#5 救済
死にたいと言っている人など、この世にはいくらでもいる。インターネットに潜ってみれば、死を望む声はこの世にごまんと見つかるものだ。
自殺願望には積極的なものと消極的なものがある。
積極的に望む奴は自殺する方法を学ぶ。首をくくるにはどうしたらいいか、ナイフをどのあたりに刺せば良いか。死ぬのに適切な高度、速度はどれくらいか。仮に自殺できたとして、周りに迷惑を掛けないためにはどうすればいいか。いくつもある要素を調べ、やがて実行に移す。一方消極的な奴は、自殺をしたがる仲間を探す。自分と同じ悩みを持つ人を見つけて傷をなめ合う。死にたいという思いを共有して、死を何でもないことだと思い込もうとする。
俺もどちらかといえば消極的な部類だった。
消極的自殺願望者の集まりはインターネット上に散在していた。俺はとりあえずどこかには所属して、飽きたら動くというのを繰り返していた。そのうち辿り着いたのが、「泡沫会」という集まりだった。
クローズドなBBSがその会の中心であり、毎日誰かしらが自分の思いの丈を長々と発露していた。いかにして自分は苦しみ、死への希求を持つにいたったか。必ずいくつか反応が返ってきていた。慰めるというよりは、同情だ。それなら死んでも仕方がないと、どの話題でも結局はそうおさまった。
泡沫。泡になり、そのまま消えようという意味だ。後には何も残さずに。当然のことながら、それができないからみな悩んで集まり嘆いているわけだ。
泡沫会の主宰はBBSに常駐していた。何らかの話題が提供されると、必ずそれに寄り添うコメントを与えていた。長すぎず、短すぎず、耳に優しい言葉が並べられていた。だが、不思議と見苦しくなく、むしろ読みたくなる文章だった。話題に関係ない他人である俺が見てもそう感じたのだから、話題の主はさぞかし嬉しかったことだろう。
主宰は「救い」という言葉をよく使った。自分がこのBBSを開設しているのは救いのためだという。苦しんでいる自殺願望者の希望を聞き、吐き出す場所をつくり、ときには反応する。それも義務ではなく、本心からだ。
主宰の方針に反発する者もいた。俺が所属してからも数名が、放っておいてほしいという理由で泡沫会を去った。
出たり入ったりを繰り返し、BBSに顔を出すメンバーがだいたいいつも同じになってきた頃に、主宰はある提案をした。
「そろそろ皆さんを本気で救いたいと思います」
主宰は日時と場所を指定した。七月の第四週。夏の終わりの土曜日だ。場所は俺の住む市からさほど遠くなかった。一時間ほど電車を乗り継いだ先にある、隣県の山中だった。
主宰には取り巻きがいた。自分の悩みについて、常に主宰の言葉を信じ、主宰から返事を賜ると熱く御礼を申し上げ、数日もすればまた似たような悩みを打ち明けて主宰の言葉を待ち望む連中だ。まずは彼らが率先して参加を希望した。一段落してから、気分の乗った者が順次手を挙げた。俺は比較的最後の方で反応を示した。ちょうど死にたいという欲が高まっていた時期だった。翌日には参加募集は打ち切られ、その後追加募集は行われなかった。
当日、俺は予定時刻より三〇分ほど早めに到着した。すでに三人の先客がいた。荒れ果てた山道という特異な場所でありながら、皆じっと携帯電話を弄っていた。電波はすこぶる悪いというのに、誰も口を開こうとしていなかった。
予定時刻になると人数は十人になった。やや遅れて、道の奥からバンが現れた。白い車体のあちこちに泥や枝葉がついていた。中からは細身の男が降りてきて、「ようこそ皆さん」と腕を広げた。登場した傍から白々しいその男は、口調からして主宰の男と思われた。
「全員このバンに乗ってください。救いの場所へ案内しますので」
自殺志願者たちは無言でバンの扉を潜った。求道者が教会へ入るときのような静けさだった。バンは大きかったが、十名もの人間を収容するにはやや狭かった。あからさまに舌打ちをする奴もいた。そいつの名は水原という。自分から名乗っていた。舌打ちをきっかけに一度話し始めると、愚痴混じりの打ち明け話が勝手に続けられたのだ。
