橘諸兄批判
大流行した天然痘の傷跡は大きく朝廷は崩壊しかかった。聖武天皇は、鈴鹿王と橘諸兄に残った公卿百官を再編成させ、なんとか新年を迎えることができた。
藤原広嗣は屋敷から酒と肴を持ってきて、式部省の詰め所で同僚たちと飲み会を勝手に開いていた。外の寒さは厳しいが、たくさんの火鉢を置くと、閉め切った部屋は暖かくなり、干物を焼く臭いと酒臭さで満たされてきた。酒で体が温まって肴で腹がふくれてくると、くだを巻く者がでてくる。
年始には昇叙があるので、話題は自然に新年に行われる昇進に移っていった。
広嗣は注がれた酒を一気に飲み干した。
去年の冬には従兄弟の藤原豊成が参議に任じられた。藤原南家の豊成でさえ参議になれるのであれば、式家の俺だって参議でないとおかしい。俺には従五位下という位や式部少輔という軽い職はふさわしくない。正三位以上の位、式部卿(長官)とか中務卿がふさわしい。とんとん拍子に出世して、すぐに左大臣になってやる。帝は気弱だから、左大臣になればこの国を牛耳ることができる。この部屋にいるボンクラどもはいずれ俺の前にひれ伏すのだ。早く昇叙の内示がこないものか。笑いをかみ殺すことが苦しい。
何杯かの酒を飲んで、昼だというのに真っ赤な顔になり目が据わってきた。広嗣たちができあがった頃に、
東人は酒の臭いに足を止めた。
「広間から何をしている。たるんでいる。誰の許しをして酒盛りをしている」
東人の怒鳴り声に、広嗣たちは一斉に首をすくめた。
「式部少輔の俺が許可した」
東人は無言で広嗣の頭を拳骨で殴った。ゴツンという鈍い音がして、広嗣は両手で頭を押さえる。
東人は広嗣を無視し、懐から紙を取り出して不機嫌そうに言う。
「待ちかねた昇叙だ。橘諸兄殿が右大臣…… 六位以下の者はそれぞれ一級上げる」
正月の人事では、橘諸兄が右大臣が任じられて政権を担うことになった。昇叙は下位の官人が中心で、広嗣などの中位の者に対する昇叙はなかった。部屋に集まっていた者たちは落胆の表情が隠せない。
「俺は?」
「藤原広嗣は去年の夏に昇叙されて、式部少輔に任じられているから今回はない」
広嗣は立ち上がると、ふらふらと東人の前に寄った。
「酒臭いし目が据わっているぞ。位階は、何年もの働きが天皇様に認められて上がっていくものだ。お前は少輔をいただいてから功績らしいものを出していないではないか。おこがましい。顔を洗って出直せ」
「俺は従五位などという低い位で満足していない」
広嗣は、「この野郎」と言って、東人に飛びかかろうとしたときに、弟の
「兄者、酒が過ぎる。大野様に謝れ」
広嗣は「放せ、宿奈麻呂」と言いながら座り込んだ。宿奈麻呂は広嗣に代わって平身低頭する。
酒を飲み過ぎていなければ、大野ぐらい一撃でのしてやるのに……
「皆に重要な知らせがある。阿倍内親王様が皇太子になることが決定した」
部屋中にオオという驚きの声が上がる。
「なぜ女を皇太子にする。全く納得できない」
と、広嗣がふてくされて言うと、東人が睨みつけてきた。
「女が皇太子になるなど前代未聞。女に政ができるものか」
「愚か者! 立場をわきまえよ」
東人の怒鳴り声が、新春の雰囲気を吹き飛ばした。
「お前のような田舎出の老いぼれに言われたくない。俺は藤原式家の
「臣下の分際で天皇様の裁可に意見をするなどもってのほかである。なおかつ、内親王様を侮辱するなど見過ごすことはできない」
「本当のことを言って何が悪い。めんどりが騒げば国が滅びるという言葉を知らないのか」
広嗣は東人に拳骨で頭を殴られた。ゴツンという鈍い音がする。
広嗣が、「痛いな。バカヤロー」と言って東人に殴りかかろうとするところを、宿奈麻呂や部屋にいた同僚たちに押さえ込まれた。
「兄は酒に飲まれています。正月であり、めでたい立太子の話であれば、お見逃しください」
広嗣は、床に押さえつけられて身動きできない。板の間の冷たさが頬から伝わってくる。広嗣がじたばたしていると、「何を騒いでいるのか」という声が聞こえてきた。
体の拘束が解かれて、よろよろと起き上がって部屋を見渡すと、全員が正座して頭を下げている。廊下を振り返ると、大野東人の横に、橘諸兄、下道真備、玄昉が立っていた。東人は諸兄に事情を説明しているらしい。
「天皇様が下賜する昇叙に不服を申し立て、内親王様を罵るとは何事か。以前、
「兄は、酒に酔って心にもないことをも言ってしまいました。家に帰ってからよく言い聞かせますので、この場はお見逃しください」
宿奈麻呂以下、全員が伏して頭を床にすりつける。
「父上の功績に免じて、今日の暴言はなかったことにしてやる。まだ言い続けるのならば、朝議に諮りきつく罰する」
老いぼれが何を言っているのか。俺の言ったことか……
広嗣は後頭部を押されて床に打ち付けられた。
大きな音といっしょに目の前に星が舞う。
気がつくと、屋敷の布団の上に寝ていた。頭痛と共に体を起こすと、宿奈麻呂に「大馬鹿やろう」と罵られた。
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