#4 始まりの時
高校を卒業して東京の大学に進学すると、母を残して、僕はS市と疎遠になっていった。元々転校生ということもあり、S市を離れることにも拘りはなかった。
知り合った友達の名前も日に日に薄らいでゆく一方で、江崎とは時折連絡を取っていた。大抵は江崎先生からの一方通行で、僕は気が向いたら返事をした。江崎先生は携帯電話もパソコンも持っていたけれど、いつも手紙で連絡を寄越した。いつでもどこでも送られてくるメールというものが気に入らないからとのことだ。
江崎は今、高校で非常勤講師として教鞭を執る傍ら、県立大学で地球科学の研究を行っていた。高校教諭として自由気ままに過ごしていたのがまずかったのか、大学の方から呼び声がかかり、二重生活を余儀なくされたらしい。普段は教鞭を執り、空いている日は市を囲む山々でフィールドワークを繰り返す。状況を聞いてみると結構な多忙さだが、江崎は相変わらず飄々としているようだった。
江崎と一番最近面と向かい合ったのは先日開催された同窓会だった。委員長が配布した参加者名簿に江崎の名前が載っていたからこそ、僕も参加したようなものだった。三年間、最も会話したのは江崎だった。同級生の他の誰をも置いて。
同窓会、参加者二六名。僕が入学する前は二七名だった。一人増えて、二人消えた。朝来灯香も、陸田登臣も、僕が二年生に進学する頃には両名ともに退学扱いとなっていた。
誰にも何も連絡のないまま、朝来の家族はいつの間にか町からいなくなり、空き家となった家は取り壊されて、僕が大学生になる頃には別の人による新しい家が建てられていた。陸田登臣の家族は居住していたが、当の本人はS市を離れ、他県のリハビリセンターに移っていた。その後の消息は聞いていない。
高校生活の一年目は矢のように過ぎ去った。朝来を失った僕がどんな心境で過ごしていたか、思い出は遠くなりつつある。放心していた期間もあったが、そのうち僕の家族の方でも両親の離婚調停の騒ぎが重なり、他の人の身を案じている余裕がなくなった。落ち着きを取り戻したときには三年生に上がっていた。周りのクラスメイトと馴染むことはとうとうなかったが、それを悔やむよりかは進学することに注力した。
大学は理学部に進学し、地球科学、宇宙科学全般を学んだ。地質学も学んでいたことは江崎にも伝えていた。何を学んでいるか報告するように、と江崎に言われていたのだが、今にして思えば、江崎は初めから僕のことを学者の手足として使うつもりでいたのかもしれない。
大学院進学を志望していたが、金銭面での限界があり、僕は大学の卒業間際から就職活動に専念することになった。宇宙関係の企業を希望はしたものの門戸は狭く、焦りを覚えて手広く面接を受けた結果、とある電子機器メーカーに採用された。初年度の担当は事務機器の営業で、相手方は会社の人がほとんどだった。毎日毎日売り込みにまわり、ノルマの達成具合に胃を痛め、時には頭を下げて詫びを入れた。
やりたいことを仕事にするなんて、夢のまた夢。何をやりたいかを考える前に、目先のトラブルを解決することが優先されるようになった。
時間の余裕も無くなっていき、もともと貧弱だった交友関係も輪を掛けて少なくなっていった。月に一度も連絡が来ない日さえあった。そんな環境の中において、かつて好きだった天体観測も、ここ数年はご無沙汰になっていた。
「××三〇年八月十日、流星群撮影の協力求む」
久方ぶりの江崎先生からの手紙を受け取ったとき、正直に言って心が疼いた。
僕は江崎にすぐに了解の返事を送った。返事はすぐにあり、S市の郊外の山中が集合場所として示されていた。
