#4 彼女にとっては何でもないこと

「ほら、できたよ」と、朝来が胸を張った。

 なにが「できた」なのか、気がつくのに時間がかかった。

 俺は朝来と二人で校舎の裏に来ていた。

 時をかける能力について、銀色の男から話を聞いたのが三日前のことだ。これからどうすればいいかしばらく悩んで、朝来と連絡をつけて話し合うことにし、この校舎裏をその場所に選んだ。

 ここは夏場でも一日中日陰になる。フェンスを越えれば私道があるが、狭く舗装もほったらかしのために、車どころか通行人さえも滅多に通らない。夏休みに入っているので生徒もなおさら近寄らない。人目につきたくないときには格好の場所だった。

 だが――この言い方には違和感があるが――「今は」違う。

 日の光が強く差している。蔦の巻き付いたフェンスも、寂れた裏通りも見えなかった。むき出しの地面だった場所には小綺麗なタイル状の石が敷き詰められている。そこには当たり前のように花壇があり、ヒマワリが堂々と咲き誇っていた。

 そこは校庭と校舎との境目にある花壇だった。

 いつ移動したのか。思い起こそうとすると、軽くめまいが走った。

 校舎裏に朝来を呼び出したのは確かだ。二人で歩いて向かい合い、朝来に銀の男の話を打ち明けた。時を掛ける能力の話題に触れ、俺はその真偽を訪ねた。多分に疑わしかった。そんな俺を見て、朝来は不敵に笑い、「見てて」と腕を胸元に寄せた。

 ここまで思い出しておきながら、俺の記憶は混濁し始めた。校舎裏に、俺は来たのか?

 俺は今、花壇のそばにいる。突然ではなく、花壇に既に来ていた。その記憶もまた確かにある。

 電話にて連絡を取り合った際、俺は朝来に校舎裏を提案した。人目につかないからという理由も添えた。朝来はそれに同意、いや、違う。否定し、花壇を提案した。校庭のそばだが、運動部の活動場所からは離れている。声を聞き取られることはまずない。それに、校舎裏にもしも先生が入ってきたら説明するのにやっかいだ、という説明もされた。

 校舎裏に行った記憶と花壇に行った記憶。これらは両立不可能なはずだ。どちらが正しいのか考えれば考えるほど、花壇の方が真実に思われてくる。事実、俺は今花壇にいる。校舎裏に行った記憶は、勘違いだったのだろうか。確かだと思っていたものが揺らぎ、薄らいでくる。

 もしも何も知らないでいたならば、俺は疑いすら持たなかっただろう。校舎裏には行かなかった。俺は最初から花壇に来ていた。何かの勘違いで校舎裏を思い返しただけだと信じ切っていたに違いない。

「タイムリープをしたってのか」

 フィクションの中で度々耳にするその言葉を初めて実感を込めて口にした。こんな日が本当に来るなんて夢にも思わなかった。

「どう、初体験の感想は」

「気分が悪い」俺はすぐさま口を尖らせた。

「校舎裏にいたんだ。その記憶もあるのに、今ではもう信じられない。こんなの、気持ち悪いだろ。まるで自分が自分じゃなくなったみたいだ。朝来、お前こんなの何回もやってるのか」

「数えちゃいないけど、少なくはないかな」

「気分は平気なのか」

「馴れたよ」

「そうか・・・・・・なんというか、変わっちゃったんだな、お前」

「そうだね」

 朝来は俺から目をそらし、花壇の傍のベンチに腰掛けた。ヒマワリの花弁に包まれて、朝来は気持ちよさそうに目を細めた。

「銀色の人、名前は言ってた?」と、朝来が訊いてきた。

「いや」

「そっか。私も教えてもらってないんだよね。年は同じくらいだと思うんだけど。ま、いいや。それであの人、どこまで話したの?」

「お前が俺の自殺をくい止めようとしているってこと」

「うん」

 朝来はまだ目を合わせてくれなかった。声ははっきりと聞こえているのに、俺の姿が見えているはずなのに。

「協力してくれ、って頼まれた」

「なんて答えたの?」

「何も。答える前に行っちまった」

 銀色の男の去り際では、改めてそのちぐはぐさが印象的に俺の目に映った。夜の住宅街の街頭に紛れ、遠ざかっていく銀色の全身タイツ姿。能力を使わないのかそのときは疑問に思ったが、考えてみると時間を遡れば俺の記憶も改竄されてしまうから、普通に帰るのが最適解だったのだろう。それにしても、目立つことには変わりはないが。