「僕は人を殺したんですよ」水原は舌をぐるぐる回すように話し出した。
「一人殺してしまうともう止まらなくてですね、それから何人も何人も。癖になっちゃったんでしょうね。捜索が続いている子も多いです。言い忘れていましたが殺したのはみんな子どもでしてね、やっぱり無駄に大きくて、抵抗があると興が冷めてしまいますので」
BGMとするには胸くそ悪い話だった。参加者の中には露骨に顔を顰める者も多かった。水原は反感的な空気を一切気にせず、人殺しの話を続けた。初めは俺も嫌だったが、なにを言っても無駄だとわかるとなるべく無視することにした。
バンが目的地に到着したが、水原の語りは止まらなかった。主宰は自殺志願者たちを外に出した。水原は一番最後に、参加者数名の協力のもと背中を押されて外に出た。
そこにあったのは、二階建てのペンションだった。木造の屋根に板塀。壁には小さな四角い窓が格子つきではめ込まれている。階段を上った先に玄関が一つあり、廊下を渡るとバルコニーに続いた。所有者は主宰だというが、道楽にしても作りがいい。主宰の身分はわからないが、それなりの資産の持ち主であることはうかがい知れた。
「さあ、入ってください。並んでください。もう準備は整っていますから」
ペンションに入るとすぐに大広間に通された。板張りの床にお昼過ぎの黄色い陽光が燦々と広がっていた。部屋の中央には火鉢が設置されていた。練炭だ。特殊な道具は他にない。結局は窒息死か。
「火鉢に火をつけたら、じっとしていて、煙が広がるまで待ってください。視界が白んだらほぼ終わりです。勝手に息が止まりますから。遅くとも日が沈む頃には済みますよ」
主宰はどこまでも朗らかに死への最短ルートを示した。異論を言う者はいない。
参加者は火鉢を囲んで円となった。相変わらず口が止まらない水原の隣だけやや間隔が広がっていた。
黄色い陽光は次第に赤みを帯びていった。窓ガラスが眩しい。夏の山からは独特の粘り気のある草の香りが伝わってきていた。じっとしていれば、ここは自然そのものだった。クーラーも扇風機もつけていない。真ん中では火鉢は燃え続けている。窒素する前に熱中症にでもなりそうだったが、抵抗するものはいなかった。
話し続けていた水原も口調に疲れが見えてきた。淀みなかった殺人の描写が次第に色あせていった。声も嗄れていた。三回目か四回目かの殺人まで触れたとき、水原は口を閉じた。
「殺したんですよ。生きている価値はないんですよ。私は」
思い当たることがあったのだろう。水原は両方の肩を自らの手でつかんで膝をついた。二足歩行のための力を一気に失ったみたいな頽れ方だった。俯いた水原の瞳には涙が溜まり、肩はふるえていた。気がつけば自殺志願者のほとんど全員が水原に視線を集中させていた。
「死んだ方がいいんです。いろんな人に言われました。私もそうだと思います。警察は今日来るはずでした。父が呼んだんです。立派な人ですよ。僕は息子だけど、社会のためにということで僕を通報したんです。でも私は、ここにいる。だからつかまらない。また殺してしまうかもしれない」
水原の訥々とした話し方の中で、俺はふと主宰に視線を向けた。全員が目を向けていると思っていたが、主宰だけは違った。そっぽを向いていた。顔は怖いくらい白くなっていて、拳が軽く握られていた。笑ってはいないようだ。むしろ、とても怒っている。
「そうなるのはダメです。人殺しはダメなことです。みんなそう言います。だから捕まるべきなんです。だけど逃げた。逃げてしまった。なぜって、捕まりたくなかったから。でもダメなんです。これではみんな、許して、ああ」
水原は突然頭を抱えた。声量がふくれあがり、みなが固唾を吞んで経緯を見ていた。
「捕まらなくては、いけないんです。父が困る。母も。すいません主宰さん、私はこれで――」
言い終わる前に、主宰の身体が水原に詰寄り、彼の首を絞めた。女性の参加者が悲鳴をあげた頃にはすでに、水原の顔は赤らみ始めていた。主宰は爪を突き立てており、食い込んでいる。水原は目を見開いていた。あまりにも大きく見開くものだから、そのうち飛び出してきそうに見えた。