出発までの数日の間、S市について調べ、興味深いことを知った。近年S市が天体観測の名所として取り上げられているとの情報だ。ことの真相を調べていくと、とある新聞の地方記事が目に留まった。モノクロの写真の中に江崎がいた。天体観測の名所としての条件を提示し、それに符合する場所としてS市の高台を提唱していた。このおかげで、僕の与り知らぬところでS市の評判は広がり、観光名所も育ちつつあるのだという。思えば、先日開かれた同窓会も、観光事業で降りてきた助成金によって建てられたホテルの中で執り行われていた。知らないところで町が変わっていくものだと感慨深かったのだが、ことの発端が江崎にあるとは思いも寄らなかった。
八月十日、快晴。予定よりも早く、僕は山の入り口へと辿り着いていた。先生を待ってから行動したかったが、思い出が先行して身体が気づけば足を進めていた。山々の空気は夏に彩られ、木々は緑色に輝き、あちこちで蝉が盛んに鳴いていた。
鬱蒼とした森を抜けて、高台でひと息ついた。天体観測を目論む観光客が何人もいる中で、僕は一人こっそりと脇道にそれた。江崎より事前に教えて貰っていた小径だ。キャンプ場の岩場から山肌へと迫り、鬱蒼とした通りを回っていく。周りが木々に囲まれている分、他の場所からは観ることができない。そこが江崎のお気に入りの場所であるらしかった。
天体観測の道具は全て江崎が持ってくることになっていた。どう見積もっても集合時間まであと三〇分はあった。僕は草むらにレジャーシートを敷き、手持ちの文庫本を読むなどして時間を潰していた。
そのうち日が暮れて、空には薄く雲も這ってきた。今宵の観測に支障は無いかと不安に感じ始めたとき、森の中から物音を聞いた。枝葉の折れる音だった。
僕は音のした方向を見つめた。江崎の声は聞こえてこない。他の誰も出てこなかった。暗がり始める景色の中で、僕は嫌な予感を感じて立ち上がった。
昔から、それこそ僕が高校生くらいのときから噂が流れていたことだ。この山にはクマが潜んでいる。普段は山の奥深くにいるが、場合によってはキャンプ場の周辺にまで出没するという。
恐れた僕はレジャーシートをそのままに身を強張らせた。発煙筒の準備はできていた。クマだという確証が持てた瞬間、スイッチを押して助けを求めるつもりでいた。筒は片手に、片膝をつき、森の中を凝視していた。
ずっと景色を見ていたものだから、そこに潜む木々の揺れの不自然さに気がついた。
悟ったときにはすでに、足下が揺れていた。
××三〇年八月十日十五時四四分。
大規模な地震が僕らのいるS市を襲った。
僕は咄嗟に草原の真ん中へ逃げた。発煙筒のスイッチも押した。煙がもうもうと上空へ垂れ込めるのをみて、不安混じりのまま、うまくいくことを願った。
そのとき、足下が急に浮いた。正確には脚を支えていた地面が消えた。
滑落。
陥没したのか、崩れたのか、確かめる暇も無いまま、ひどく情けない声をあげながら、僕の身体は地面の中へと落ちていった。
長い時間眠っていた気がした。
「うう」
自分のうめき声を聞いて僕はようやく起きた。頭を抑えて薄目を開く。薄暗かったが、何かがあるのは見えた。光が遮断されていたらこうはいかない。そこには空間があった。生き埋めにはなっていなかった。
ごつごつとした地面の上に黒い影が見えた。獣がいるのかと身構えたが、どうも無機物らしかった。大きく硬質な、黒い岩のようなもの。暗がりに目が慣れてきて、その岩の形もより鮮明になってきた。
黒曜石。紫水晶。鉱石の名前がいくつか思い浮かんだが、しっくりとはこなかった。黒や紫の間のような色合いで、光がほとんどない場所だというのに表面には淡い金箔のような輝きが浮かんでいた。鉱石の中に小さな星空が浮かんでいるかのようだった。金箔は寄り集まり、まさかとは思ったが、確かに蠢いて見えた。
僕はすっかり見惚れていた。石には襞があり、まるでバラの花びらのようだった。新発見という期待。そしてそれ以上に、輝きに魅了された。
そこには不思議と音がなかった。獣の声も、草を踏み分ける音も聞こえない。町からそう離れていない場所だというのに人も獣の気配もない。本当なら地面の中に隠れていたのだろう。誰かがこの場所にくるなんて、もう何年、何十年、下手したら何百年も想定されていなかったのだ。
