皇太子の薨去

 基親王は一歳の誕生日を迎えることなく亡くなってしまった。長屋王は、光明子が暮らしている藤原不比等邸へ弔問に出かけた。

 不比等邸は親王の死を悼むように、動く人もなくひっそりとしていた。長屋王の輿が到着したというのに出迎もない。馬や鳥でさえ鳴くのを遠慮しているのか気配が消えている。いつも心を和ませてくれる、庭の百合の花はすべて刈られ、人気のない豪邸からは、かすかに読経の声と抹香が漂ってきていた。明け方まで降っていた雨は、霧を作って屋敷と庭の木々を濡らしている。いくつも水溜まりができていて、避けながら歩くと汗が噴き出てきた。雲は低く垂れ込めていて、再び雨を降らせようとしている。風はなく、湿った空気が体にまとわりついてきた。

 弔問は何回経験しても気分が萎える。亡くなったのが一歳にならない幼子であれば、両親の気持ちを考えると足が重くなる。

 部屋の中には祭壇が設けられ、中央に小さな遺体が横たえられていた。祭壇はたくさんの白い百合で飾られ、遺体の横には遊び道具や小さな服が置いてある。香炉からは抹香の煙が上がって部屋を満たしている。公卿百官からの弔問品は、祭壇の左右にきれいに積み上げられていた。

 長屋王が部屋に入る前に僧侶たちは退席したらしい。部屋の中では、聖武天皇、光明子、阿倍内親王の三人が祭壇の前で、頭を下げて手を合わせ、つぶやくような声で経を読んでいた。部屋の角には皇后付きの采女が三人控えている。

 長屋王が部屋に入っても三人は振り向かない。悲しみがこもった読経に、長屋王は立ち止まったまま動けなくなった。

 小柄な聖武天皇の体がいつもより小さく見える。待ち望んだ親王が亡くなって気落ちしている様子が、後ろ姿からでもよく分かる。天皇としての威厳は保って欲しいが、子供を亡くして悲しんでいるときに説教してはいけない。

 今日は、幼子の冥福を一緒に祈りたい。

 沈香の濃い匂いが鼻をつくなかで、長屋王も三人の後ろに座って手を合わせた。

 聖武天皇らの読経が終わり、静かな時が流れた。

「聖武天皇様」

 長屋王の言葉に聖武天皇はゆっくりと体を回す。

 聖武天皇は小さな声で力なく「左大臣か」と答えた。うつろな目に隈ができ、唇は青紫色で頬は痩けて艶がなかった。

 光明子と阿倍内親王は小さく会釈を返してくれた。

「お気を落とされますな。天皇は人々を照らす太陽でなくてはなりません」

「子を亡くした朕の気持ちがわかるものか」

「私も生まれて間もない子供を亡くしたことがあります。人の子の親として天皇様のお気持ちは充分に分かります」

 聖武天皇は焦点が定まらない目を長屋王からそらした。前に倒れそうになった天皇を光明子が支える。

 天皇のやつれ方はいかがなものであろうか。基親王が不予に陥ってから不比等邸で快癒を願い祈りを捧げていたというが、やつれ方が半端ではない。子供を失えば、普通は母親の方が悲しみにくれるものだが、光明子が気丈に振る舞っているのに比べて、天皇は見るも無惨だ。天皇としての威厳は片鱗もなく、見ているだけで気の毒になる。

「聖武天皇様も皇后様もまだお若いので、いくらでも機会はありましょう」

「気休めはよい。基は一人しかいないのだ。朕の後を継ぎ日本を支えてくれるはずであった……」

 天皇の声は、強い香の中に消えていった。

「朝廷の仕事が立て込んでいましたので、お悔やみに参上するのが遅れて申しありませんでした」

「舎人親王や新田部親王はすぐに来てくれた」

 聖武天皇はうなだれて聞こえないほどの小さな声で返した。

 私は左大臣として、天皇が皇太子の看病のために政務を休んでいるときも朝廷を切り盛りしている。肩書きだけあって仕事のない舎人親王や、仕事を次官に任せている新田部親王とは違うのだ。

 何故に舎人親王や新田部親王の名前が出た?

 漂う香の煙と共に時間だけが流れてゆく。

 雨の音が聞こえてきた。聖武天皇の嘆きに天も雨を降らせてきたらしい。

「基親王様の冥福を祈るために、僧を連れてきましたので読経することをお許しください」

 聖武天皇はゆっくりと顔を上げた。目の隈が濃くなっている。

「ずいぶん手回しの良いことだな。朝廷の仕事が忙しかったのではないか」

殯儀もがりのぎの手配もしてきましたので遅参しました」

 長屋王がゆっくりと頭を下げると、五人の僧が入ってきて下座で読経を始めた。

 光明子と阿倍内親王は手を合わせたが、聖武天皇は基親王の顔を見つめたまま動かない。

「手回しが良い」

 読経の中で、聖武天皇がつぶやいた。

「長屋王は太政官の筆頭でありながら、基の立太子に反対した。自分の子供を皇太子にしたいために基に呪いをかけていたのではないのか」

「天皇様と言えども言葉が過ぎます。私は、幼い子供の成長を願うことはあっても殺そうとは思いません。私の子供たちには天皇様を支えるように幼い頃から教え込んでいます。私の子供を皇太子にするなどと考えたこともありません」

 聖武天皇の横に座る光明子が首を横に振った。

 天皇は気が動転しているから気にするなと言う意味か? 自分より先に弔問に来た舎人親王か新田部親王が、良からぬ事を天皇に吹き込んだのだろう。

「よろしいですか。私は皇太子が平癒するための読経をしましたが、呪いなど掛けていません。誰が言ったか知りませんが、あらぬ言葉に惑わされないよう願います」

 長屋王が光明子に軽く頭を下げると、光明子は首を縦に振った。

 長屋王は基親王の亡骸に深く頭を下げて席を立った。

 部屋を出る長屋王に、読経の声と香が付いてくる。

 聖武天皇は昔から心の線が細い人であったが、子供を亡くしたことで潰れてしまうのではなかろうか。天皇としての威厳と器の大きさが欲しい。

 許されないのは舎人親王や新田部親王だ。天皇が気落ちしているところにつけ込みあらぬことを吹き込んでいった。よりによって自分が基皇太子を呪い殺すとは誹謗中傷の域を超えている。次の人事で二人を左遷してやる。朝廷で最高位の左大臣を陥れようとしたことを後悔させてやる。

 長屋王が庭に出ると、本降りになっていた。資人として仕えている大伴子虫おおとものこむしが傘をかけてくれたが、細かい水滴が顔に当たる。鉛色の雲は足早に動き濃さを増していた。ピカッと光ったと思ったら、ゴロゴロと身を震わせるような大きな音がしてきた。大伴子虫の「お急ぎください」という声にせかされて、長屋王は輿に乗り込んだ。

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