平城の大仏
盧舎那仏への想い
紫香楽から平城京に戻った聖武天皇は、八月に難波に巡幸したが、難波宮滞在中に大病を患ってしまった。一時は容態が危ぶまれ、皇族をすべて難波に呼ぶ事態となったが、幸い二ヶ月後には回復し平城京へ帰ることができた。
聖武天皇は節々が痛む体を曲げて内裏の縁側に腰掛けた。
九月も終わりになると秋茜が風に乗って生駒山から下りて平城京の空を染める。鳶は筋雲が浮かぶ空を悠然と滑ってゆき、雀たちは冬を乗り切るためにせわしくえさをついばむ。
病み上がりの体を風が優しく撫でてくれ、日の光は暖めてくれた。
青い空に白い雲、秋茜の赤い羽根を見ていると、健康を回復したという実感が湧いてくる。難波宮で床に伏せっていた苦しい日々は嘘のように消えた。
内裏から見える山々もちらほらと色づいてきた。もう半月もすれば、山全体が錦に彩られる。山を背景にして、白い煙が幾筋も立ち上がって空に消えてゆく。籾殻を焼いているのだろう。ときおり香ばしい臭いが漂ってくる。何本も上る煙は豊作の印だ。
と詠んだ舒明天皇の気持ちが分かる。
かすかに笛や太鼓の音が流れてきた。どこかの村で秋の実りを祝っているのだろうか、それとも雅楽寮で新嘗祭の練習をしているのだろうか。一年のうちで一番過ごしやすい季節になった。
人生も一年と同じだ。老齢に入ると人生の収穫が気になってくる。自分には祝うことのできる実りがあるのだろうか。
「お体はよろしいのですか」
聖武天皇の後ろに来て正座した光明皇后に尋ねられた。
「朕が天皇の位を譲り受けてから二十二年。朕の徳が薄いために、天下は少しも良くなっていないような気がする。彷徨五年では公卿はもとより、百官や民に迷惑をかけてしまった。難波で大病したときには光明子にも世話をかけた」
光明子が背中に回り、肩を優しく揉んでくれる。
「天皇様に尽くすのは皇后の役目です。これからも私は天皇様に尽くします」
「朕は四十五になった。若いときは風邪をひいてもすぐに直ったのに、今回の病はなかなか抜けない。年を取ったせいであろう。光明子は幾つになった」
「天皇様と同い年でございます」
光明子の甘えるような柔らかい声は、若い頃と少しも変わっていない。天皇という至高の身分になると、誰も彼もが心に一線を引いて完全に打ち解けてくれないが、光明子だけは幼い頃と変わらず心が通い合う。
「難波で大病を患って、もう死ぬかもしれないと思ったときに、一番気がかりにだったのは、紫香楽宮に残してきた大仏様だった。地震で壊れた後に燃えてしまい再建は無理となった。がれきの山となった無残なお姿、消し炭の匂いが忘れられない」
藤原仲麻呂が言うとおり、紫香楽宮が無事で、甲賀寺だけが倒壊したことはおかしいし、都合良く火が出て全焼したことには作為を感じる。
済んでしまったことを問うのはよそう。
「紫香楽の大仏様はもう望めないが、やはり、日本国には仏様の加護が必要だと思うのだ」
「鎮護国家ですね」
「国を守ってくださる大仏様を造りたい」
「私も河内の大仏様を見たときの感動を忘れることができません。天皇様の手で護国の仏様をお造りしましょう」
「大仏を造りたいが、橘卿は費用や土地のことが問題だと言うだろう」
「費用については皇后宮職からも出しましょう。豊成や永手と相談して藤原一族からも出させます。平城京の内部は公卿の屋敷や民の家が建っていますから寺を建てることはできませんが、外京の東にある
「基の供養にもなる……」
基親王が成人してくれれば、阿陪内親王に未婚を強いることや、井上内親王、不破内親王にももっと若くて血筋がよい皇子を世話してやることができたし、朕の後継に誰も文句を言わなかっただろう。返す返すも残念でしかたがない。
「
生まれたときから朕と一緒に歩んでくれた光明子だからこそ、朕の気持ちを分かってくれるのだ。
「紫香楽の大仏は、朕が平城京へ戻ったことで完全に中止となった。大仏造立には何年もかかる。朕が死ねば大仏様の造立は中止されてしまうのではないだろうか。阿倍は、大仏造立に賛成してくれるだろうか」
「あの子なら大丈夫です。玄昉や下道真備が
朕が死んでも娘が後を継いでくれる。
「もう都を遷すなどとは言わない。平城の地に腰を落ち着けて大仏様を造立する。光明子も朕と一緒に働いてくれるか」
「もちろんです。天皇様の願いは私の願いです。いっしょに大仏様を造りましょう」
握った光明子の両手は、温かくて柔らかかった。
光明子は口元をゆるませ、少しだけ頬を赤くした。
「私が天皇様の元に来たときにも、今日と同じように手を握ってくださいましたね」
思わず手を引っ込めた。
「年甲斐もなく恥ずかしいことをしてしまった。許せ」
「許せだなどと。私はもっとしていただきたいのです」
光明子が体を寄せてくると、衣に焚きこんだ伽羅の香りがしてきた。
秋茜は、気持ちの良さそうに内裏の空を泳いでいた。
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