僕は石に近づいた。表面の輝きはますます強く輝いた。僕の一歩一歩に呼応しているかのように、星が蠢き、広がった。表面の動きが鮮明に追えるようになったとき、僕はほとんど石に接するように立っていた。
「綺麗だ」
素朴な感想が口をついて出てきた。
誰に急かされるでもないのに、僕の心臓が高鳴った。糸で引かれるようにして、僕の腕は石の表面に手を置いた。
冷たい感触が夏の夜に火照った身体に心地よかった。涼むのにも良いかもしれない、などと考え始めていたとき、目の前の景色が揺れた。
「え――?」
大きなスクリーンに映し出された光景が波打っているかのようだ。
黒の中に青と赤が光り、黄色が差して折り重なる。
目に見える光の全てが渦となってこんがらがり、上も下もわからなくなる。
恐怖で身動きが取れなかった。
動けないでいる自分自身の身体が保てているかもわからなかった。
目を閉じても光が止まない。
そもそも閉じる瞼が存在しない。
色々な光景だけが見えている。
赤みを帯びた管の中。壁が揺れている。先の方に光が見えて、そちらへと身体が押し出される。
僕という存在が始まったそのときから、僕の時間が流れ始めた。
様々な人と出会ってきた。父の姿。母の姿。友達。引っ越してもう会っていない彼ら。入れ替わりに出会った朝来。僕の知らないところで逮捕され、僕に別れを切り出した朝来の手紙。それら全てのことを思い出したくなくて、何もかもに目をそらして生きてきたこと。
今まであった全ての人たちが景色の激流に浮かんでは消えていく。
それは僕の半生だった。
たかだか二〇余年しか生きていない僕の経験の全てが目の前に集約されていた。どれだけ碌でもないと悔やんでもすでに全て起きてしまったことだった。
激流が、少しずつ穏やかになっていく。
目に見える景色が一つにまとまり、焦点が合い始める。
そこはもう暗くなかった。しっかりと日の出ているどこかの通り。地面は土では無くアスファルトで、街路灯や家々を囲む塀も見えている。
目の前にある一軒家の塀には表札が提げられていた。「陸田」の文字。聞いたことがある。僕が一度も会わなかった男の名前だ。
「星野くん?」
声に振り向くと、目を見開いた朝来がいた。あまりにも唐突で、僕は雷に打たれたような思いだった。
出会わなくなってから十三年は経っている。それにもかかわらず、朝来は高校生の頃の背格好のままだった。目元には明らかに涙のあとがあった。
「どうしてここにいるの」
朝来の声は高ぶっていた。甲高い。感情がこもっている。動揺がありありと浮かんでいた。
「朝来さん」
まとまらない考えをよそに、僕は朝来の両肩を掴んだ。
もしもここにいるのが記憶のままの朝来なら、彼女が陸田登臣の家の前にいるということは。
「それは絶対にしちゃいけない」
僕の手には力が籠もった。朝来が震えていることが掌の感触から伝わってきた。
今この瞬間、朝来は陸田の家に乗り込もうとしていた。このあと陸田登臣の部屋に行き、彼女は陸田の母を階段から突き落とす。裁判の結果は示談に終わったが、何があったのかは、たとえ教えてもらえなくても、噂が耳に入ってきていた。聞きたくないと思っても聞こえてしまったのだ。
「どいてよ!」
朝来は叫んだ。往来を歩く人が振り向くのがわかった。注目が集まっている。声に反して、朝来には動揺が浮かんでいた。
僕は決してどかなかった。
足を上げようともしなかった。
沈黙が耳に痛い。
周りの人たちがしびれを切らして、ようやく動き出したころ。
僕の前で、朝来は泣いた。
大きな声で泣いていた。
僕は彼女の横に立って、一緒になって歩いて帰った。
あとからじんわりと実感した。
僕は時を遡っている。
不可思議な話だが、現に起こっていることだから疑いようもなかった。
僕はタイムリープをして、朝来の犯行を未然に防いだ。
そうして得られたのは、穏やかな時間だった。
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