橘諸兄との口論

「藤原卿は話の途中であるが席を外してくれ」

 と言う聖武天皇の言葉に、広嗣は思わず横にずれて、天皇の正面を空けた。

 部屋に入ってきた三人は、広嗣に気を止めることなく聖武天皇の前に並んで座った。

「瘡病を何とか鎮めなければなりません。本日は唐国より帰ってきました下道真備しもつみちのまきび玄昉げんぼうに病の対処法をまとめさせました」

 天皇の正面に座った男は巻物を紐解くと、書いてあることを一つ一つ説明しはじめた。ときどき左右の男が口をはさんで補足する。

 天皇の言葉に思わず席を空けてしまったが、俺を押しのけたこいつらは誰なのだ。話の内容からすると瘡病のことらしいが、病気などほかっておけばよい。死ぬだけ死んだら流行病はやりやまいは収まる。

 聖武天皇はときどき、橘卿とか下道、玄昉などと三人に呼びかける。

 俺を押しのけた男は橘というのか。聞き慣れない名前だがいったい誰なのだ。皇后の母親が橘三千代だから、皇后に関係する氏族の出なのだろうか。白髪が交じっているところからして五十代半ば。墓場に片足を入れるまで名前が知られていないということは、たいした奴じゃない。両脇にいる下道と玄昉は、前の遣唐使船で戻ってきたという留学生るがくしようか。田舎の小豪族は、留学でもしないと出世の糸口がつかめない。橘とかいう奴より幾分若いが年寄りじゃないか。唐国まで行ってきたことは、ご苦労なことだが、俺とは血筋や身分が違う。いずれにせよ、俺の相手ではない。

「朕の股肱の臣たちが瘡病で次々に倒れていく。手足をもがれるような思いだ。一昨年は大地震。去年は凶作、今年は病の大流行。朕の徳がないばかりに臣下や民に迷惑をかける。天神は朕を罰して欲しい。朕一人だけに罪を負わせ、臣下や無辜の民を救って欲しい」

 聖武天皇は、うなだれた頭を左手で支え涙を流し始めた。光明皇后が懐から布を取り出して聖武天皇に渡す。

 天皇よりも皇后の方がしっかりしているとは、いかがなものであろうか。天皇がしっかりしないから、国が疫病神に取り憑かれるのだ。

「朝堂院の様子はどうか」

「百官には登院停止の勅が出ていますので、朝堂院、左馬寮など静かなものです。真備は、瘡病は人から人へ移ると申しています。天皇様の、登院停止、官市の停止は賢明な判断でした」

「飢饉や疫病は長屋王が祟っているのではなかろうか」

「長屋王は自らの不徳のために死んだのです。多くの人が病に倒れましたが、天皇様や皇后様はお元気ですから、祟りでないことは明白であります。ご心配ならば、長屋王の子供たちに官位を授けてはいかがでしょうか」

「長屋王の祟りなどありません。現に長屋王を殺した俺がピンピンしてます。長屋王の子供に官位を授けるくらいなら俺に下さい」

 と、横から口を出した広嗣は、橘諸兄に睨まれた。

「天皇様の前で、『俺』とは何事か。立場をわきまえ言葉遣いに気をつけよ」

 天皇は広嗣に顔を向けたが、何も言わない。

 天皇は何て察しが悪い人間なのか。こちらが「ヤー」といったらすぐに「オウ」と返すくらいの勢いが欲しい。

「俺は父宇合の代わりとして帝のために働く所存です。働くためには官位が必要です。父と同じ、参議・式部卿をいただきたいと思います」

 広嗣の言葉に諸兄がすぐに反応してきた。

「立場をわきまえよ。思い上がりも甚だしい。藤原宇合様は生涯を通じて天皇様に尽くされたから式部卿という役職を任されたのである。何の実績もないお前に式部卿など務まるわけがない。また、天皇様に官位を直接要求するとは、畏れ多いにもほどがある。見たところ宮仕えの経験はなさそうだが、今の官位は何か」

「従六位上だが何か? 俺の親父は常陸守や持節大将軍を歴任し、式部卿兼大宰帥だざいのそちを勤めた。俺は親の後を継いで仕事をするために帝の前に来たのだが、何か間違っているか。貴族は親から官位を引き継ぐものであれば、俺が式部卿になっても何の差し障りもない。むしろ実力からすれば、もっと上の位がふさわしい」

「天皇様の前で『俺』と名乗るのをやめよ。不敬である。親から官位を引き継ぐことが当然と言ったが、蔭位の制がある故に、お前は高位をいただいているのではないか」

「従六位上など官位のうちに入らない」

「今は瘡病で国が一大事のときである。朝堂院に戻り自分の役目を果たせ。五位に満たない者は藤原の出であろうとも貴族ではない。従六位上の者が帝の御前に侍ることなど許されない」

「お前のような年寄りに説教されたくない。我が曾祖父は天智天皇の懐刀として活躍した大織冠鎌足である。祖父は大宝律令を作った贈正一位太政大臣不比等、父は正三位式部卿兼大宰帥宇合だ。おのれらと俺とは格が違うのだ。我が家が式家と呼ばれるように俺は式部卿になる資格がある」

 広嗣は天皇に体を向ける。

「帝に申し上げます。自分を式部卿か右大臣に任じてくだされば、瘡病など吹き飛ばしてご覧に入れましょう」

 下道真備が「こいつ言わせておけば」と立ち上がろうとするのを諸兄が手を出して制した。同時に、光明皇后が口を開いた。

「瘡病について御宸襟を悩ましておいでのところへ、股肱の臣である藤原卿の訃報が届き、天皇様はお疲れになっています。広嗣の昇叙の件については後ほど決めます。今日はご苦労様でした、お帰りなさい」

 天皇は俺を正面に見ようとしないが、皇后はまっすぐ見つめてくる。気弱な天皇と違って、皇后には逆らえない雰囲気がある。今日のところは引き下がった方がよかろう。

 橘諸兄、下道真備、玄昉か。俺の面目を丸つぶしにしやがって、いつかギャフンと言わせてやる。

 広嗣は右手を握りしめて、ドンと床をたたいてから立ち上がった。

 内裏を出ると、日の光に焼かれた。思わず手で庇を作る。見上げた空は、都や宮中と違って青く澄んでいて気持ちよさそうだ。

 天然痘は九月に入ると収束していく。

 九月二十八日に広嗣は従五位下に昇叙された。官位は四年ごとの勤務評定で決められるので上るには年月がかかるが、広嗣は一挙に三段階も特進したことになる。あわせて式部少輔しきぶしようゆう(次官)に任官された。

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