生駒山の薬狩
生駒山の薬狩
広嗣が式部省で失態を演じてから五ヶ月後、聖武天皇は生駒山の山麓で薬狩を催した。薬狩とは、推古朝のときに唐から輸入した宮中行事で、端午の節句に山野に入り、男は鹿の若角を、女は菖蒲や蓬などの薬草を採るという行事である。薬狩は、菖蒲の葉を風呂に入れたり、軒下につるしたりして健康を祈願する行事として、形を変えて現代まで続いている。娯楽の少ない時代であり人気のある行事であった。
薬狩は天然痘の流行や天災の影響で、数年行われていなかったが、天然痘が収束し、宮中の人事も固まったので、人心一新を目的に開催されることになった。
久しぶりの薬狩に、宮中あげての人出となった。山麓に広がる野原に、人々は、大きな日傘を差したり、幔幕を張ったりして、思い思いの場所を作った。
田植えが終わったばかりの稲は風にそよぎ、小高い丘では桑の実採りの子供が騒いでいる。晴れて日の光が降り注ぎ、さわやかな空気に心が躍る。新緑が美しい生駒山にはたくさんの獲物がいそうだ。
広嗣は、藤原式家の下人を二十人ほど引き連れて林の前まできた。
「林のむこうから先行した下人たちが鹿を追い出してくる。俺の下知にしっかり従い、縄で生け捕りにせよ」
使い古した狩衣を身にまとった広嗣は、太めの縄の端を弟の綱手に渡した。綱手は
「承知した兄者」
と、縄を受け取る。
「いいか、俺たち式家が一番に鹿の角を献上する。大伴や佐伯、藤原北家や南家にも負けてはならない」
広嗣が下人に向かって訓示しようとしたときに、林の中から一頭の牡鹿が顔を見せた。広嗣が右手で「伏せ」の合図をすると、全員がしゃがみ込む。
鹿は、あたりを警戒しながらゆっくりと林の中から出てくる。
広嗣は大きめの石を拾うと、鹿が出てきた林の中めがけて放り投げた。
石は放物線を描いて鹿の頭上高く飛び、林に入って大きな音を立てる。
背後の音に驚いた鹿が、広嗣たちの前に走り出してきた。
「出てきたぞ。一番、行け」
広嗣の命令に、一本の縄の両端を二人で持って下人が走り出す。
張られた縄に鹿が引っかかったところで、広嗣は次々に人を出した。縄を持った人が鹿の周りをぐるぐると走るたびに鹿は縄に絡められてゆく。最後に走り出した広嗣と綱手の縄が鹿の首に掛かった。広嗣が力一杯縄を引くと鹿は倒れ込み、下人たちが一斉に飛びかかって鹿は押さえつけられた。
「頭を押さえろ。角を切るぞ」
広嗣は手渡されたのこぎりで、二本の若角を切ると、右手に高く掲げた。
「俺たちが最初の手柄だ」
下人たちの歓声と拍手が生駒山に響いた。
「兄者。鹿はどうする?」
「縄を切って逃がしてやれ。縄を切るときに蹴られて怪我するな」
自由になった鹿は、キューという声を上げ、ピョンピョン跳ねて林の中に消えていった。
広嗣は綱手や下人たちをつれて、聖武天皇の幔幕の前に立った。
幔幕の四角には、天皇の在所を表すための幟が風にゆれ、正面には二つの大楯が、門に似せて立てられていた。大楯を四人の授刀舎人が警護している。幔幕から少し離れたところに、鳳凰を乗せた天皇の輿、少し小さめの皇后の輿と数台の貴人の輿が置いてある。近くに即席の竈が作られていて、
広嗣が、狩衣に付いていた泥を手で払って、大楯の門をくぐり幔幕に入ると、正面に聖武天皇、右に橘諸兄、左に下道真備が床几に座って楽しそうに話をしていた。幕の角には、数人の舎人や采女が控えている。
「今年の若角です」
広嗣と綱手は、天皇の前に膝をついて、角を両手でうやうやしく掲げて献上した。
聖武天皇が角を受け取ると、幔幕にいた全員が拍手する。大きな拍手の音に驚いて、近くの木で羽を休めていた鳥がいっせいに飛び立った。
「見事な角だ。さすがは武辺で聞こえた藤原宇合の長男だけある。倭以来の武門である佐伯や大伴に勝るとも劣らない。鹿を捕らえたときの様子を聞かせてくれ」
「まず、鹿を下人たちに林から追い出させます」
広嗣は大げさな身振り手振りで、鹿を追い出すところから、角を切って逃がすところまで話した。
帝は、鹿を生け捕った程度の話を子供のように喜んで聞いてくれる。内裏の奥で漢籍ばかり読んでいるというから、本物の鹿を見たことがないのだろう。胸板が薄く、ひ弱な帝では、馬に乗って遠出や鷹狩もできまい。腕も細いから太刀を振り回したり、矢を射たりすることもできないだろう。日本を治めるには頼りないが、俺が強く役職を要求すれば、与えてくれる気がする。
