時をかける俺以外

泉宮糾一

Side-A 俺以外

#1 始まりの駅



 跨線橋から延びる階段を降りていると、電車のドアの開くのが見えた。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だ。疲れた顔をした人々が一斉に出てきて、同じようにくたびれた横顔の人々が乗り込んでいきく。そして滞りなくドアが閉まる。俺は待機位置の一番前に立ち、人の詰まった車内を眺めた。動き出すと、車体に映っていた俺の像はすぐにぼやけた線に変わった。

 電車は鉄の塊だ。その前に躍り出れば易々と身体が砕け散る。周りは騒然とするだろう。このホームはしばらく出入りが制限される。半日も待たずに世論が湧く。死亡した人間の身元も特定され、電車遅延に対する責任も追及される。テレビのニュースキャスターはお悔やみを申し上げ、コメンテーターが無責任な自殺に憤る。現代人の生命への軽視が危ぶまれ、無警戒な駅員への糾弾も起こり、対応策の検討が勝手気ままに繰り返され、やがて事件の記憶は、その後に起こるもっとセンセーショナルなニュースに乗り越えられる。そして何も残らない。なんとありがたい話だろうか。

 俺の心はとても穏やかだ。

 俺は今日、人生を終えるために駅に来た。齢十五歳と半年ほど。俺は目を閉じ、再び想像を膨らませた。

 若者がなぜ、と新聞で騒がれるだろう。俺のいなくなったあとの世界で、俺の精神は勝手気ままに分析される。同級生達は葬式に参列させられるだろう。晴嵐高校一年三組。入学してわずか三ヶ月しか経っていない。俺にとっては面識のない者達がほとんどだ。彼らとて、俺のことはほぼ知らないだろう。体裁として斎場では沈痛な顔を浮かべても、離れれば俺の自棄を嗤い、忘れ、翌日からは別の話題に興ずるだろう。他人とはそういうものだ。

 俺の両親は、まあ泣くだろう。平凡な人生の中で、それなりに近しかった。俺との仲は良かったと思う。少なくとも同級生達と比べれば接しやすかった。妙に足の速かった俺に陸上競技を勧めたのも彼らだ。小学生のときに嵌まると応援してくれて、中学生になって大会に出場するようになると車で俺を会場まで運んでくれた。感謝がないとはとても言えない。良い人たちだった。悲しませるのは忍びない。だがそのような感傷も、俺の死を止めるには及ばない。

 陸上競技にも思い入れはあるが、中でも一番良かったと思うのは、本当の才能がある奴が友達になってくれたことだ。名前を月ヶ瀬隼人という。人と付き合うことが億劫で、あからさまに人を避けていた俺に、わざわざ接してくれていた奇特な奴だ。

 隼人の才能は俺みたいな子供だましとはまるで違っていた。走ることにおいての全ての所作が自然であり、綺麗に整っていた。無理をするでもなく易々と俺を超え、部員のほぼ全員からも距離を広げ、あっという間に全国の舞台に顔を出すまでになった。

 隼人の実力は申し分なかった。それにもかかわらず、誰にも驕るような真似はしなかった。俺は隼人をいつも応援した。自分がたとえ走らない大会でも、隼人が活躍すればそれで良かった。彼こそは陽に当たるべき存在だと確信し、彼を支えることに力を注いだ。隼人もまた、俺のことを気に入ってくれたらしく、練習の合間に俺の傍に寄ってきては他愛ない会話を交わし、大会の日には冗談を言い合ってお互いの身体を解していた。

 俺の数少ない俺の友、月ヶ瀬隼人。貴重な存在だった。この頃特に強く思う。

 もしも彼が今の俺を見たら、きっと引き留めたに違いない。だが、そんなことはありえない。他ならぬ彼がもう二度と走ることはないからこそ、俺は自死を望んでいるのだ。

 彼が走れない理由は俺が招いたものだ。だから俺は、相応の償いをしなければならないと思っている。たとえこの命をもってしても。

 もちろんこの考え方は、短絡的で、傲慢と言われるだろう。人道的に立派な他人は青筋を立てて怒るかもしれない。君は悪くないのだと穏やかな口調で長々と諭す者もいるだろう。この世にはまだまだ君の知らないことがあると肩を叩いて背中を押すに違いない。それらの言葉は全て、きっと正しい。だが俺はその全てに賛同できない。

 俺は俺が見苦しいのだ。このまま生きながらえたところで、隼人に申し訳が立たない。

 人には死に時がある。俺にとってそれは今だ。心はすでに、そう断じている。

 アナウンスに耳を刺激され、俺は目を覚ました。緑がかった世界が段々色付いてくる。強すぎる白色の電灯には羽虫が群れで飛び回っていた。


 次の電車がまもなく来ます。白線の内側にお下がりください。


 俺は動かなかった。白線は目の前にある。後ろにはすでに数名が列をなしていた。誰もが静かに並んでいる。それは当たり前のことだった。普通の人は誰も線路に飛び込もうとはしない。自分から死を招き入れることなんて、生命の本質に反している。

 深く息を吸い込んで、線路に狙いを定めた。

 不意に鳥肌が立った。

 足が竦んだのとは違う。まさしく、嫌な予感だ。

「登臣くん」

 聞き覚えのある声。振り返れば見知った顔があった。

「なんだか久しぶりだね。元気にしていた?」

 朝来灯香。

 彼女は微笑みながら首をわずかに傾げていた。

「それともどこかへ行くところだったのかな?」

 質問されていることはもちろんわかっていた。だが俺の口はなかなか動かなかった。応える気にもなれなかった。朝来の言動も、存在も、全てが不可解に感じられた。彼女の顔が何か違う別の生き物の顔のように見えた。

「それにしても偶然こんなところで会うなんて、珍しいね」

 偶然、本当にそうだろうか。そんな偶然があるだろうか。

 今まで積み重なってきた情景が頭の中で交錯する。

 俺は死のうと思っている。月ヶ瀬がいなくなってから、今まで何度も考えてきた。実行しようと思ったことも一度や二度ではない。それなのに、いつも邪魔が入った。

 俺はいったい今まで何回、朝来に邪魔をされてきた?

 これは偶然じゃない。心臓が警鐘のように響いている。

「どうしたの、青い顔して」

 朝来が眉を顰めて俺に一歩近づいた。俺は後退る。足は誘導ブロックの出っ張りに引っかかった。下がれないでいる俺に朝来が迫ってきた。

 背後で風が逆巻いた。いくつもの明かりと轟音が横へと通り過ぎていく。新しい電車がホームに到着した、とスピーカーが淡々とアナウンスしていた。

 朝来は下がった。電車に威圧されたのか、若干目を開いている。

 鈍いブレーキの音が細くなり、車体の唸りも甲高くなる。

「なあ」

 身を砕く道具となりうる鉄の塊は、あと数分でそのドアを開く。疲れ切った人々が雪崩のように押し寄せてくる。

 今ならまだ間に合う。

 俺は朝来を睨み、確信を込めてこう言った。


「お前らさ、タイムリープしてね?」

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