薬狩の宴会

 空が茜色になると、生駒山の麓には多くの篝火が灯された。何本もの白い煙が焚き火から立ち上がり、夕餉を支度する良い香りが漂う。威勢の良い声が鹿の角を数えたり品評したりしている。生駒山にこだまする。薬草を摘みに山に入った者たちが下りてきて、騒ぎは一気に大きくなった。久しぶりの楽しい行事に、人々の顔は明るい。子供たちは積んできた籠一杯の草を自慢し合ったり、鹿の角を頭にしたりして追いかけっこをして走り回る。気の早い大人たちは飲み始めたらしく、手拍子と歌が聞こえてきた。人々の笑い声に負けないくらいに、ねぐらに帰ってきた鳥も騒ぎ始めた。

 草原に仰向けになっていた広嗣は、空に浮かぶ、細い月と一番星を見た。

 一番星の輝きは俺にふさわしい。他の人間は暗くならないと見えない有象無象の星だ。帝は白い月みたいなもので、上の方にあればいい。地上は俺が支配してやる。

 宴会が始まったようだから頃合いだ。叔母さんの皇后には官職をくれるように口添えしてくれと頼んである。昼間の仕掛けを実らせ、帝から重職をもぎ取ってやる。

 広嗣は立ち上がると衣に付いた草をはたき落とした。

「鹿の用意はできたか」

「ああ、兄者に言われたように、縛った足に棒を通した」

 綱手が手を挙げると、下人たちが「よいこらしょ」と鹿を持ち上げた。

「大人が四人がかりで持ち上げなければならない大物は良いけれども、今日仕留めたものじゃないことがばれないか?」

「ばれないように、日が暮れてから持ってゆくんだ。鹿よりも綱手の狩衣がきれいすぎる。嘘がばれないよう泥や枯れ葉で汚しておけ」

 大物の鹿はなかなか仕留められるものではないから、五日間前に用意しておいた。狩りを知らない帝は、今日捕ってきたと思って目を回すことだろう。仕込みは上々だが、もう一つ現実味をつけておくか。

 広嗣が、草むらに横になってゴロゴロと這い回ると、綱手や下人たちも倣った。


「帝! 大物を仕留めてきました」

 広嗣は、許しを得ることなく、下人たちに大鹿を幔幕の中まで運ばせた。

 いっせいに「オオ」という声が起こる。

 広嗣は、左手に弓を、右手に五本の矢を持って、幔幕の中央で仁王立ちになった。

 篝火に、泥だらけの顔をした広嗣が浮かび上がる。衣も泥にまみれて、ところどころ裂けている。

「下人たちを使って鹿を追い立て、矢を射ましたが、兎と違って一発で仕留めることができません。手負いの鹿が向かってきて俺たちが逆に追われることもありました。大物ですのでしぶとかったですが、粘り強く攻め立て、力尽きて動けなくしたところを太刀で仕留めました。ご覧ください」

 広嗣が右腕で鹿を指すと、下人たちはドンと鹿を地面に置いた。振動で篝火から盛大に火の粉が舞う。

「鹿を追うこと三刻、山野を駆け回りましたので衣は破れ、木の枝に跳ねられできた顔の切り傷がヒリヒリします」

「藤原卿は天晴れである。本日第一の勲功であろう」

 天皇の言葉に拍手が巻き起こる。

「昼間に兎を射って見せましたが、俺は夜でも弓が使えます」

 広嗣は弓を構えると、烏が盛んに鳴いている木に向かって矢を放った。

 矢に驚いた烏の群れが、カアカアと大きく鳴いて薄暮の空に舞う。

 しばらくすると、下人が、矢が刺さった烏を持って走り込んできた。

 広嗣は、矢が刺さったままの烏を高く上げる。

 思わず天皇は床机から腰を上げた。

「藤原卿は、闇夜の烏をいかにして射ることができたのか」

「耳を澄まして烏の声を聞き分け、心眼にて烏の体を見定め、一念を込めて矢を射ました。昼ならば三十間以上、夜でも十間先の的を外すことはありません。今宵の宴会に、邪鬼が紛れ込まぬように、魔除けの矢を射ておきましょう」

 広嗣は下人から鏑矢を受け取って、八方に向けて放ち始めた。

 星が瞬き始めた空を、鏑矢がヒュルヒュルという音を立てて飛ぶ。

 天皇の背後に放った矢は、木に当たってカンと良い音を立てた。

 枯れた松葉がたくさん落ちてきて、天皇はあわてて振り払う。松葉は篝火に入ると、パチパチと音を立てて燃え上がった。

 帝があわてている様を見ることはおもしろい。帝をからかうことができるのは、日の本広しといえども俺くらいだろう。官職を確実にするためにもう一押しする。

「先ほどは身に余る言葉を頂戴しました。お礼に、弟の綱手と一緒に剣舞を舞います」

 広嗣は弓矢を下人に渡すと、太刀を鞘から抜いた。細身の太刀は、篝火を反射してギラリと光る。綱手も太刀を抜く。

 二人が幔幕の中央に出て一礼すると、笛の音が聞こえてきた。

 カン! と太刀を合わせ、二人は笛に合わせて踊り始めた。

 広嗣は天皇に近寄り、切っ先が目の位置に来る高さで、ゆっくりと水平に太刀を振るった。

 天皇は思わず腰を引いた。

 広嗣は三回、天皇に刃先を向けて舞った。

 兎、大鹿、闇夜の烏に剣舞と、俺の力を見せつけて帝を充分脅すことができた。諸兄や真備が苦虫をかみつぶしたような顔で俺をにらみつけている様子もまた一興。今日は楽しい日だが、そろそろ締めくくろう。

 広嗣と綱手はパチンという音を立てて太刀を鞘にしまった。

 大きな拍手に篝火が揺れる。

 広嗣は、天皇の眼前で立て膝になって頭を下げた。

「昼間の約束どおり俺に大和守をください」

 広嗣が右手で鞘を握ると、諸兄が立ち上がった。

「控えよ広嗣。天皇様の御前で太刀に手を掛けるとは何を考えているのか」

「右大臣は異な事をいう。帝の前にて右手で柄を握れば謀反かもしれないが、鞘を握って何ができるというのだろうか。太刀を投げつけるとでも言いたいのであろうか。俺は、帝に太刀の鞘に入れてある象眼を見ていただきたいのだ」

 広嗣は両手で太刀を、天皇の目線まで掲げる。鞘には見事な銀の竜が彫ってあった。

 諸兄が先走ってくれたおかげで、帝の恐怖心は増したろう。気の弱い帝が、俺を怒らせたら殺されるのではないかと、おびえている様子が手に取るように分かる。

「藤原広嗣を大和守に任じよう」

「ありがたくお受けします。綸言汗のごとくと申します。くれぐれも今宵の約束を覆さないでください。藤原広嗣は大和守の役職を勤め上げ、帝に対し今後も変わらぬ忠誠を誓います。鹿は後ほど内裏に届けますのでご賞味ください」

 広嗣が振り返って右手を挙げると、笛が陽気な音を奏で始め、幔幕の空気が一変した。

 全て計画どおり。俺のやることに寸分の間違いもない。諸兄や真備がうるさいことを言い出す前にこの場を去ることが吉だ。

 広嗣のにやけ顔が、篝火に照らされた。

 下人が四人で大鹿を担いで出て行く。

 広嗣は、幔幕の出口で一礼した。

 すっかり暗くなった空には、満天の星が輝いていた。

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