「なあ、質問させてくれよ。どうして俺の自殺を止めようだなんてするんだ」

「逆に訊きたいんだけど、どうして自殺しようとするわけ?」

「それは」

 二の句が継げずにいる俺に、朝来が「隼人くんでしょ」と覆いかぶせてきた。

「でも、だからって登臣くんが死んでどうにかなる問題でもない。そうでしょ?」

「ああ」

 正論だ。

 口には出さずとも、頭の中では全面的に同意していた。

「じゃあ、やめてよ」

 朝来はあくまでも率直に言った。

 俺も率直に答えられたらよかったのだが、かなわなかった。賛成と否定の気持ちが頭の中で鬩ぎ合う。先刻のタイムリープ直後のような混乱が既に俺の内では巻き起こっていた。

「どうしても、死にたくなるときがあるんだよ」

 少しずつ、口にできることを探していった。

「高いところに登ったときとか、嵩を増している川を見下ろしたときとか。危険な場所に近づくと、引き寄せられるんだ。落ちてみたくなる。もちろん痛いだろうし、苦しいだろうし、ろくなことにはならない。周りには悲しむ奴だっているだろうな。当然だ。わかっている。それは理解しているつもりなんだ。でも考えることがどうしても止められないんだよ」

 辺りの景色を異様に明るく感じた。夏の一日の空は青く澄んでいて、ヒマワリが映える。

 朝来はじっと俺を見つめていた。肯定も否定もせずに耳をそばだててくれていた。

「引き寄せられる場所を見つめているとさ、隼人のことを思い出すんだ。動けなくなって、意識も何にもなくなってずっと眠っているあいつのことを。集中治療室は家族しか入れないから、お前は見たことないだろ、あいつの今の姿。でも俺はあの事故の現場にいた。頭から血を流して倒れているあいつを見たんだ。抱え上げても重たくて、全然力を入れてくれなくて、寝ているか、それこそ死んでいるみたいで。俺、人が死ぬところなんて今まで見たことなかったけれど、これがそうなんだって思った。隼人はあのとき死んだんだ。今生きているのは、生命維持装置で延命しているだけで、本当は、生物としては、あいつはもう立ち上がらないんだ」

 ヒマワリの花と葉の境目が次第にぼやけて見えてきた。とぎれない緑と黄色の中で、朝来の顔も見えにくくなった。青空は低く垂れ込めた。色が煩く感じられて無理矢理にでも目を閉じた。俺の目尻から涙の落ちるのが感じられた。

 瞼の裏で隼人が走っていた。昨年の夏の県大会だ。隼人のフォームは綺麗だった。上位には惜しくも食い込めなかったけれど、形としてはあの会場にいた誰よりも綺麗に思えた。隼人の走る姿をもっと見ていたかった。

 あいつのいない夏がこれから始まる。どうしても時は止まらない。これから毎年、夏は新しく更新される。隼人はもうトラックの中にいない。その原因が俺ではないなどと、耳にしたところで心が受け付けない。

 俺は手を引かれた。薄目を開くと朝来が俺をベンチに促していた。座面はあたたかかった。陽が優しく照らしてくれていたのだろう。

 ヒマワリの香りがより強く俺を包んだ。そのやわらかな空気の中で、朝来の両腕が俺の肩を包んだ。

「登臣くんは悪くないんだよ」

 朝来が俺の耳元で囁いた。肩まで延びた後ろ髪が揺れていた。泣いているのだろう。声色からも伝わってきた。

「納得できないのもわかる。悲しんでいるのもわかる。私も悪かったな。それをやめろなんて、もう言わないよ。登臣くんは何もやめなくていい。ただ、死なないで。私は登臣くんに死んでほしくない」

 しばらく静寂があった。時折鼻を啜る音がする。俺も朝来も泣いていたけれど、何も言わなかった。校庭では相変わらず部活動の声がしている。俺たちが抱き合っている姿も見えているかもしれない。

