#5 僕について

初めて時をかけた夕方、朝来はずっと泣いていた。

じっとしている気にはなれなくて、だけど用もないものだから、川縁をさまよったり、子供たちが遊んでいる公園の片隅で小さな庭園を眺めたりした。

気がついたら朝来は泣くのを止めていた。涙の痕で頬を赤く染めながら、僕に小さな声で「ありがとう」と言った。

公園に聳える時計塔が五時の鐘を鳴らした。金属質の人形が見え隠れする。遠くでは夕陽が沈もうとしていた。

××十七年十月三日。この日逮捕されたはずの朝来は、今僕の目の前で「そろそろ帰るね」と手を振った。顔色は優れなかったが、もう俯いてはいなかった。

 朝来が遠ざかるにつれて、僕の動悸がじわじわと大きくなっていった。

 朝来は確かに僕の目の前に居た。僕と話した。今までいた世界ではもう決して聞こえないだろうと思っていた声で。

 僕は時を遡っている。

 原因はまるでわからない。強いて言うならば、元いた世界で見つけた黒いバラ。人智を超えた妙な力でタイムリープを果たしている。その理由は、目的はなんだろうか。朝来の前に自分が現われた理由は。

「……ふふ」

 笑い声が口から零れた。

 朝来のことはもう遠い昔に置いてきたつもりでいた。彼女が逮捕されたこと。その彼女のことを自分は好いていた。その過去に触れたくて、拒絶され、絶縁したこと。

 何もかも忘れたつもりでいた。

 だが今、自分の胸は高鳴っている。身体は嘘をつかない。僕は後悔をしていたのだ。朝来と寄り添えなかったこと、そして彼女の真意がわからないままに関係が終わってしまったことを。

 もしも自分が彼女の前に再び出会えたなら。

そう考えたことも一度きりではない。

 そんな願望をあの黒い石は聞いたというのだろうか。

 僕は朝来の逮捕を防ぐことに成功した。

 明日からは、僕の知らない時が流れる。僕の後悔が消えた世界。

「こんなことがあるなんてな」

 あたりは暗くなっていた。

 公園で遊んでいた子ども達もすでにいなくなっている。一緒にきていた母親に連れられたらしい。誰も居ない砂場の中にシャベルがひとつ打ち捨てられていた。


 翌日からは学校が始まり、僕はやや早めに登校した。しばらくすると生徒が集まってきた。朝来もやってきて、僕の隣の席へとついた。思った以上に変わらない顔をしていた。僕を一瞥すると小さく「ごめんね」と呟いて、目をそらした。僕は朝来の横顔をしばらく見つめ、朝来に邪険に睨まれた。

「何かついてる?」

「いや何も」

 何もかも、驚きだった。

 授業は普通に始まり、普通に終わり、次の授業が始まり、昼食の時間になる。それが終わると午後の授業。掃除の時間。やがて部活の時間となり、天文部の活動はないので朝来は帰路についた。その背中をついていこうとしたが、途中でクラスメイトにつかまった。適当に相槌を打っているうちに朝来は先に帰ってしまった。

 翌日も朝来はいた。その次の日も、そのまた次の日も。翌週になっても。

 朝来が生きている。その喜びはやがて安堵感の中に溶けていった。自分の身に奇跡みたいなことが起きたという実感も薄れていった。驚き続けるというわけにもいかないのだ。

 運命を変えるなど罰当たりなのでは、と不安にも思っていたが、日常は全く変わらなかった。僕は朝来の友達のままでいた。本音を言えば、友達以上に親しくなりたい。そんな感情を抱けるくらいの余裕も生まれてきていた。

僕は状況に馴れてきていた。時を遡るといっても、今までの成功はたったの一度。試しに使おうというわけにもいかない。黒い石はもうどこにもなかったし、まさか地面を掘り起こすわけにもいかないだろう。どこに埋まっているのか見つけるのも大変だ。

