第三章 橘諸兄
天然痘の大流行
右大臣就任
長屋王が冤罪に陥れられてから六年後の天平七年(七三五年)天然痘が大流行した。天然痘はいったん収束するが、天平九年(七三七年)に大宰府で再び発生し、またたく間に全国に広まった。四月には平城京にも天然痘が入ってきて、人々が倒れていった。天然痘による死者は全人口の二から三割にも及ぶと推定されている。続日本紀は、「この年(天平九年)の春に
九人いた太政官のうち、舎人親王、新田部親王、多治比県守、藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂があいついで天然痘で没していた。官人も多く死に、六月一日には平城京の諸役所を閉鎖しなければならない事態となった。
上席の太政官が全て病に倒れてしまったため、諸兄は残った太政官として、聖武天皇の元で天然痘対策に当たっていた。
聖武天皇と諸兄は、大宰府管内の諸社に
八月六日、橘諸兄は
青空に入道雲が立ち上がり、強い日差しに蝉の声がうるさい。
昼間だというのに平城京は朱雀大路でさえ人影はない。北の朱雀門から南の羅生門まで見通すことができ、蒸し暑い風の通り道になっていた。大路には道の土埃が舞い、野良犬が喧嘩している。道幅があるだけに人気のなさが際立っていた。
風向きが変わると、鼻を曲げるような腐った臭いが漂ってくる。西堀川には多くの死体が捨てられていて、薬師寺の僧たちが供養していた。佐保川や東堀川も同様だという。郊外に捨てられている死体も多いと聞く。
東西の官市も閉鎖されている。普段は諸国の物産が集まって交易が盛んに行われ、都の繁栄の象徴ともなっている市場に人はなく猫や鼠が走り回っていた。物売りが忘れていった笹が、枯れた葉を風に揺らしている。
家々から人の声は聞こえてこない。たまに聞こえてくるのは、死んだ人を送る読経だった。人々は天然痘を恐れ、病魔が通り過ぎてゆくのを家の中で息を殺して待っている。
白壁に朱塗りの柱、瓦屋根が美しい朱雀門は、青空を背景に威容を誇っていたが、警護の衛士は二人しかいない。天然痘のために諸役所を閉鎖しているので、百官は登庁しておらず、宮の中は平城京以上に静かだった。
多くの官人であふれていた朝堂院、式部省、酒造司に人影はない。わずかに馬寮から馬の鳴き声、西池から烏の鳴き声が聞こえてきた。兵部省の角に植えられている百日紅は、人の営みなど関係ないと言うように、赤い花を咲かせている。
宮内省で二人の職員が木簡を整理していた。
「宮内少輔の多治比占部様は、今日もおいでになっていません。おそらくは……」
二人は暗い顔を伏せた。
太政官院には誰もいなかった。諸兄より上席の太政官は、
「自分が病に罹らないのは、仏様のご加護を受けているからだろうか」
諸兄の独り言に、真備や玄昉は答えてくれなかった。
諸兄たちは内裏の奥にある聖武天皇の部屋に入った。
部屋の中は薄暗くひんやりとしていた。上座の聖武天皇と光明皇后の前には、若い男が座っていたが、男は諸兄たちに気がつくと席を譲ってくれた。
聖武天皇の顔は土色で、唇には潤いがなく、目の下にはうっすらと隈ができていた。
天皇様の体から生気が消えていらっしゃる。天皇様は、天下泰平、万民安楽のために励むものという教えを受けているから、多くの人が死に、病に苦しむ事態は、お辛いことであろう。
諸兄は形どおりの挨拶を済ませた。
「こちらの御仁はどなたでしょうか」
「式部卿(藤原宇合)の長男で広嗣という。式部卿が昨日、
「近頃お会いしませんでしたが、藤原宇合様までも亡くなられましたか」
諸兄は目を閉じて手を合わせた。
櫛の歯が欠けるように、天皇様を支えてきた太政官が消えてゆき、ついには自分と鈴鹿王様の二人だけになってしまった。年を取った自分でさえ経験したことがない、未曾有の大惨事を、若い天皇様一人で背負うには厳しすぎる。亡くなった方々の分まで天皇様の手足となって働こう。白髪が交じる老体になってしまったが、総白髪になるまで天皇様にお仕えし、官人として三十年間仕えてきた経験と、残り少ない人生を天皇様に捧げることを改めて誓い申し上げます。
目を開けると、聖武天皇は肩を落とし俯いていた。
「瘡病を鎮めるために、写経や読経をさせ、殺生を禁じ、
「瘡病を鎮めるために、唐国より帰ってきました下道真備と玄昉に対処法をまとめさせました」
諸兄は真備から受け取った巻物を広げて読み上げる。
一、今回の病は赤斑瘡という。下痢に注意し、以下の治療を加えよ。
二.布や綿で腹や腰を巻き、かならず温かくすること。冷やしてはいけない……
七、丸薬、散薬を求めて飲んではいけない。熱が引かなければ、人参湯だけは飲んでも良い。
巻物には天然痘への七項目の対処法が書いてあった。