 恥ずかしいな、と一瞬思った。せめてこんなところでなければ。


 その疑問が、妙に引っかかった。


 俺は目を瞬かせた。

 背筋を伸ばすと、朝来の体勢が崩れた。

「どうしたの」

 朝来は髪をかきあげた。片方の目に手の甲を当てて、赤い目で俺を見上げていた。

 喉の奥に言葉がこみあげてきて、詰まる。

「あのさ」

 違和感。そして既視感だ。

「前もこんなことあったよな」

 はっきりとはしていない記憶。だが、口にしてみると、感触が蘇ってきた。

 俺と朝来はそのときも抱き合っていた。お互いに泣いていた。

 朝来は言った。俺に対して「死んでほしくない」と。

 あれはいつだったか。どうにも記憶が曖昧だ。だが場所は、ぼんやりとだが、思い出せる。地面ではなかった。防水用の加工が施された柔らかな床。屋上だ。空は青。今日の空の色と似ている、いや、それは全く同じだった。

「朝来、お前今日何回タイムリープした?」

「え?」

 朝来が首を傾げ、その途中で目を見開いた。咄嗟に反応してしまったかのようだ。

「ど、どうしてそんなこと聞くの?」

「いいから答えろよ。校舎裏に行った世界からここに移動するまでにまず一回だ。そして、それだけじゃないだろ。屋上にも行ったよな?」

「なんで覚えているの?」

 途端、朝来は「あ」と口を押さえた。赤い目はもう泣いていなかった。俺に向けられる目には明らかに怯えていた。

「行ったんだな?」

「……それがなに?」

 開き直ったように、朝来は声を震わせた。

「屋上はお前が提案したんだろうな。俺は校舎裏を提案したんだから」

 返事はなかった。俺は構わず言葉をつづけた。

「屋上に行って、俺を説き伏せるところまではいったんだろ。でも結局は校舎裏に変更した。俺が屋上から飛び降りたか。それで高いところで話し合うのは危険だと判断したのか」

「勝手に決めつけないでよ」

「じゃあ違うのか。違うならどうして場所を変えた」

「……そんなのいちいち覚えていない、ねえ、どうしてそんなこと言うの。過ぎたことじゃない。今、私お願いしていたんだよ。登臣くんに死んでほしくないって。ちゃんと生きていてほしいって。それに答えてよ、まずは」

 朝来は言葉尻をつり上げた。怒気が混ざっていた。腕は解かれ、代わりに鋭い視線が俺を突き刺した。

「……ちゃんと、ってなんだよ」

 俺の声は震えていた。涙ではない。心根が熱くたぎっていた。言葉は自然と胸に浮かんだ。

「生きているかどうかはお前じゃなくて、俺が決めることだ。世界を変えまくったお前には実感が薄いのかもしれないけどな、何回もタイムリープしたってことは、それだけの数の俺がお前の欲求を否定したってことだろ。それをお前は納得できなくて、自分の正しさに適合する俺を見つけるまでタイムリープを続けたんだ。場所を変えて、言葉も、もしかしたら仕草も変えていたのかもな。俺が首を縦に振るまで何度でもやり直せるんだから」