 再びの高校時代が訪れて、もしや当時より成績があがるのではと期待したが、驚いたことに記憶していた知識は全て失われていた。数学の解法も英語の文法も歴史の記憶も全部忘却の彼方だ。僕は全く以て高校生らしく授業を受け、高校生並みの知識を持ってテストに臨んだ。パッとしない成績は時を遡る前と遜色なかった。

 知識だけではない。少なくともこのときの僕は、身も心も高校生のままだった。大人だった頃の記憶はほとんど維持できていなかった。

後に何度か振り返ってみるうちに、僕は自分なりにある程度仮説を立てた。

きっと人間の精神の許容量には限界があるのではないか。

僕は時を遡り、僕が高校生である世界に来た。僕という存在はその高校生の僕に統合される。ふたつのものがひとつになる。そのとき、まるで最初からひとつだったかのように見えざる力が働くのではないだろうか。僕は初めからこの世界に一人の人間、星野泰時として生まれ育った、という記憶が生み出される。

例証なんて僕一人しかいないのだからとてもできないが、感覚として間違っていないと思う。どうせ僕しか体験していないことなのだ。好き勝手に論説を作っても誰にも咎められやしない。


 冬が訪れ、春がやってきた。二年生が矢のように過ぎ去って、三年目の春が訪れた。それなりの面白さと程々の緊張、弛緩。懐かしかった高校生活とやらも、あっという間だった。

 晴嵐高校では志望する進路によってクラスが分けられている。大学進学希望ならば、私立か、国公立か、難易度はどれくらいか。専門学校や就職を志望する者にも対応している。枠組みが多いお陰で校舎には生徒が山ほど潜んでいた。

僕は国公立大学への進学を目指していた。興味が湧いていた地学、天文学分野の研究をするために江崎に県立大学を勧められた。朝来は僕とは違うクラスに入った。国公立でもなく、私大でもなく、就職を目指すクラスだ。地元周辺での就職を探しているという話だった。

 朝来の成績は決して悪くない。むしろ学校の中では上位に入る方だ。就職なんてもったいない、と陰で呟く先生の姿を見たこともあった。口には出さなかったが僕も同意見だった。

 朝来が進学を志望しない理由を僕は察していた。

「ごめん、私これから部活もあんまり来れないかも」

 三回目の七月に入って早々に、朝来は僕に向ってそう言い、頭を下げた。面食らったが、僕も受験に追われて部活に割ける時間は少なくなっていた。

「江崎先生には言った?」

「これから。星野くんには先に伝えておこうと思って。部員集め、大変な時期なのに任せてごめんね」

「いや、いいよ」

 それじゃ、と手を振ろうとした矢先、朝来がすでに昇降口を振り返っていた。その背中を見ていたら、無性に喉が熱くなった。

「またリハビリセンター?」

 やや声が強くなったのかもしれない。朝来が素早く僕を振り向いた。

「うん」

 端的に、だけどはっきりと発音されていた。朝来はじゃあねと手を振って小走りに廊下を進んでいった。

 遠ざかる朝来を僕はしばらく見つめていたが、やがて首を振り、部活へと急いだ。


 朝来のリハビリセンター通いは二年半ほど続いている。尋ねに行くのは、陸田登臣だ。

 陸田は一年生の間は休学扱いだったが、高校二年に上がってしばらくすると退学した。江崎の持っていたクラス名簿には、陸田の名前に二重線が引かれた。三年目になると名前が削除された。もう晴嵐高校の生徒ではない。名簿にだって載らない。わずか三ヶ月しか通っていなかった生徒のことを覚えている者も少なくなっていた。

 陸田には学校に通う意志がなかった。退学も自主志願だ。もうこの学校に未練もないのだろう。

 幼馴染みである朝来だけが、陸田を忘れられずにいる。


 天文部の活動場所である地学講義室に入ると、中には誰もいなかった。窓からは西日が差込んで部屋を照らしていた。穏やかだが、部屋は広々として寒々しかった。

 天文部に僅かでも顔を出した一年生は片手で数えるほどしかいなかった。正式に天文部に入るかどうかもわからない。もしも朝来がいなくなったら、天文部は本格的に活動を休止せざるをえないかもしれない。

