藤原広嗣の乱
大宰府左遷
広嗣が大和守に任じられてから半年経ち、仕事に慣れてきた十二月四日。広嗣は朝堂院の右大臣執務室に呼ばれた。
平城山を降りてくる風は冷たく、水溜まりの氷は昼になっても融けない。宮の廊下も氷かと思えるほどに冷たい。足の裏から頭のてっぺんに冷たさが伝わってゆく。こんな日は用事を早く済ませ、屋敷に帰ってするめを肴に熱燗を飲みたい。
部屋の中には、橘諸兄、下道真備、鈴鹿王、大野東人、
広嗣は凍える寒さに身を縮めながら高橋安麻呂の横に座った。部屋の中には火鉢の一つもないので、厚着をしていても体が震えだしてくる。広嗣はかじかむ手を揉んでほぐそうとしたが、上座に座る五人の仏頂面を見て止めた。
諸兄は広嗣と安麻呂を交互に見た。
「
広嗣が諸兄をにらみつけたると、諸兄は視線をそらした。
大国である大和国の
「大和守を解任される理由を聞きたい」
「解任ではない。大宰府の次官への昇進である。
「日本と新羅や唐国にもめ事はない。だいたい奴らが海を渡って攻めてきたことなど一度もないではないか。高橋が大宰府へ行かず、俺だけ行くのならば左遷だ。俺が何か問題を起こしたのか」
語気を荒げる広嗣に、諸兄たちは「やれやれ」という表情を返してきた。
諸兄に代わって真備が「では聞かせてやろう」答える。
「大和国は、天皇様のお膝元でありながら最後に
「お前に説教されるいわれはない」
「控えよ広嗣!」
広嗣は諸兄をにらみ返した。
「本当のことを言え。右大臣は俺の実力を恐れ、出世の芽を潰そうとしているのだ。それとも、藤原一門が目障りで、一門の中で一番活発な俺を都から遠くへやって力を削ごうというのか」
「右大臣様に対して無礼な口をきくな」
「亡き藤原宇合殿は、広嗣の言行が家を滅ぼすかもしれないと悩んでいた。一門のために、官籍から抜いて出家させようかと天皇様に相談されたところ、天皇様は『式部卿の子息であるから、いずれ朝廷にために尽くしてくれる』として出家を許されなかった」
「お前たちより帝の方が俺の才能を見抜いている。帝は俺の力を認めて薬狩の時に大和守に任じたのだ」
「宇合殿が亡くなってからお前を見てきたが、公卿にふさわしい品格を備えていないことが分かった。大和守としての評判もよろしくない。朝廷に大功があった宇合殿の嫡男であるから今日まで大目に見てきたが、もう限界である。大宰少弐は宮仕えする最後の機会と考えよ」
「もし任官できないというならば、官位を剥奪し官籍からも除く」
広嗣が刀に手をやろうとしたときに真備と目があった。真備は険しい顔をしているが、口元がゆるんでいる。諸兄、鈴鹿王、東人も何かを期待していた。
こいつらは俺を挑発している。
俺が怒って刀に手をつければ、謀反の疑いありとして罰するつもりだろう。刀を手にすれば処刑、大宰少弐を受けなければ追放、大宰府に下向すれば左遷。高橋を同席させているから個人攻撃ではないと言い逃れできる。安っぽい挑発だが、罠にはまって逃げ場がない。
「右大臣様は天皇様の代わりとして命令している。藤原広嗣は勅令に従うのか、それとも逆らうのか」
言いたい放題の真備の野郎に、はらわたが煮える。今すぐにでもたたきのめしてやりたい。罠を仕掛けたのは諸兄か。それとも真備か。いずれにせよ、絶対に許さない。必ず復讐してやる。
広嗣は両手をついて頭を下げ、
「畏まりました。大和守を返上し、大宰少弐の職をいただきます」
と答えた。
諸兄たちは「しかと申しつけた」と言って部屋を出て行く。広嗣と諸兄たちの争いの前に何も言えないでいた安麻呂は、逃げるようにして部屋を出て行った。
戸口からは凍るような冷たい風が入ってくる。冷たい床が両手から熱を奪ってゆき、思わず歯ぎしりをした。
「覚えていろ。必ず俺は戻ってきてやる。諸兄や真備を駆逐して、俺が政を牛耳ってやる」
広嗣は気心が知れた者を連れ、年が明ける前に大宰府へ発った。
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