 吐き捨てるように言葉を続け、息を吐いた。熱くなった喉元に空気を流し込んでから、俺は朝来を睨みつけた。

「今ここにいる俺はまだ、お前に寄り添いたくはない」

 決然と言い終わったら立ち上がるつもりだった。

 振り向いて一度も振り返らない。もう朝来の顔も見たくなかった。

 だが、立ち上がろうとした途端、膝が何かにぶつかった。

 目の前には木目調の四角いテーブルがあった。二人席用の小型のものだ。

 痛みがじんわり広がってくる。

 そこはもう外ではなく、学校ですらなかった。

 空は暖色のライトがいくつか点る天井だった。遠くの練習のかけ声はいつの間にか見知らぬ周囲の雑談となり、ヒマワリの香りはコーヒーや紅茶のものへと変貌した。

 駅前にある、喫茶店。そこに俺たちふたりはいた。

「朝来!」

 思わず声がうわずった。向かいあう朝来は頬杖をついて目を細めていた。

「突然どうしたの? 大声出して」

 朝来は迷惑そうに顔をしかめた。わざとらしく肩をすくめている。

「お前今、場所を」

 頭が痛む。

 記憶の像が二重に感じられる。

 何を言いたかったのか。つかめない。頭の中が濁っている。あたふたしているうちにズレは薄れ、ひとつの記憶に収斂していく。

 俺は喫茶店に来た。朝来からの提案だった。たまには気分を変えてみよう、というのが選択の理由だった。

「ほら、恥ずかしいから座ってよ」

 朝来に言われ、周囲の視線が集中していることに気がついた。雑談も止まっていしまっている。

 俺は頭を下げ、静かに着席した。

 徐々に周りの会話が始まる。ひそひそと続くそれらの音に混ざって朝来のため息が聞こえた。

「私はやめないからね」

 朝来は俺に微笑んでいた。

 まるで俺を試しているかのようだった。

 俺はここまでにいたる記憶を辿った。喫茶店にたどり着いて、銀色の男の話をした。朝来もその人を見たと言っていた。俺は朝来の目的を尋ね、朝来は俺の自殺を止めようとした。俺は死に引き寄せられる述懐をした。涙を流す俺の気持ちを朝来は言葉で宥めてくれた。

 思い出せるのはここまでだ。

「私は絶対、登臣くんが死ぬのを防ぐから」

 朝来が瞳に力を込めて俺を見つめていた。

 朝来はこんな目をする人だっただろうか。

 何を言うこともできないまま、飲みかけだったコーヒーを喉に流し込んだ。


 お昼の鐘がなる頃に、朝来と俺は喫茶店を出た。朝来は宿題があるからと言い、俺に手を振ると、小走りに去っていった。

 喫茶店の看板を横目に俺は深くため息をついた。ひどい虚脱感がある。

 俺は朝来を説得しようとしたが、結局は朝来の意志を確認するに終わった。何が得られたわけでもない。朝来の強さの前に俺の抵抗はむなしかった。

 朝来はどこまでも正論で、俺はただ逃げているだけだ。

 喫茶店のガラスの向こうで、トレイを抱えた店員が俺を一瞥した。俺は看板に凭れるのをやめた。行くあてもないが、長居もしていられない。

 アスファルトに目を落としたとき、影が二人分あることに気づいた。

「お疲れさん」

 文字通り、目がくらんだ。

 陽に照らされた光の塊があった。

 銀色の男だ。

「お前それ恥ずかしくないの」

「いきなりずいぶんなことを言うね」

 男は日陰に動いた。おかげでどうにか直視できるようになった。全身銀色タイツの男。もっとも目は引かれるだろう。店員はまだ気づいていないようだが、そのうちまた睨まれるかもしれない。

「そうだ、せっかくだし教えてやろう。差し障りのない範囲で一応。君にとってみればこの服は奇抜だろうがね、君は将来この服を着ることになるよ、きっと」

「は?」思わず声が裏返った。「お前に着させられるのか?」

「いや、自分から」

「うそだろ……どうしてだよ。おかしいだろそれ、どう見ても」

「理由は言えない。だが、楽しみにしておくといい。意外と着心地がいいんだぞ、これ」

 訊きたいことは山ほどあったが、店員の鋭い視線が目に入り、俺は銀色の男を連れて日陰沿いを歩いた。なるべく人目を引かないように裏道を選んだ。行き先は決まっていなかったが、銀色の男は率先して散歩した。

 街は夏の熱気に照らされていた。

 駅前は繁華街だ。店も多く、人通りもかなりある。路地裏は換気扇から熱気が吐き出されており、通り過ぎる度に重苦しく感じられた。

 路地の一角の日陰で黒猫が段ボールに寝そべっていた。目を閉じて両手両足を広げている。野良猫でこれほど開放的なのも珍しい、と思っていたところに、銀色の男の声が聞こえた。

「君は今日、少なくとも五回タイムリープに巻き込まれたはずだ」

「……朝来か」

 喫茶店で立ち上がったとき、その理由が俺にはわからなかった。わからないという感覚だけがあった。濁った記憶の原因をたどると、朝来の視線が思い起こされた。関連しているとすれば、彼女の能力だろうと推測はできた。

「なんでそんなにタイムリープをしたんだ」

「さあね。僕も気になるけど、そこまではわからない。時を遡るのは、遡った本人の主観だけだ。僕たち他人からしてみると、今まで自分がいた世界が急に偽物となったようなものだ」

 銀色の男は「僕なりの解釈だけど」と前置きしてから語りだした。

「誰かがタイムリープし、過去を変えると、新しい世界ができあがる。偽物の世界から引きずってきた僕たちの意識は、新しい世界の僕たちの意識と統合される。そしてこの、新しい世界とそぐわない記憶は勘違いとして処理される。すでに無くなってしまった世界にまつわる記憶があると、脳がパンクを起こすんだろうね。自浄作用だ。うまくできているものだよ、人間の頭は」

