#2 俺について

「あっ」

 手を伸ばしたときにはすでに遅かった。三脚は倒れ、騒音が鳴った。

「ぼんやりしすぎ」

 離れた場所で座っていた朝来は眉を顰めて俺を睨んだ。

「倒れただけだ。本体は無事だよ」

 俺は足下に転がる筒を指し示し、次いで三脚を拾い上げた。足を広げ、無事に立たせ、突っつく。揺れはない。問題ないとアピールした頃には、朝来はもう目を逸らしていて、自分の手元に集中していた。望遠鏡のレンズを乾いた布で拭いている。

「壊れたら弁償だよ」

「わかってるよ」

「本当に気をつけてね。ひとつ何十万とするから」

「ああ……え、そんなに?」

 返事の代わりに朝来は今一度俺を睨んだ。

「早くしてよ。先生には三時になるまでに片せって言われているんだから」

 腕時計は二時四十五分を示していた。

 先生とは天文部の顧問、江崎のことだ。やや線の細い白髪交じりの五十代。年相応、というには飄々としすぎている。疲れを見せながらも余裕のある地学教師だった。

 俺も朝来も天文部の部員である。とはいえ、俺が天体観測を経験したのは二日前が初めてだった。天文部と名乗るのに相応しい活動実績だ。

 一学期に予定していた観測日がことごとく雨に見舞われて、夏休みの最初の週にようやく観測日の目処が立った。当日の日暮れ過ぎは天候が良かった。望遠鏡を通さなくても夏の大三角形はしかと見えた。

 はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル。三つの一等星が織りなす三角のうち、アルタイルとベガの一辺から南西へと視線をずらすと赤い大きな星がある。それがさそり座のアンタレス。赤く光っているのは終わりの時が近いためだ。もっともその終わりがいつ来るかはわからない。明日か、明後日か、一〇〇年後か、一〇万年後か、五億年後か。あるいはすでに跡形も無くて、ただその残光が届いているだけなのかも知れない。

 これらの途方もない話を、天体観測の合間に江崎は熱く語ってくれた。大三角形が望遠鏡の縁からレンズに入り、反対側の縁へと逃れてしまうくらいまで。

 江崎は俺のクラス、一年三組の担任教諭でもあった。普段の江崎がどれほど静かか、三ヶ月ほどの学校生活の中でも十分に学んでいた。部活動中の江崎とは雲泥の差である。先に天体観測時の江崎と出会っていたら、印象はがらりと変わっていただろう。

 同じ天文部の朝来も俺と同じクラスの生徒だ。三ヶ月どころか、幼い頃からの知り合いである。

 朝来はずっと星が好きだった。小学生の時分から、自宅で天体観測をしているという噂もあった。本物の望遠鏡なんて容易に手に入るものでもない。理科の授業でその話題が出る度に、朝来は一目置かれていた。女の子の友達を自宅に招いて観賞させることもあったそうだった。俺も誘われたことがあったが、女子の家に上がり込むのは気恥ずかしくていつも断っていた。

「それじゃ、私の分は先に運んでおくから」

 思い出に耽っていた俺の耳に朝来の声が飛び込んできた。振り返れば、校内へと続く扉が閉められるところだった。

 朝来のいなくなった屋上に俺は佇んだ。

「静かだ」

 独り言を呟きたくもなる。

 耳を澄ませば、遠くから運動部のかけ声が聞こえてきた。夏だというのに、一日中全く衰えず声を張っている。立派なものだ。好成績を残す部活は少ないが、努力している分、俺などよりはよほど立派だろう。

 俺は鏡筒から手を放し、そろりと縁へと歩いてみた。

 鉄製のフェンスがあった。高さは俺の胸の高さくらいまである。グラウンドでは陸上部や野球部が幾人も広がっていた。グラウンドと校舎の敷地の境目には花壇があり、ヒマワリが疎らながら鮮やかに色付き始めていた。

 俺はフェンスに手を掛けて、胸を支えに地面を見下ろした。アスファルトに薄汚れたオレンジ色の波模様が石畳に描かれている。年季が入っているらしく、ところどころ剥げていた。


