#彼へ(2)


 波の動かない海は低い壁のようだ。動いていないのに、却って威圧感がある。眺めていて良い気分にはなれなかった。

「変なのがあるな」

 あかね色の空に、黒い筋がある。目の錯覚かと思ったけれど、いくら瞬いても消えない。むしろ少しずつ、広がっているような気さえする。

「あれ、もしかしてヒビかな。この空、というか世界、もうダメなのかもな」

 陸田に向けて話しかけたつもりだ。

「これが世界の終わりかあ。想像できなかったな。陸田はどう?」

 眉間に寄せた皺を突いてみる。

 ベンチの上で安定した陸田は、軽く押しただけでは身動ぎもしなかった。もうあの丘の上に連れて行くこともできない。収まるべき場所に収まったのだろう。僕だけが未だに居場所を探している。

「……もっとお前と話しておけば良かったな」

 お年寄りもまた動きそうになかったから、僕はやむなく、ほとんど意味はないと思いつつ、砂を分けて、腰掛けた。

「頑張れって、僕だけ言われっぱなしでさ。もっと言ってやればよかった。お前こそなんだよ、頑張って欲しいのは」

 陸田登臣。小学校時代からの友人だ。走ることへの熱意も知っている。初めて陸田を見たとき、彼が自分と同じ方向を向いているとわかった。自分と同じように、走ることを好いて、より速く、より力強くなろうとしている。仲間がいると、僕は感じた。

 いつの頃からか、陸田が僕の方ばかりを見るようになった。僕と並んでではなく、僕の後ろへと引き下がるようになった。

 お前のことを応援したいから、と陸田は度々言っていた。僕のことを誇りだとも、憧れだとも言いながら、その実追いつこうとすることは諦めてしまったようだった。

 陸田はきっと、悪意が欠片もなかった。純粋な感情のまま、僕を応援してくれていた。そうでなければ、きっと僕も頑張れなかった。見てくれる人がいるからこそ、僕はさらに前へと進もうと思うことができた。大会が終わってからの練習にも付き合うことができた。

 しかし、その全てを喜んでいたとはとても言えない。むしろ言えないことがひっそりと胸の奥に堆積していた。

「僕は陸田と走りたかったよ。最後の大会のときも、これからも」

 これからがあるのか、もうわからない。空の裂け目は筋を増やしている。蜘蛛の巣が作られていく途中のような伸び方をしている。

 固まってしまった陸田の腕を手に取った。元に戻してあげたかった。元の彼の、綺麗なフォームを目指そうとして、しかしその硬さに断念した。

 もうあの丘の上に戻すこともできないのだろう。陸田は動かなかった。冷たい指先は、もはや人のそれとは思えなかった。

 ただ時が止まっただけではない。

 僕はこの世界に独りでいる。誰も、僕の仲間ではない。硬くなった人々に、僕はもう触れられない。

「陸田」

 延ばされた手のひらを握る。不格好な握手のようになった。指先と指先が触れ合って、僕の方から一方的に握りしめた。熱が奪われていく。同時に彼の手のひらが、少しだけ温もりを取り戻していった。

「もしまた動けたら、ちゃんと言うよ。お前も、走れって」

 ピシリ、と空の裂ける音がした。一際大きいくさび形の穴が、空の彼方に浮かんでいた。

 終わりのときが近いのだろう。リミットが見えているわけではないが、察せられた。

 ヒビがさらに広がる前に、僕は歩き出すことにした。



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