「なにを寝ぼけたことを言っているんですか、水原さん」
主宰は早口に言った。
「あなたは救済されるんですよ、これから。私が救済するんです。勝手に逃げる? はは、そんなこと許さねえよ。ふざけるな。おい。あなたはここで死ぬんですよ。確定事項です。私の手によって大人しく死ぬ、それが救済です。わかったら黙ってろ。おい、聞いてるのか? ああ!?」
声の主は変わらないのに、口調だけがころころと変わっていった。バンを操縦してきた主宰が、目の前で身体も変えずに別人へと入れ替わっているようだった。男性の参加者の何名かが主宰に飛びかかった。真っ赤になった腕を引き剥がし、紫色の顔をした水原を引き剥がした。水原はその場に倒れた。もう喋ってはいない。参加者の一人が水原の許に駆け寄り、呼吸を確認した。「生きてるよ」この言葉に安堵するのもおかしいとは思ったが、俺も、他の誰も何も言わなかった。
「僕の救済の邪魔をするな!」
主宰は叫び、勢いづいたまま、彼を掴んでいた参加者に頭突きをくらわせた。怯んだ参加者を組み伏せて床にたたきつけた。他の参加者が駆け寄る前に一発拳が振り落とされ、床の軋む音が聞こえた。ミカンの潰れるような音がした。
俺はとっくに喉がかれていた。腕も動かなかった。でくの坊になった身体の中で、耳だけが、甲高い音を拾っていた。
「サイレン?」
誰かが呟き、他の人々も顔を見合わせた。
「警察じゃないか」
「救助隊?」
「うそ、見つかったの私達!?」
ペンションの中は騒然となった。参加者達は各々自分勝手に怯えると、次々と玄関から外へと流れ出ていった。
「おいこら貴様ら!」
主宰が喚いている。そのすきに、倒れていた参加者が頭突きを仕返した。アシカみたいに反り返った主宰の顔面に蹴りを食らわせ、逃げ出した。俺もそれに続いて逃げた。背後では主宰が吠えていた。アシカがまた別の怖ろしい何かに変わった。残された参加者たちの悲鳴に鳥肌を感じながら、俺は森の中へと突入した。
周りには誰も見えなかった。参加者は散り散りになった。鳴り響く甲高い音は明らかに救助隊のサイレンだった。何かを言っている。助けにきたとか、やめておけとか、そんなことだ。聞く耳持つと本気で思っているのだろうか。だとしたらおめでたい。だが捕まるのはごめんだ。あの場所にいた全員はそう思っていたことだろう。水原も倒れる前はそう思っていたはずだ。心変わりさえしなければ、みんな自分を救おうとする権力を恐れていた。
森の奥深くに入った頃にはもう夕焼け空が広がっていた。疲れた目に強い西日は毒だった。ふらつく足で進んでいたら、川のせせらぎを耳にした。喉が渇いた。ずっと乾いていたのを思い出したのだ。一度水が思い浮かぶとどうしても振り切ることができなかった。枝葉も気にせず棘も無視して森の奥へと足を進めた。
やがて開けた場所にでた。鬱蒼とした森の木々が途切れていた。川がある。急流だ。小枝や落ち葉がいくつも押し流されている。見上げれば夜空だが、山頂付近には黒い雲が覆い被さっていた。もうじき俺の真上にも雨が降り始めるかもしれない。
河原には苔生した石が転がっていた。滑り気がある。大小様々な石の上を小さな沢蟹がちろちろと動き回っていた。俺がしゃがむと、沢蟹たちは石の合間に潜っていった。
蒸し暑い夕方だ。走ってきたために、なおのこと息が上がっていた。汗みずくの顔を拭いながら、川に手を差した。ガラスのように透き通っている。冷たさがありがたかった。一口飲み、間髪入れずに次の水を掬った。止まらなかった。いくら死にたいと願っていても、手が止まってくれなかった。矛盾なんて身体は気にしてくれなかった。
俺は両手を後ろに回した。小粒の丸い石が掌に当たる。やや痛いが、身体の重さには我慢できず、俺は空を仰いだ。夕暮れはすでに東の空から暗く染まり始めていた。白い月もあり、目を凝らせば星も見えた。
星を観察する道具がないならば山に行けばいい。小さい山でも、街から離れていれば十分星が綺麗に見えるものだ。そう教えてくれたのは江崎先生だった。まだ天文部に入って間もない頃の話だ。