 実験用の背のない椅子に座り、机に両手を載せ、顔を埋めた。昼寝の体勢だが、眠気はまるでやってこなかった。

 頭の中にはまだ朝来がいた。

 一度だけ、朝来に連れられてリハビリセンターへと訪れたことがあった。朝来の手伝いをしようと思ったのだ。高校二年の春の頃、陸田はまだ休学扱いだった。

 真っ白い円筒のガラス張りの扉を潜り、受付を済ませてエレベーターに乗った。病棟はまっさらで、看護師たちがきびきびと歩いていた。最近建てられたものらしく、研究機関とも連携していて資金面が充実しているのだと後で知った。

 最初、陸田は病室にいなかった。朝来が先だって看護師に尋ね、中庭へと案内された。芝生の中、なだらかな丘の上に病人達が屯している中を朝来とともに歩いた。

 初めて見た陸田は車椅子に乗って、楡の木の傍に座りじっと地面を見つめていた。そこに何があるわけでもなかった。陸田は当然人の身体をしていたが、気力が何も感じられなかった。

 僕は何も言わなかった。

 心の内ではショックを受けていた。

 怪我人を相手にして、その相手に甲斐甲斐しく手を添える朝来を前にしては、何も言えなかった。ただ、この無気力な人間から朝来が離れられずにいることを、不謹慎ながら、不幸に思った。

 朝来の将来は陸田に縛られている。

 成績も悪くない朝来は、入ろうと思えば大学に進学できる。実家の生花店も決して不景気というわけではない。経済的にも能力的にも潤沢だが、心だけが地元に向っている。

「それが朝来の望むことなのだから、君には何もいう資格はないよ」と、あるとき江崎に言われた。朝来のことを相談したら、思いの外真面目な顔で僕を見てそう指摘した。

 本当にそのとおりだと思う。朝来が何を考えても、僕に邪魔する権利はない。そんなことは許されない。朝来には朝来の人生があるのだから。

 しかしそれでも、心のどこかで反駁していた。朝来を憐れむ気持ちがどうにも抑えられなかった。

 頭に浮かぶのは、リハビリセンターで目にした陸田の顔。あの無気力で、何も浮かばれない顔だ。

 聞くところによると、陸田はかつて陸上部に所属していたのだという。自殺未遂の際に脊髄を痛め、下半身が動かなくなり、走ることは絶望的になった。加えて元々の精神的な負担からも立ち直れないでいる。


 もしも、陸田が自殺などしなければ。


 実験台の上で、声にならない呻きを漏したその瞬間、何かが音を立てた。

何かが落ちた。手の中だ。だが、そこには何も無かったはずだ。

 おそるおそる掌を広げた。

 そこには黒い菱形の、バラの花弁のようなもの。

 薄れていた記憶が一気に引きずり出された。

 忘れかけていたことだ。僕はかつて地面に落ちた。そこで黒いバラのような石をみた。それがどこで、いつのことだったのか、記憶の遥かかなただが、わずかに覚えている。

十年以上も先のことまで記憶があった。未来のことだが、僕の経験してきた思い出だった。

「もう一度、できるのか」

 僕の口が動いた。

 黒いバラは当然何も言わない。ただ何も言わずにその表面を光らせている。渦巻く銀河のような模様が、心なしか早回しになった気がした。

 鼓動が僕の背中を押した。

 両の手がバラを包み、頭に思い浮かべた。

 陸田登臣が自殺した日。××十七年六月二日。

 目を閉じた。ぐいぐいと流れる風を感じた。温かくもあり、冷たくもあり、水の中に沈む瞬間もあった。落下する感触もあった。きっと目を開けば酔って死ぬ。そんな気がしていたら、いつの間にか僕は立っていた。涼の脚が地面を踏み、掌はいつしか空を切っていた。