「書いてあることを行えば病は良くなるのか」
天皇の問いには真備が答える。
「唐国から持ち帰った医術書から瘡病について書き下して持って参りました。私が唐国に留学していたときにも何回か
「御裁可をいただきましたら、勅令として平城京や諸国に配布します」
聖武天皇は、巻物に「
「太政官が橘卿と鈴鹿王のみとなってしまった。橘卿にはこれからも世話になる」
聖武天皇の横に座っていた光明皇后が、背筋を伸ばして言葉を継ぐ。
「太政官の陣容は瘡病が収まってから立て直しましょう。それまでは、二人で残っている官人を束ね、八省に指示を出して国難に対処してください。橘諸兄を大納言に、鈴鹿王を
「皇后が言ったように、橘卿は先ほど教えてくれた病への対処法を諸国に出してくれ。下道真備と玄昉は今後も橘卿を手伝うように」
三人は深く頭を下げた。
大納言にしていただけることは光栄であるが、人の不幸を喜ぶような人間にはなりたくない。上役が全部死んだために昇進するのでは喜べない。
「都の様子はどうか」
聖武天皇の質問に、諸兄は見てきたままの都の姿を伝えた。
天皇は両手で顔を覆い、大粒の涙を落とした。
「疫病は長屋王が祟っているのではなかろうか」
聖武天皇の声は聞き取れないほどに小さい。
「ご心配ならば、長屋王の子供たちに官位を授けてはいかがでしょうか」
「俺にも官位が欲しいのですが」
突然の横からの声に驚いて、諸兄たちは振り向いた。
声の主はにやけていた。
藤原広嗣とか言う者は、見たところ二十代前半。最近の若いやつは口の利き方を知らない。畏れ多くも天皇様の前で『俺』などとためぐちで良いわけがない。しかも、深刻な話をしているのに、にやけているとは何事だ。父親の藤原宇合様が東奔西走して天皇様に尽くした大忠臣であったとしても許されるものではない。むしろ、親の顔に泥を塗っている。
「俺は、父と同じ、参議式部卿をいただきたいと思います」
広嗣は、言葉巧みに父親の業績を上げて、天皇に任官をねだった。
「立場をわきまえよ。思い上がりも甚だしい。天皇様に官位を直接要求するとは、身の程を知れ」
苦労知らずの若造には恐れ入る。自分は敏達帝の五世王だから、皇籍にあっても一般の官人と同じように粉骨砕身勤めてきた。この若造は、曾祖父からの功績で何の苦労もなく、成人と同時に六位を下賜され、ろくな実績もないのにもっと上の位を寄こせという。傍若無人さが頭にくる。
「父上の宇合様は長年にわたり天皇様のために東奔西走された。ゆえに、正三位という高位をいただけたのである。駆け出しのお前が畏れ多い。下がれ」
諸兄が睨みつけると、広嗣も睨み返してきた。広嗣には天皇への畏れも、年長者を敬う気持ちもないらしい。諸兄は、獲物を狙っているときの猫のような、広嗣の鋭い目に圧倒されかけた。
諸兄と広嗣のにらみ合いを見ていた光明皇后が口を開く。
「瘡病に心を痛めておいでのところへ、股肱の臣である式部卿の訃報が届き、天皇様は、お疲れになっています。広嗣の昇叙の件については後ほど決めます。今日はご苦労様でした、広嗣はお帰りなさい」
広嗣は右手を握りしめて、ドンと床をたたき、足を踏みならして出て行った。
聖武天皇は、目と口を閉ざしている。
天皇様のお顔を曇らせてしまった。天皇様の御前で、年端もいかない者と言い争いをするなど醜態の極みであった。瘡病でお悩みのときに、不必要なことで御宸襟を悩ましてはいけない。
「瘡病に対処法を太政官符として五畿七道に配布します。官符は国衙に到着しだい写させ、郡司一人以上を使者として次の国に回させます。国司には国内を巡回させ民に内容を徹底させます。もし、民たちに重湯や粥にする米がない場合は、国衙の正倉開いて下すことをお許しください」
「
聖武天皇は「よろしく頼む」と言い、足を引きずるようにして、皇后とともに部屋を出て行った。
お体が重いと拝見する。瘡病に罹られたのでなければ良いが。
諸兄が真備と玄昉を連れて内裏の外に出ると、熱気に取り囲まれて汗が噴き出てきた。宮には、蝉の声が流れているだけで人の息づかいは感じられない。諸兄は手で庇を作りながら空を見上げた。
都は死んでいる。自分は天皇様と一緒に「
天然痘は秋になると収束していった。
朝廷では、太政官や百官を再編成するために、多くの人に役職が下賜されることになった。橘諸兄は正式に大納言(翌正月に右大臣)に任命され、太政官筆頭として聖武天皇に仕えることになった。他には鈴鹿王が
諸兄は大納言に就任すると、兵制の停止、郷里制の見直し、民衆に対する救恤などの政策を実行する。諸兄の政策によって、天然痘で傷ついた社会は安定を取り戻し始めてゆく。
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