「鹿の若角は何に使うのでしょうか」
「陰干しして
「帝の博学には恐れ入りました」
真備の「そんなこと知らなかったのか」という馬鹿にした目つきが気にくわない。鹿茸のことくらいは、俺だって知っている。知らないふりをして帝に聞くところが世辞というものだ。蘊蓄を披露して喜んでいる帝の、自慢げな顔を見てみろ。田舎出の博士には、都の会話は難しいらしい。
「鹿の角を取っているときに詠んだ歌です」
パラパラと拍手が起こった。
「藤原卿は歌も詠めるのか」
「俺は矢を射り太刀を振るいますが、歌も詠みます。父である宇合の『武人は歌が詠めて一流だと』いう教えに従って文武に精進しています」
真備は歌が下手で宴会でも歌を詠むことから逃げているという。ひょろひょろだから太刀を振るうこともできない。文武に秀でた俺の敵ではない。
「朕は藤原卿のことを無骨な若者だと思っていたが、歌が詠めて、親の教えを守る孝行者であったとは、考えを改めねばなるまい」
「それでは、御前にてもう一働きしてみせましょう。このあたりには野兎が多いようです。幔幕の前にお出ましください」
広嗣は聖武天皇たちを先導して幔幕の前に出た。
広嗣が放った鏑矢は、大きな弧を描きヒュルヒュルと音を立てて飛んでゆく。同時に右手の方角で数機の銅鑼が激しく打ち鳴らされた。
銅鑼に驚いた何かが、黄緑色の草むらの中を走ってゆく。
広嗣は、弓をキリキリと引っ張ると、シュと放った。
二人の下人がすかさず走っていって、矢が刺さったウサギを高く上げた。
聖武天皇をはじめ、幔幕の中から付いてきていた人たち、幕の外で働いていた舎人たちが歓声を上げて手をたたいてくれた。
広嗣は、下人から兎を受け取ると、耳をつかみ、高く掲げて聖武天皇に見せた。背に矢が刺さったままの兎は、力なくぶら下がり、鏃の先には赤い肉片が付いていた。
「草の中にいる兎を射るとは見事である。朕は感じ入った」
草むらの中を走る兎など、狙っても当たるものではない。あらかじめ仕込んでおいたのだが、兎狩の経験のない天皇には仕組みがわからない。
「三十間離れたところを走る小兎を一発で仕留めました。見事なものでしょう。雉か山鳩ぐらいの大きさがあれば、飛んでいる鳥でも射ることができます」
広嗣が、兎を聖武天皇に突き出すと、天皇は顔を背けた。
死んだ兎が恐いというのか。それとも、血が嫌いなのか。いずれにせよ兎など女子供でも怖がらない。俺など小さい頃から野に入って兎や鳥を捕らえては絞めていた。帝は気が弱すぎる。だが、気弱な帝は操り道具にはよい。問題は帝に付いてきている諸兄や真備だ。
「御前に何という物を出しているのだ。早くしまえ」
諸兄の言葉に広嗣は、
「夕方の宴に出すよう、下女たちに命じておきます」
と大笑いで答えた。
「藤原卿は、今日一番に鹿の角をとってきて薬狩を盛り上げてくれた。褒美に好きな物を下そう」
広嗣は、聖武天皇の前に立て膝になって頭を下げた。広嗣の後ろに、綱手と二十人の下人が集まってきて同じように膝をついて頭を下げた。
「父の宇合は持節大将軍にとして奥州の蝦夷征伐で帝の手となり足となって働きました。俺もしかるべき役職について、大いに働きたいと思います。
「控えよ広嗣。大和国は大国であれば、お前のような若くて官位が低いものには任せられない。だいたい、鹿の角と兎で国司がいただけるのであれば、皆が国司になっている。馬鹿は休み休み言え」
諸兄が反論してくることは想定内だ。
「右大臣殿がおっしゃることはごもっともです。兎のような小物を仕留めるだけで国司になれるのであれば苦労はしません。帝には夜までに大物を仕留めてご覧に入れましょう」
広嗣が死んだ兎を、ぐいっと前に差し出すと、聖武天皇は思わず後ずさりした。
思ったとおり帝は兎にビビって何も言えない。諸兄や真備が何か言い出す前にこの場から逃げて、帝の言質を取ったことにする。
「馬をひけ」
広嗣は、栗毛色の馬にまたがると、天皇や諸兄の言葉を聞かずに駆けだした。
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