 懐かしい匂いをまず感じた。次いで窓から差込む薄明に照らされた室内に懐かしさを覚えた。使い古した机や椅子、本棚。そこは引っ越す前の僕の部屋だった。

 どうしてここにいるのか。ぼんやりしていると記憶が薄れてくる。僕は慌てて机の脇に転がっていたメモを引っ掴んだ。


 陸田登臣の自殺を止めないといけない。


 だが、陸田登臣とはいったい誰のことだろう。

 その日、僕はとうとう動けなかった。


 ひと月後、母は父の離婚を知り、母は怒り、僕を連れて自分の地元S市へと帰った。両親の話し合いはもつれ込み、離婚調停が進められた。その間、元の学校に戻る選択肢もあったが、僕の希望もあってS市内の高校に転校することとなった。元々所属していた高校には未練もなかったし、不倫を責められた際に逆上した父を目の当たりにして、一緒にいたくないと率直に思ったのだ。

 九月になり、新しい教室に入った。隣席の朝来灯香に一目惚れをし、彼女の口から陸田登臣の名前を聞いた。

 陸田登臣。

 名前を聞いた瞬間、愕然とした。机の片隅に眠っていた、どうして書いたのかも思い出せないメモに書いてあった名前だった。

 時を遡り、彼の自殺を止めること。

 何のことだかわからなかったメッセージがそのときはじめて意味をなした。それは同時に、自分の詰めの甘さを証明することでもあった。


 朝来の話を聞いたその日、まだ引っ越したての新しさが抜けきれない自室にて、僕は胸に手を当てた。

 本気になって念ずればいい、とメモに書いてあったのでそのとおりにした。あまりにもばからしくて試したこともなかったのだが、実際にしてみると、果たして手の中に小さな菱形が現われた。それが黒いバラの花弁だと、僕は思い出すことができた。

 ××三〇年に地震に巻き込まれたこと。地滑りに巻き込まれ、辿り着いた洞穴で黒いバラを目にしたこと。それを手にした瞬間に時を遡り、朝来の罪を防いだこと。記憶はまさしく怒濤のように頭の中に流れ込んできた。

 黒いバラを手に持つと記憶が蘇る。今までの経験を活かすには、バラの存在が不可欠だ。どのタイミングに遡るべきか。最低限、陸田が生きている必要がある。六月、五月、四月……

 考えてもしかたがない。僕はまず六月から始めた。

時を遡り、黒いバラを呼び出して記憶を蘇らせた。陸田登臣を探して電車を乗り継ぎ、彼の自殺した地へと向った。廃ビルの屋上だ。

それから先の試みについて、結果的にそれらは全て失敗した。陸田に接触することができても、陸田は僕を拒絶した。知り合いでもない男に絆されるような男ではなかった。

陸田は何度も地面に落ちた。もちろん陸田にとってはそれぞれ一回きりの自殺だっただろう。だが僕にとってそれは繰り返される血みどろの光景だった。だんだん慣れてくる、なんてことは決してなかった。彼の身体が砕ける度に、僕の胸は穿たれた。同じことを繰り返し続けて、精神的にも疲弊し始めた。連続するタイムリープが身体に及ぼす影響を僕はまだ知らなかったが、決してよろしくないものなのだという予感はあった。

十数回、陸田の死を目の当たりにした。屋上まで辿り着いて陸田が指先の数十センチまで迫っていたのに、また彼は命を落とした。

アパートの欄干から見下ろすと彼の死体が横たわっていて、血飛沫にあたりの草木が染まっていた。あと少ししたら近隣住民の通報で駆けつけた救急車が彼を見つける。そんなどうでもいいことが僕にはわかってしまっていた。

