#彼女へ(2)
前の見えない暗がりにいた気がした。確かに、その感覚が残っている。だから眩しいと感じた。光が、元のようにあることに、慣れなかった。
「ああっ」
小さな悲鳴。何かが僕の膝に当たる感触があった。
「ごめん、隼人くん」
朝来が身を屈める。膝に広がった粉を軽く払って、効果の無さに肩を落とした。
「どうしよう。弁償かな」
朝来の声がする。あまりにも普通に、僕の耳に届いてくる。
「隼人くん?」
「え?」
感覚がなかなか戻らなかった。耳鳴りがする。
夕暮れの放課後だった。教室の中には何名か生徒達がいる。談笑する声や、下校を急ぐ足音に満ちている。どこまでも普通の景色だ。何度も見てきたその景色を、つい長いこと見つめてしまった。
「泣いてるの?」
朝来に言われて、初めて気づいた。頬に手を当てると、確かに湿り気があった。
「どうして?」
「……なんでだろう」
暗い景色を見ていた気がした。記憶の奥底に手を伸ばして、断片をすくいあげようとする。しかし、つかみきれない。さっきまで見ていたもののはずなのに。
僕はどうしてここにいるのだろう。
思考が揺れる。陸田の顔が思い浮かんだ。僕は彼と一緒に練習をしていた。先日の大会の成績が揮わなかったから、陸田は僕を応援しようとして、引退してからも僕を練習に引っ張り出す。今日もまた、いつもの海岸沿いのコースで走っていた。
いや、違う。
僕は今日、陸田からさそわれていたが、断った。日直当番の朝来の手伝いをした。元々は二人一組で日直当番をするが、今日は朝来の相方は休みだった。それを見かねて、僕の方から申し出た。
それはいったい、何故だろう。
「大丈夫? 隼人。具合悪い?」
朝来の手が僕の額にあたる。手のひらからじわりと温かさが伝わってきて、思わず息が止まり、それからすぐに身をひいた。手の届かない位置にいる僕を、朝来がきょとんと見つめてきた。
「朝来、僕、何か言ったかな」
「何って……何が?」
朝来は首を傾げる。否定された、はずなのに、冷や汗が止まらなかった。
何かを言った。聞かれたくないことを言ってしまった。記憶さえも曖昧なのに、その感触だけが残っている。
「いや、聞いてないならいい」
「ええ? だから、何も言ってないって」
不思議がる朝来の顔を見ていられなかった。
「もうやること終わったよね。僕、帰るよ。陸田の方行くから」
トレーニングはまだやっているのだろう。それに縋りたくて、朝来には手早く別れを告げた。
教室を出て更衣室へ向かう。その間も動悸がおさまらなかった。
僕はどうして朝来の手伝いをしようと思ったのか。
僕はいったい何を朝来に言ったのか。
記憶もないのに、感触がある。その名残が、考えたこともないようなことを僕に思い出させてくる。
更衣室の扉を潜って、誰もいない部屋にひとりで溜め息をついた。思いの外重い空気だった。
練習に行く気になれなかった。陸田には悪いが、今は彼に顔を向ける自信がない。
「僕、朝来のこと好きなのかな」
曖昧すぎる感覚に戸惑いながら、僕はまた一つ低い溜め息をついた。
考えたくはない。今まで、それをしたら終わりだと、自分に何度も言い聞かせていた。
しかしそれ以外に、自分が朝来とともにいる理由がうまく説明できない。
自分の内側の何かが変わったのかもしれない。
それが良いことなのか、悪いことなのか、僕にはわからなかった。
翌日、僕は陸田からトラック事故の話を聞いた。
居眠り運転をしていたトラックが、陸田の目の前でガードレールに突っ込んだらしい。
「もしもお前が来ていたら、ちょっと危なかったかもな」
「……ちょっとじゃすまないと思うよ」
そんな会話を交わした。
しばらくすると、事故の記憶も遠ざかっていった。トラック運転手は確か無事に助かって、周囲に怪我人はいなかった。結局大した事故にはならず、トレーニングも続けることができた。
時はゆっくりと、刻まれていった。
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