最初から朝来と同じ部活に入るつもりだったわけじゃない。俺は陸上部以外の運動部を探していた。走ることが役立ちそうな部活を選ぼうと思い、野球部やテニス部、サッカー部にも顔を出した。四月から五月にかけて置かれる体験入部の期間中に出入りして、足に自信があることをアピールした。好感触だったと思っている。ただ、誇示しすぎた。しばらくすると陸上部の連中に目をつけられた。俺が中学時代に陸上部だったことを知っている奴もいた。勧誘を頑なに断り続ける俺に、好奇の目は次第に苛立ちを帯びていった。できることをしない俺が、奴らには怠惰に見えたのだろう。弁明をしようと思ったが、面倒になった。どうせ部活に入るかどうかだけが問題なのだ。死にかけの友人の話をいきなりしても遠ざけられるか、そんなの関係ないだろと一蹴されるだけだ。関係なくはないのだといくら言っても聞かないだろう。暗い推測が幾重にも連なり、俺は運動部を選ぶのをやめた。
天文部には朝来が先に入っていた。無事帰宅部になりつつあった俺は朝来につかまり江崎の前に連れてこられた。天文部には一年生の朝来と三年生の数名しかおらず、三年生にはもう部活に顔を出す気力もないのだと説明された。要するに廃部の危機だ。六月になるまでに最低あと一人部員がいないと潰れるのだという。人助けと思って、と朝来に説得され、俺もただ名前を貸すだけならばと入部届に署名しその場で提出した。
六月が過ぎ、七月となり、俺は天体観測に初めて付き合わされた。なにもかも初めてだ。夜の校舎に招かれたのも意外だった。天文部だけの特権なのだと朝来に説明され、不覚にも胸が疼いた。こればかりは嘘じゃない。
星は見えた。黒い夜にちらほらと輝いていた。半月が南の空にあった。綺麗だな、と俺が呟くと、朝来は妙な笑みを浮かべて俺を望遠鏡の前に招いた。
レンズ越しに見えた星空は、俺の想像を超えていた。星の数が段違いだ。あの黒い空のどこに輝きが隠れていたのか、肉眼ではまるでわからなかった。自分が見ているものが、本当はレンズに貼り付いた絵ではないのかと疑いたくもなった。朝来が笑っていた理由を俺は瞬時に理解した。星空という概念が塗り変わった瞬間だった。
それからは望遠鏡の角度を変えて方々を見渡した。星達はゆっくりと動いていた。時間を見て、次の位置を探し、同時に星座の形も教えてもらった。知識としてだけ知っていた星座は、望遠鏡で覗くと親近感を増した。見えていないから興味がわかなかったのだ。昔は今より光りが少ない。賢人は夜空を照らす星々に位置関係を見出し、物語を編みだした。その気分がようやく理解できたと思った。
時間が経つのは速く感じられた。約束されていた十一時となり、江崎の車で俺たちは家へと帰らされた。寝室の窓からまた星を見上げた。明るい星がいくつか見える空。でもその星と星の間にはいくつも見えない星がある。人間の目に見えないだけだ。それらは脳裏に浮かび、俺の目を冴えさせた。
綺麗だったから惹かれた。単純すぎる気がするが、それが事実だ。確かに星を見ている間、俺は死ぬことを忘れていた。隼人のことも忘れていたと思う。俺を死なせまいとする朝来が、俺を散々天体観測に誘う理由は、きっとそのところにあるのだろう。
朝来に思いを馳せていた俺の耳に、物音が飛び込んできた。
振り向いたときにはすでに影が上に広がっていた。逃げる間もなく首を掴まれた。
「逃げるんじゃねえよ」
すっかり顔を歪ませた主宰が空を隠して立っていた。俺は首を絞められていた。親指が肉に食い込んでくる。爪が異様に尖っていた。今急に動かされれば簡単に血が吹き出るだろう。視界は明滅し、動くこともできなかった。
「お前ら救助隊が来ただけで逃げやがって。ちゃんとあの家ごと燃やせるように灯油を持ってきていたのに、興奮しやがって。動物じゃねえんだから。おい、死にたいんだろ? 警察に捕まっちゃそれはできねえ。だからせめてもと、僕はこうして今一人一人追っているんですよ。なかなか見つからなくて、君でやっと一人目ですけどね。さあほら、じっとしてろ。これが一番楽なんだから。痛みもなく、眠るように死ねるんだから」