 僕には陸田登臣の自殺を止めることはできない。

 直感に打ち拉がれ、僕はその場に頽れた。廃ビルのひび割れた内壁を見ながら、力ない笑いが口からまさしく零れていった。

 どうして止めることができないのか。

 僕が陸田のことを何も知らないからだ。

 彼からして見れば、僕は在来線を三時間も乗り継いでようやく辿り着く遠い地に住む同年代の見知らぬ少年に過ぎなかったからだ。

 僕には味方が必要だった。陸田の知り合いで、彼の自殺を止めうる人物。彼を説得する可能性のある人物。

 思いついたのはただ一人だった。


「タイムリープ?」

 地学室にて、朝来は僕の顔を見て目を見開いた。部活直前で、他の生徒が誰もいない時間帯。朝来の声はやや大きかった。

「それ、本気で言っているの?」

 九月。朝来が僕に陸田のことを打ち明けてくれたとき、話の流れを断ち切って、僕は自分の持つ能力について打ち明けた。にわかに信じがたいことは百も承知だった。

「本当のことなんだ」

 僕は黒いバラを呼び出した。いつものごとく、気がついたら掌におさまっている。僕が時を遡るのと同じように、このバラもまた人知を超えた力でこの世界に現われるのだろう。

「なに……これ」

 朝来ははっきり怯えていた。

「これを握って遡りたい時を思い浮かべる。何をしていた時か具体的に思い浮かべられるとなおいい。そうすれば、自分がいた時間に遡ることができる」

 具体的に例示をしてあげようと思ったが、その必要はなかった。思ったよりもずっと強く、朝来は黒いバラに関心を示してくれた。

「これで、星野くんはタイムリープをしていたの?」

「うん。陸田の自殺を止めようとした」

「登臣くん? どうして」

「朝来さんから陸田のことを聞いたんだ。彼はもう歩けない。陸上競技にも出られない。それを……なかったことにしたかった」

 僕が陸田を助けようと思ったのは朝来のためだったはずだ。それを陸田のためだと言い切った。その方が、より朝来に伝わると思った。朝来にとっても僕はまだ知り合ったばかりの男なのだから。

 思い返してみると、僕はこの時点で負けを認めていたのだろう。僕は自分が陸田には敵わないと直感していた。それでも陸田を助ければ、運命は変わると信じていた。

「これを朝来さんに託す」

 黒いバラは朝来の掌から少しだけはみ出した。艶やかな表面に浮かぶ銀河が大きく揺らいだ。

「僕には無理だった。だが君ならきっとできる。陸田登臣の自殺未遂を止めてほしい」

 朝来はすぐに、目に光を点した。意を決した彼女の姿は凜々しくて、目を合わせているのが苦痛だった。

「やってみる」

 力強い口調で言うと、朝来は目を閉じ、掌を強く握りしめた。

 そして再び、僕の記憶は途切れた。

 タイムリープしたら黒いバラを呼び出すこと。それから、僕の連絡先をメモすること。時を遡ってから記憶が持続するまでの限られた時間の中で行える策を練り、朝来に託した。

 ××一七年六月。朝来からの連絡は、電子メールで来た。僕は自室に立っていて、妙にぼんやりとする頭を擦っていた。

「成功したよ」

 その短い報告のあとに、僕がタイムリープをして彼女に石を託すまでの経緯がつけくわえられていた。僕は記憶を維持していない。だが長文のメールと、報告に混ざる朝来の親しげな調子から、ただならぬ気配を感じた。書かれているとおりに念じ、黒いバラが僕の掌に召喚され、僕はやっと記憶を取り戻した。

