見渡した。私達以外にだれも居ないことがわかると、江崎は大きく溜息をついた。

「内緒だぞ、クラスのみんなには」

「てことは、私のクラス?」

「まあな」

「やった」

 クラスメイトが一人増える。何かが変わるというのはそれだけで、なんとなく楽しみになるものだ。と、思っていた矢先に江崎が溜息をついた。

「何かあるんですか。超問題児とか」

「いや、そういうわけじゃないけれど」

 江崎は頭をかきながら、口を僅かに動かした。

「割り切れないんだよ」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。心の中の話、とまず思って、しっくりこないので首を傾げた。江崎を見つめて、目をそらしている姿をぼんやり眺めて、それからふと閃いた。

「もしかして、数ですか」

「うん」

「それだけで」

「いや、だから、嫌ってわけじゃないんだよ。四人班をつくるのに、今の人数はちょうどよくて」

「先生ひどい」

「待って」

 江崎が中途半端に手を伸ばすのを無視して、私は職員室から一人外へと出た。大きめな音で扉を閉めると胸が妙にすかっとした。

 江崎が出てくるかと思ったが、扉は動かなかった。

 廊下には私以外誰もいなかった。遠くで蝉が鳴いている。校舎を取り囲んで、じわじわと私を取り巻いている。

「転校生、か」

 呟いた途端、号砲が聞こえた。校庭から鳴り響いた合図。今日も陸上部が走っている。

 私の友達がそこにいる。私と同じ、一年三組。二八名の中の二人。

 名前を陸田登臣、そして月ヶ瀬隼人。二人は友達で、陸上のことにかけてはライバルだった。中学時代からほとんど変わらない関係。それでいいのか悪いのか、私には判断がつかない。強いて言うならば何も変わらないことが私の望みであり、これはほぼ確実に成就されない。

きっといつか、私達の関係にはひびが入るのだろう。良からぬことが起きたり、考え方が変わったりして、簡単に崩れてしまう。せめてもと今の私に私にできるのは、何も起きないでと祈ることくらい。

これから先、何が起こるかもわからない。それが普通で、それが当たり前のことだ。

「教えてやろ」

 小走りに走り玄関へ向い、靴に履き替えて外に出た。

蝉の声がより大きくなる。暑い陽射しや、中庭に咲き誇るヒマワリ。生い茂る草木は色濃くて、飛び交うミツバチも観ることが出来た。きっとこの国のどの学校にもありふれているような、夏の景色が私の目の前に広がっていた。

つい最近まで春だった気がするのに、時はあっという間に流れていく。

 号砲がまた聞こえる。

急かされるようにして、私は校庭へとかけ出した。

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