反論したかった。楽なもんか。どうしようもなく痛いのだ。だが主宰は顔色を変えない。俺を睨み、口を歪ませている。酷い顔だ。救済、と譫言を繰り返していた。
指が一段と深いところに入ってきた。首の骨が折れるんじゃないだろうか。知覚するよりもまず、意識が飛びそうだった。明滅していた視界は次第に黒一辺倒へと染まりつつあった。
主宰は口を大きく開いて笑っていた。獣が吼えているみたいだ。口の中には牙が生えそろっているように見えた。正真正銘の化け物だった。
意識が持たない。
目を閉じた瞬間、俺は倒れた。
小石に激突し、鼻筋が熱くなる。興奮した沢蟹が頬を撫でていった。俺は呻いて、咳き込んだ。血の味がした。口の中が切れているらしい。
上体を起こしてあたりを眺めた。赤い空が暗くなりつつある。川面が黄金に輝いている。俺の周りには誰もいない。
さっきまで誰かいた。そう俺は感じている。
銀の男の言葉を思い出し、胸ポケットからメモとペンを取り出した。思い出せることを探した。男がいた。俺を掴んでいた。殺されると思った。たしか、男は――主宰。
書き終えた直後に悲鳴を聞いた。鳥肌が立った。木陰から猛禽が大勢飛び去っていく。人間の悲鳴だった。どんなに声を出そうとしても自発的にはだせない、濁ったおぞましい叫び声だった。
逡巡があった。日が暮れかかっている中、動き回るのは危険だろう。それでも、その悲鳴には聞き覚えがある気がした。予感だった。嫌なことが起きているという予感。沢から離れ、木立に足を踏み入れた。湿った落ち葉や草木を静かに踏み進めた。顔を上げ、目を凝らして、木々の隙間に何かの動く影を見つけた。
俺はじっと目を細め、何者かを見極めようとした。大きな黒い身体が見える。人かと思ったが、それにしても大きすぎる。毛も生えている。隆起する筋肉を眺め、視線を下にずらしていった。もぞもぞと動いている先端の先に誰かいる。人だ。やけに胴体が長い。さらに目を細める。横顔が見えた。真っ赤にただれたようなその顔は、歪んでいた。見開かれている目と俺の目が合った。主宰だった。大きな生き物は熊で、腹の肉があった場所に熱心に顔を埋めている。
状況を理解するやいなや、俺は口に手を当てて必死に叫び声を塞いだ。元来た道を駆けた。熊にはもう気づかれたことだろう。胸の内側が盛り上がり、走りながら吐いた。よろめいた身体を叱咤してとにかく前へ進んだ。後ろを振り向く余裕はなかった。物音がいくつも聞こえる。熊が来ている。主宰のようにはなりたくない。あの死に方はむごい。あれだけは勘弁してほしい。そればっかりを反芻していた。
川辺にでた。日はすっかり暮れている。俺は迷うことなく水に飛び込んだ。
急な流れに俺の身体が沈む。前後の境がなくなって、どこにもつっかかれない。岩にぶつかって腕がねじれた。悲鳴が泡になった。綺麗な水のどこにも空気はなかった。俺は身体を丸めた。首もひっこめた。流れるままに身をまかせた。
相変わらず岩にぶつかる。流木に足や腹が削られる。血の滲む感触があった。俺の身体が裂けていった。無我夢中で水面を割り、息を少し吸い込んでまた水中に戻った。段差があった。陸地に上ってしまったら、足を転がしてまた流れに乗った。死にたくなかった。矛盾する自分を弄する暇もなかった。
これは朝来の思惑通りなのだろうか。打撲の痛みに麻痺しながら、俺はふと想像した。だとすれば相当過激だが、成功していると言わざるをえない。俺は死にたくないと本心から思わされてしまっている。
参ったものだが、しかたない。諦念が俺の頭を埋め尽くす。相手はいくらでも時をさかのぼれるのだ。何の能力を持たない俺の心は、結局あいつの掌の上で転がされる運命なのだ。
とびきり硬い岩が頭にあたった。脳裏に星が舞い、砕けた頭蓋骨から漏れ出た気がした。酷い有様だ。痛みしかない。他にはなにもない。意識が吹き飛び、なにも無くなった。俺の記憶は完全に途絶した。
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