「上手くいっている」

 胸を撫下ろして、自室の窓から夕暮れの空が見えた。カラスの飛び交う、六月の良く焼けた空だった。


 朝来を仲間に引き入れてからは成功が続いた。陸田登臣の行動パターンをつかむ可能性が前よりも格段に増えた。朝来が陸田のことをよく知っている証左だった。

六月が過ぎ、陸田は学校に無事通った。

時は流れて、夏が過ぎた。九月になって、僕は教室の扉をくぐった。今まで僕が座っていた席には、前に見たときよりはずっと血色の良い陸田登臣が憮然とした顔で座っていた。

何も感じないふりをするというのも大変だった。陸田が生きて、僕の前に現われた。僕の胸の内は喜びで大騒ぎだった。

まだ僕を知らない江崎が、真っ当な担任として陸田の隣に設えた真新しい席を僕の席だと伝えてくれた。

「初めまして」

僕の通り抜けざまに、朝来がこっそりと言った。見れば、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

「こちらこそ」

 僕もにやっと笑っておいた。

 僕の前で陸田が不可解そうな顔をしているのが若干愉快でもあった。


陸田は学校を休みがちだったが、それでも学校に籍はあった。

今までで一番、希望があった。

このまま陸田が死ななければ、万事うまくいく。何事もなく、朝来が自由になれば、それでいい。僕の目的は果たされる。

僕と朝来は協力して、陸田の自殺をことごとく防ぎ続けた。

本来の自殺が六月だったことを考えると大成功だった。季節はすでに秋に差し掛かっている。陸田は半年以上も生きながらえていた。

だが、依然として自殺は続いた。

陸田の精神は死に引込まれていた。

小手先の遡上ではどうにもならず、根本的に時を戻さなければならないケースも増えてきていた。

いくつもの時間軸を乗り越えて、次第に朝来は物静かになっていった。

タイムリープを行えば朝来の精神は削られていく。経験則だが、もはや事実だろう。無理をするな、と折を見て僕は何度も注意をした。

「気にしなくて良いよ」

 登臣くんを守るためだから。

言葉のあとにはいつもそう続いていた。

「そうか」

僕はいつも、聞こえないふりをした。


 九月も終わりに差し掛かったある日のこと。朝来からの連絡を受けて、駅まで自転車でむかっていった。

 ホームに並んだときにアナウンスを聞いた。

「特急電車が通過します」

 白線の内側に下がる人々の間に立って、陸田は全く動かない。

 その時点で、彼を怪しげに見つめる人もいた。

 異様な雰囲気を察したのかもしれない。

 踏切の音が聞こえてきた。

 陸田がわずかに身を沈める。足に力が入っている。

「おい」

 と、最初に肩を叩いたのは僕だ。陸田は僕の手を不快そうにはらった。まだこちらを向いてくれない。

 そして朝来が継いだ。

「久しぶり、登臣くん」

 陸田は突然現れた朝来と僕を交互に見た。

 彼は何を思っていたのだろう。

 学校に出てこないでいる彼に親しく話しかけるのは朝来くらいしかいない。

 その朝来だって、ぎこちない雰囲気は隠せないでいる。

 まして転校生の僕となると、名前だって覚えていてくれているのか自信はない。

 陸田が眉を寄せた。

 あたりが静まり返る。

 一定のリズムで動いていたヒグラシの声が、急にトーンを落とした。

 声は自然と強調される。

「なあ」

 陸田の鋭い視線が僕を射貫いた。


「お前らさ、タイムリープしてね?」


 いったいどこで気づいたというのだろう。

 時を遡っているなんて発想が普通の人に浮かぶものだろうか。

 時をかけていないというのに、陸田はそれに気づいてしまった。

 愕然としているうちに、辺りが暗転した。光景が渦巻いて、陸田も、ホームのアスファルトも全てが一緒くたになって、沈み込んだ。

 気づいたら、ホームへと至る階段にいた。

「朝来?」

 傍らにたつ朝来は、手の甲を握って壁に寄りかかっている。荒く息を吐いており、額には脂汗が滲んでいた。

「おい!」

 僕は慌てて朝来の肩を支えた。朝来の身体は異様に熱を放っていた。

精神力の限界。

僕が恐れていた事象が朝来に襲い掛かっているようだった。

特急電車の走る音が聞こえてくる。

衝突音、それから悲鳴。

ホームの喧騒を振り返らずに、彼女を気遣いながら懸命に歩き縋って、駅員に事情を説明して改札から外へでた。救急車のサイレンが聞こえてくる。雑踏はみな駅に集中している。その陰に隠れるようにして、駅からほど近い場所にあるベンチに腰掛けた。