 身を砕くには十分な高さだ。


 気が付くと、瞬きするのを忘れていた。

 相変わらず部活動のかけ声がある。ここで落ちたらきっと見つかる。騒がれることだろう。それでも、成功率は高そうだ。普通、この屋上に他の生徒は誰もこないのだから。

 フェンスを握る。

 手にぐっと、力が籠もった。

「早くしてってば」

 振り向くと、先ほど俺が手放した鏡筒に朝来が腕を伸ばしていた。

「もう、三時になっちゃったじゃない。登臣くんの分も手伝うから、早く来なよ」

 鏡筒がかかえ上げられる。

 俺はフェンスから離れた。後ろから届くかけ声も遠く聞こえた。心臓が嫌な具合に鳴り、苦しかった。

「ああ、悪いな」

 頭を掻いて、顔を見せないように俯いた。歯噛みしたくなるのを堪えた。

 失敗か。

 心の中で毒づいて、俺は三脚を手に持った。

 朝来は先を歩いていた。扉の把手に朝来が手を伸ばしたとき、俺はふと、違和感を覚えた。

「お前さっき下に降りたよな?」

「え?」

 朝来が一瞬真顔になって、やや置いてから小さくうなずいた。

「そのあと、戻ってきたんだったか?」

「なに言ってるのよ」

 扉が開かれる。階段の向こう側には電灯もついていなかった。明るい陽射しになれていた瞳が順応せず、暗闇が広がっているように見えた。

「戻ってきたわよ、ちゃんとこの扉から」

 出入り口はここひとつしかない。

 扉が開かれる音も、言われてみると聞いたような気がする。が、どうにも記憶が曖昧だ。でもたしかに朝来は屋上にいた。だから俺に声を掛けて、偶然俺を呼び止めた。

 でも、朝来が屋上にいるとわかっていたならば、どうして俺は飛び降りようとしたのだろう。

 そもそも俺は本当に飛び降りようとしていたのだろうか。

 胸の内に靄が広がるのを感じながら、先を行く朝来を追った。天体望遠鏡を片付けると、鍵を片付けると朝来が言い、職員室へと歩いていった。


「ごくろうさん、大変だったかな」

 職員室の入り口から声を掛けると、江崎はすぐに歩いてきて礼を述べてくれた。これから打ち合わせがあるらしく、書類を抱えながらにして掌を器用に広げた。その空いているところに朝来が鍵を置いた。

「大丈夫です。望遠鏡の扱いには馴れてますから」

 胸を張って応える朝来に、江崎は満足げに頷いた。

「頼りになる。とはいえ、本来は私が請け負った仕事だったんだ。その点はやはり謝らなきゃな。仕事が入らなければ良かったんだが」

 江崎は鍵を持った手をそのまま握った。書類はもう片方の手に握られたままだ。

「そんなに急な仕事だったんですか」と、朝来が小首を傾げて尋ねた。

「うん。今朝になって報されてね。いやあ、君たちがいてくれて本当に助かった」

「どんなことです?」

 江崎の労いを遮って、朝来が食い込み気味に口を開いた。途端に江崎が真顔になった。

「え、それは言えないかな」

「転校生ですか」と、俺が言った。

「えっ」と江崎は声を濁らせた。「どうしてそれを」

「書類に書いてありますよ」

 朝来が覗き込むのを、江崎は急いで身を捩って躱した。

「陸田、意外とめざといな」

「見えただけです」

「え、本当に転校生なんですか? どんな子ですか、男の子? 女の子?」

「あー、ここで言うな。なにも言うな。まずいから、本当に」

 慌てている江崎に、遠くから教頭先生の咳払いが畳みかけてきた。小さく悲鳴を上げた江崎は唇に指を触れた。

「もうなにも言えないよ。クラス分けがちょっと楽になるかなってくらいかな」

 一年三組、二七名。三人グループだと九つもできてしまう。四人グループだと七組中一組だけ三人になり、五人グループだと五組中二組を六人にせざるを得ない。そんな細かいことを江崎だけがいつも妙に気にしていた。

 俺と朝来は職員室を後にした。

 外に出ると、相変わらず熱気が続いていた。赤みの混ざった夕方が遠く西の空一面に広がっていた。

 校門まで続くイチョウの並木が今は緑の葉を盛んに揺らしていた。秋がきて、この道が黄金に色付く場面は大層美しいのだと、入学式のときに江崎が述べていたのをふと思い出した。普段は木の色など気にせずにいたが、わざわざ言われると気になるものだった。

「まだ余裕はあるし、ゆっくり行こうよ」

 俺の横を歩いていた朝来が提案し、俺は小さく「ああ」と応えた。

 温かな風が俺と朝来を包んでいた。暑さは変わらないのだろうけれど、少しだけ心地が良い。

 朝来は俺の肩のところに頭がある。小さかった頃は逆だった。俺はいつも小さく縮こまっていた。見かねた朝来が俺の手を引いて、他の男子が行っている遊びへと興じた。俺はいつでも朝来の命令を待っていた。

 いつの間にか逆転した。朝来と俺との間には身長差があった。一緒に遊んでいた頃と性格も随分と変わったと思う。

 そして、俺たちが二人だけなのにもまだ慣れない。

 かつて朝来の隣には、俺と月ヶ瀬が並んでいた。三人揃っていつも一緒に歩いていた。競争をして遊び、遅れていく朝来をよそに、俺と隼人がいつも真剣に勝負して、いつも俺が負けていた。

 今はもう懐かしい記憶でしかない。

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