 自分の意識があるからこそ、自分が自分だと認識できる。もしもその意識が嘘ならば、そもそもこの世は曖昧となる。我思う故に我あり。逆に、自分のことを嘘だと思えば自分はいないことになる。

「なんだか頭の痛くなる話だな」

「無理しなくていいよ。正しいかどうかもわからないし」

「未来人はみんなこの能力を使いこなせるのか? 一歩間違えればあっちこっちで人が消えたり生まれたり、かなりややこしいことになりそうだけど」

「いや、僕が知っている世界では、タイムリープできるのは僕だけだ。これは僕の発見なんだよ」

 銀の男が鼻高々に言った。笑みを浮かべたその顔には嫌らしさがなかった。ほんの一瞬だが、心から楽しんでいるようだった。

「ん、まてよ。お前がここにいるってことは」

 俺は銀色の男の体を上から下まで見た。背格好は俺と同じくらい。やはり同年代だ。間違いない。

「お前がタイムリープを発見するまであと何年だ?」

「とりあえず、生きているうちには」

「はあ、夢のある話だねえ」

 時間を遡る能力。未来の人々がどんな風に生きているか想像もできないが、何らかの発展はするだろう。全く生活が様変わりする様を目の当たりにできる、そう考えるだけでも多少なりとも胸がうずいた。

「君、死ぬつもりだったんじゃ?」と銀の男が水を差した。

「やめろよこういうときに」

「そうも言っていられない。僕もまた君の自殺を止めようとしている点では朝来と同じだ。君が自殺しないならば、僕は安心して帰れる」

「・・・・・・お前、本当に俺の何なんだ」

「他人だよ」

 身も蓋もない言葉を最後に、銀の男は俺を振り返った。

「さて、陸田。僕は時を遡る。喫茶店を出たところまで戻るよ。僕と一緒にここまで歩いた記憶は消えるだろう」

 いいか、と銀色の男は俺を指さした。

「きっと記憶は混濁するだろう。もしも君がそれを惜しいと思うならば、頻繁にメモを取れ。記憶がおかしくなっていることだけでも書き留めろ。僕も欠かさずメモを取っている。だからこそ、今日のタイムリープの回数も把握することができたんだ」

 納得すると同時に、俺は自分の鞄のポケットを叩いた。小型のメモがそこにある。いつも常備していたものだ。

「大した話もしていないけれどな」

「それでも、知っているのと知っていないのとじゃ違うものだ。聞いておけばよかった、と後悔するよりはマシなはずだ」

「なんだ、お前。随分優しいな」

「同情はしているからね。彼女に振り回される君に」

 銀色の男は胸に手を当てた。陽の明かりに混ざっているが、うっすら紫色の光が浮かんでいた。

 俺はじっとそれを見ていた。

「そろそろお別れだ。まだ死ぬ気持ちはあるか」

「……あるよ」

「なら、僕はきっとまた君と会うだろう。そのときまで無事でいろよな」

「善処するよ。すげえ変な言い方だけど」

「それじゃ」

「待て」

 俺は食い込み気味に口を挟んだ。

「ん?」

 頭の中で一度、思いついたことを反芻してから、声に出した。

「お前、もしかして星野か?」

「え――」

 銀の男の目には驚きが浮かんでいた。

 見開かれた瞳を前に俺は笑ってやった。

 景色が変わった。

 家へと向かう住宅地の路地だ。喫茶店はもう遠い。

 俺は朝来と帰ったのち、まっすぐ帰路についていた。もう五分もすれば俺の家にたどり着く。閑静な住宅地の真ん中で、俺は口を閉じた。

 とっさにメモを取り出し、ペンを動かした。


 喫茶店で、銀色の男と


 目を強くとじた。濁った記憶からできるかぎりのものを掬い取りたかった。

 思い浮かぶ景色。

 俺はあの男に会った。俺と年格好が同じ男。最後に驚いていた。どうしてだろう。思い出せない。

「ま、こんなもんか」

 書き留められたのはたった二行。


 喫茶店からの帰り道、銀の男と遭った。

 俺は銀色のタイツを着ることになるらしい。


「もうちょっとマシなことを言っていた気がするんだけどな」

 頭をかいた。髪が熱を帯びている。夏の昼間に随分と歩いた。のども渇いた。飲み物がほしい。本当にほしい。気づけばそれしか考えられなかった。

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