星の光は夜の街の騒々しい光に相殺されていた。

朝来の横に僕も座り、一息ついた。

あわただしく人の行き来する駅を見ながら、しばらく沈黙が続いた。

救急車の音が聞こえてくる。

予定通り自殺を図った陸田を助けに来たのだろう。彼は死ぬのか、死に損なうのか。粉々に砕ける姿が頭をよぎり、急いで首を横に振った。

喧噪を後ろにしながら僕は振り返らず、朝来の肩を支えていた。

「深呼吸をしよう」

 僕が提案すると、朝来は弱々しく頷いた。大きく息を吸って、朝来は夜空を見上げた。

 目に見えない僕らの吐息が喘ぎを交えて流れていった。

 やがて朝来は落ち着いた。肺を押さえながら、唇を噛んで前を見ていた。

 駅に入っていった救急隊が姿を見せ、ざわめきを増す野次馬を駅員が抑え込もうとしていた。

「どうしてタイムリープをしたんだ」

 救急車の音が聞こえてきて、自然とその問が浮かんだ。

「登臣くんが、気づいちゃったから」

 語尾を震わせたか細い声で朝来は答えた。狼狽が嫌と言うほど伝わってきた。

「でも本当に、どうしてなんだろう。せっかく登臣くんを助ける機会だったのに」

本当にわからない。

壊れてしまった玩具のように、朝来はそう繰り返していた。

「……そうか」

僕は目を閉じた。

彼女のことをかわいそうに思った。

なぜわからないのか。

いくら責めても、問いただしても、答えは返ってこないのだろう。

僕は、朧気ながらわかる。

陸田が、駅のホームで僕たちを振り返ったとき、彼の視線にあった鋭い悪意に、僕は気づいた。

彼女もきっとそれを感じたのだろう。

朝来は怖かったのだ。

タイムリープをしていた者として、陸田に敵意を向けられることを。

それはきっと無意識のうちの拒絶なのだろう。

彼女はまだ、自分の瞳が常に陸田から離れないでいることに無自覚でいるのだから。


僕はいつから朝来の陸田への想いの強さに気づいていたのだろう。

陸田の自殺を食い止め始めてからだろうか。

その提案を彼女に持ち掛けてからだろうか。

あるいは、一番初めの時間軸で、彼女の隣の席に着いた時から、うっすらと気づいていたのかもしれない。

朝来はいつも友人である陸田の話をする。

陸田のことを身を賭して救おうとする。

朝来は、陸田の傍に居たがっている。

僕の入り込む余地なんて初めからどこにもなかった。

気づくチャンスはいくらでもあったのに、僕は気づかないふりを通していた。

彼女を救うという大義名分を損なわないために、陸田と朝来との関係をわざと記憶の奥底に沈めていた。

 時を遡って忘却を重ねても、頭のどこかには常にその気づきと諦念が潜んでいたんだ。

「登臣くん」

走り去っていく救急車の背中を見つめながら、朝来がぽつりと呟いた。

横に僕がいることなどまるで気にしていないかのように。

「ねえ、星野君。私、もう一度タイムリープをしたい」

朝来の顔が僕の方へと向けられた。

泣き顔が、星々の光に照らされている。

綺麗な顔だ、と改めて思った。

懇願のために眉根を寄せているのがもったいないくらいだった。

「君の精神は限界なんだ」

僕はなるべく淡々と説明してあげた。

タイムリープの限界で、意識を失う。

何が起こるか確証はもてない。下手したら廃人になるかもしれない。

事細かに説明すると、上気していた朝来の顔が白んだ。

「それじゃ、いったいどうすればいいの」

「方法はあるよ。この石だ」

 慣れたもので、それはすでに僕の手の中にあった。あるいは無意識のうちに呼び出していたのかも知れない。いずれにしろそれの出現はいつだって唐突だ。この世のものじゃないのだから。

