#彼へ(1)
鉄の塊が眼前に迫ったとき、冷たいものが背中を撫でた。名前を名乗られたわけでもないのに、それが死だとはっきりわかった。
フロントライトに目を焼かれ、閉じたまぶたも赤く透けていた。センターラインを大きく超えたトラックだった。背筋はなおも冷たい。何かが抜けていく。身体は強張った。なるべく堅くなって、衝撃から身を守ろうとしているかのように。
「隼人!」
陸田の声だった。聞いたことのない、刺すような叫び声だった。そんな声を出すことができるとは知らなくて、その感想をもう伝えることができないと思うと悲しかった。
中学生としての最後の大会は真夏に終わり、僕らの陸上部生活は幕を閉じた。僕も受験に専念するつもりだった。それなのに、陸田はこの頃毎晩僕を練習に誘った。
「お前ならまだやれる」
終わったって言ってるのに、いったいなにをやれるというのか。皮肉交じりに言い返しても、陸田は止まってくれなかった。
僕を見るときの陸田は、いつも目を輝かせている。顔はすましていても、目の光は誤魔化せない。陸田は僕に憧れているらしいと、朝来から何度か聞かされた。そんなはずないと、言い返すには思い当たりがありすぎた。
海に面した国道沿いが、僕のいつものトレーニングコースだった。照り返しの厳しい夏の間は避けて、9月になってから、陸田に手を引かれて再開した。学校の終わり、小一時間のランニング。まだ残暑が厳しい中、海からの潮風が汗を拭ってくれていた。
陸田は何度も「頑張れ」と言ってくれた。陸田の声は、特に走っている間はよく聞こえてくる。僕に追いついて、鼓膜を揺らす。僕をつかんで離さない。
恥ずかしいといくら言っても聞かなかった。断る理由もなかったので、そっとしておいた。
大会での負けは確かにそれなりの悔しさはある。その悔しさを自分の内側で何倍にも膨れ上がらせた。陸田の期待に応えるために、言葉のとおり頑張っていたと思う。
今日も同じ調子で、がむしゃらに走っていた。熱気が下がった今日は奮発していた。だからいつもよりハイペースで、曲がり角もほとんど止まらずに駆けぬけて、向い側から右折してきたトラックの異変に気づくのが遅くなった。
銀色の車体に僕の姿が映る。目を見開いた僕の姿がすぐに滲む。オレンジの陽光が眩しすぎて、反射してきて僕の眼を焼いた。
それが僕の最期のときだ。あっけない終わり方だ。それでも死ぬときは死ぬ。抵抗もできない。
背後からきた冷たさが全身を浸した。もう僕は目を開いていなかった。じっと身を固めて、丸くなって、そのときが来るのを待った。
やるならはやくしてくれ。そんな言葉を繰り返した。何度も。
何度も?
トラックは目の前にいた。手を伸ばすと、肘が伸びきらないうちに触れられそうなほどの距離だ。怖いとは感じなかった。それはいくら待っていても止まったままでいたからだ。
静かだった。誰の足音も、カモメの鳴き声も聞こえなかった。風さえもない。日差しばかりが西から強く感じられた。
トラックの他にも車はいる。通行人の姿もある。どれもこれも、誰も、動いていなかった。存在感すら薄い。意識しないと、背景の一部のように感じられてしまった。
「何がなんだか」
喉から声が出たことに、少しだけホッとした。僕は変わっていなかった。急に力が入らなくなり、無抵抗に腰を落とした。でこぼことしたアスファルトが、疲れた脚を温めてくれた。
トラックは僕よりも遥かに大きい。立っているときでさえ威圧された。座っていればなおさらだ。当たっていたらひとたまりもないだろう。もしかしたら僕の選手生命は残酷な終わり方をしていたかもしれない。今さらのように心臓が鳴り始めて、深呼吸をして落ちつかせた。
とりあえず僕は死んでいない。周りはどうだか、怪しいけれど。
空では雲も動いていなかった。西日もいつまでも、同じ方向から指している。時が止まっているらしい。地球が回っていなくて果たしてよいのだろうか。深く考えると頭がいたくなってくる。
「ん、よ。よし、立てた」
あまりに静かなので、どうでもいいことでも口にした。ぼんやりしていると、僕まで存在感がなくなる。僕しか動いていない世界で、僕まで消えてしまうのは、とても寂しい。
来た道を遡ると、すぐに陸田と出くわした。
「酷い顔してるなあ」
トラックと僕の衝突がせまり、陸田は声を限りに叫んでいる様子だった。鋭いナイフで刺されでもしたかのような、悲痛な顔をしていた。
走る姿のまま固まっている。普段の彼からは想像できないほど、力んだ堅いフォームだった。
宙に浮いたままの右足が、側面をアスファルトに当てている。勢いをつけて下ろしたところなのだろう。
「お前、このままだと足挫くぞ」
陸田の肩に手を触れる。意外にも柔らかかった。大きく形を変えることはできないが、頑張れば持ち上がる。
「危険だからな、このままじゃ」
強めにつぶやいて、陸田の懐に入る。引き締められた腕と胸の隙間に手を入れて組む。陸田の原を背に受けた。やや不格好だけど、これで背負うことができた。
「苦しくないか、陸田」
返事はない。僕は気にしないことにして、丘の坂道を少しずつ降りていった。
明るい日差しが山の際に入る。時が流れたのではなく、僕が日陰に入ったのだ。海沿いのこの辺りは、夜になると冷え込む。夏のときはその冷えが気持ちいい。これからやってくる冬の季節には、好き好んで寒風を浴びるものはあまりいない。
縁石を乗り越えて、私道に渡る。道を歩いて行けば、アスファルトと砂浜の境目がなくなった。民家の群れが途切れると、視界が開ける。波立った姿のまま固まった、白く輝く見慣れた海だ。
海沿いの遊歩道を歩くとベンチを見つけた。海を向かって座る。端に眠たそうなお年寄りが座っている。もう一端に陸田を置いて、位置を調整した。走った姿勢のまま尻をつくのは奇妙なもので、抱っこをせがむ赤ん坊のようになる。
「我慢してくれ」
実際つらいのかどうかはわからないが、僕は言っておいた。
陸田の顔に手を延ばし、開きっぱなしの顔はどうにか閉じることができた。目に力がありすぎるのは、いかんともしがたい。力みをなくすのは難しいことだ。やむなく陸田に向かい合う。老婆をどかすのは忍びないから、僕は立ったままでいた。
陸田が倒れないことを確認すると、僕はようやく息をついた。思いの外深い溜め息になった。
「よかった」
誰にも拾われない言葉だった。
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