「僕の力で時を戻す。朝来がまだタイムリープを授かっていない世界に行けばいい。そうすれば君の精神が負ったダメージは全て帳消しになる」

「でも、星野くんの精神は大丈夫なの?」

「だいぶ休ませてもらったからね。ほんの数か月巻き戻すくらいわけないよ」

片手で胸元をたたいてみたら、思いのほかいい音がした。

朝来の泣き顔に、初めて笑いが入り込んだ。

それだけでも、この時間軸に来た甲斐があるというものだ。

口には出さずにそう考えて、ほっと大きく息を吐いた。

「星野君、必ず私に会いに来てね。一緒のクラスになって、作戦を練ろう。登臣くんを助けるために」

朝来は必死な様子だった。

僕はなるべく大きく頷いた。

「もちろん」

僕は躊躇なく嘘をついた。

朝来の顔が穏やかになる。

「ありがとう」

朝来は赤い目をしながら、涙の跡をさすっていた。

これが朝来の本来の笑顔なのだ。

朝来はいつでも笑っている。だけどいつも胸のうちに悲しみを湛えている。僕にはそれがもうわかる。わかるからこそ、限界だった。

「うん」

僕から与えてあげたのはほんの小さな同意だけ。

それでも十分だったらしく、朝来は口元を笑いで満たした。

僕はもう見ていられなかった。

なるべく僕の顔が朝来に見えないように、顔を逸らして、空へと祈りをささげた。

掌に包まれた黒の花弁が折り重なり、熱を帯びる。

あたりがどんどん白んでいく。

駅も、ベンチも、人々も、朝来さえもその場に見えなくなった。


最もうまくいった時間軸は、朝来が独房へ入れられず、陸田のリハビリの世話だけをし続けて大人になった時だった。

朝来は実家の生花店を継いだ。時を遡る前に、僕は一度彼女の家を訪ねていた。

生花店のイメージキャラクターを作りたい、という相談を受けての訪問だった。

何の変哲もない一日ではあったが、朝来と僕はごく自然に共同で作業をしていた。

黒いバラを手にした僕だけがその記憶を保有している。

そのときの温かさを忘れたくはなかった。

たとえ彼女が陸田に掛かりきりだとしても、すがりたい思い出ではあった。

だから、新たな作戦を実行するために、記憶を頼りにそのときのキャラクターを再現した。黒いインナーとタイツの上に銀色で塗装された布を巻くという簡素なもので、その気になれば小一時間で作れてしまう簡単な制作過程だった。

見れば見るほど妙な服だ。でも、僕にとってみればその服は宝のような思い出だった。

この世のだれも覚えていないというのなら、僕だけがその姿を通して君のことを思い出そう。

 これから先の成功を願う勝負服としよう。

 そう、思った。


「……あなた、だれ?」

なりふりはかまっていられなかった。

僕は直接、朝来の家に飛び込んだ。

中学校を卒業したばかりの彼女はひどくおびえていたようだった。僕のことは知らないのであり、当然と言えば当然だが。

「どうも、未来人です」

全身銀色タイツの僕は、勢いに任せて、流れるように説明を重ねた。

「君はいずれこの力で人を救おうとする。覚えておくといい」

驚愕も疑問も猜疑もあって当たり前。そうわかっていながらも、僕は彼女の表情をつとめて無視した。

今回の作戦は、僕の演技に掛かっている。

僕がいるのは裏方で、陸田と仲良くなるのは朝来だ。

朝来と陸田がお互いの傷を癒し合うようにお膳立てをする。

それが僕の立てた、最新の、そして最後の作戦だった。

僕が笑ったのを、彼女が不思議そうに見つめていた。

なんだかとても平和なしぐさで。


こうして僕は、彼女の前から去った。

僕は父の不倫の証拠となった写真を母に見せなかった。父の不倫はそう遅くないタイミングで発覚し、結局S市への転校は行われたが、晴嵐高校は何が何でも選ばないようにした。

その一方で、時折様子をうかがうべく、朝来の傍に現われ、陸田を諭しもした。

すべては朝来を守るためだ。

彼女が生きるために、僕は彼女の傍に陸田のいる未来を望んだのだ。


 たとえ二度と、彼女の前に僕として現われることができないとしても。

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