前代未聞の立太子
神亀四年(七二七年)閏九月二十九日。聖武天皇と光明子との間に待望の長男が生まれた。光明子は十年前に阿倍内親王を産んでいたが、以降、妊娠の兆しはなく時が経っていた。
聖武天皇は光明子の他に、
聖武天皇が待ち焦がれていた世継ぎの誕生に、宮中は祝いの雰囲気一色となった。
長屋王も、光明子と子供が暮らしている藤原不比等邸に祝いに出かけた。
藤原不比等邸は、平城宮の東隣にあり、不比等亡き後は光明子が相続していた。長屋王は不比等の娘である
産所に当てられている部屋には、柔らかい秋の日が差し込んでいた。部屋の中には、祝いの品が山のように積まれている。部屋の中央に、大小二つの布団が敷かれ、光明子と赤ん坊がそれぞれ寝ていた。聖武天皇と長女の阿倍内親王は並んで、赤ん坊の横に座っている。聖武天皇は身を乗り出すようにして赤ん坊を見て、阿倍内親王は微笑みながら、細く白い指で赤ん坊の頬をさわっていた。光明子は寝ているらしい。
長屋王が部屋の中に入ると、控えていた四人の采女たちが一斉に頭を下げた。
長屋王は音を立てないように歩いて、光明子と赤ん坊を挟んで、聖武天皇と向かい合う位置に座る。長屋王は会釈した後、光明子と赤ん坊の眠りを妨げないように小声で聖武天皇に話しかけた。
「誠におめでとうございます。皇統を継ぐことができる親王様の誕生に、宮中は沸き立っております。私も知らせを聞き、お祝いに参上しました」
聖武天皇は晴れやかな顔を上げた。
「阿倍内親王様も、お姉様におなり遊ばし、誠におめでとうございます」
横に座る阿倍内親王も微笑みながら顔を赤くした。
「お祝いの品として破邪の刀を持ってきました。守り刀として親王様の枕元に置くことをお許しください」
長屋王は錦の袋を紐解いて、一振りの短刀を出した。
鞘に刻まれた花柄の螺鈿細工が、きらきらと虹色に輝く。鞘を抜くと、妖しいまでに輝く細身の刀身が出てきた。
「親王様のために、長い時間を掛け特別に鍛えさせました。いっさいの邪鬼を寄せ付けず、親王様をお守りいたします」
長屋王は、パチンと刀を鞘に戻し、錦の袋の上に載せて、親王の枕元に置く。
「他の祝いの品は別室に届けてあります。お産を終えた光明子様の滋養になるような物も持ってきております。采女たちに申しつけましたので、後ほど召し上がってください」
「朕は親王が生まれた喜びを民と共に味わいたい」
「それでは、大赦を行いましょう。また、諸親王、左右の大舎人、兵衛、参議の資人や女儒にいたるまで、身分に応じて記念の品を下賜しましょう」
「親王と同じ日に生まれた子供には、麻布一端、真綿二屯、稲二十束を下賜したい」
長屋王は、ニッコリと微笑む。
「よろしゅうございましょう。民も喜ぶことでしょうからさっそく手配させます」
赤ん坊は何がうれしいのか、寝たまま微笑んでいる。阿倍内親王はうれしそうに、そっと指を赤ん坊の手のひらの上に載せた。
「生まれて間もないのに、肌の皺もなく文字どおり玉のようなお子様です。名前は何とされましたか」
「左大臣も玉のような子供と思うか。朕も待望の世継ぎが生まれてうれしくてたまらない。親王は礎となって我が国を支えるように『
破顔の聖武天皇につられて、長屋王は微笑む。
「基親王様ですか。良いお名前です」
「目元がすっきりしていて賢そうであろう。口は小さくて気品がある。朕よりも光明子に似ているかもしれない。生まれたばかりなのに帝王の気を感じる。大きくなったら、儒教や仏教を官人に講義し、公卿百官らを従えて宮中を歩く様が見えるようだ」
赤ん坊だというのに、早くも成人した姿を思い浮かべているとは、聖武天皇の親馬鹿ぶりは見ていて微笑ましくなる。皇統をつながなければならないという使命感を持つ天皇は、親王が生まれてうれしくてたまらないのだろう。今までに見たことがない笑顔でいらっしゃる。人の親として聖武天皇の喜びはよく分かる。自分も初めての子供である膳夫が生まれたときは、聖武天皇と同じようにはしゃいでいた。十六人も子供を持つようになって、赤ん坊の誕生に慣れてしまった自分が寂しい。
「世継ぎをお産みになった光明子様を皇后になさったらいかがでしょうか」
「光明子は藤原不比等の娘であって皇族ではない。律令の規定では、皇后になれるのは皇族だけではないのか」
「聖武天皇の母上様に、
皇大夫人と言った瞬間に顔が曇ってしまった。聖武天皇は、初めて出した勅を撤回させられたことを、いまだに根に持っているのだろうか。もう何年も前のことだから、いいかげん気持ちを切り替えてほしいものだ。
「光明子に皇を贈ったら、
「広刀自様は
広刀自も女しか生んでいないし、もともと県犬養氏と出自が低いから、光明子と同等に扱う必要はない。広刀自は橘三千代の姪だから、光明子と同じように大切に扱わなければならないと思っているのであろうか。いずれにせよ、天皇の性格はめんどうくさい。
目を覚ました赤ん坊は、曇りのない透き通った瞳で長屋王を見つめてくれる。
「さっそく立太子の儀を行いたい」
聖武天皇の言葉に、基親王をながめていた長屋王は思わず顔を上げた。
「何をおっしゃいます。親王は生まれたばかりではありませんか。歩くことはおろか、這うこともできない赤子を皇太子にするなどもってのほかです」
「
「赤子を皇太子にするなど前代未聞です。文武天皇様は十五歳で皇太子に、聖武天皇様が十四歳で皇太子になられたように、地位にはふさわしい年齢があります」
「左大臣がいつも朕に説教する律令には、立太子の年齢は書いていない。何歳で皇太子にしても律令には反しない」
「世間体というものがあります。成人していない人間を後継者にしては、国中の笑い者になります。そもそも、生まれたての赤子が丈夫に育つかどうかもわかりません。天皇の器が備わっているかわからないではないですか」
「左大臣は朕が国中の笑い者になるというのか。基が成人前に死んでしまうと言うのか」
「決してそのような不敬を申し上げているのではありません。前例がないのでよく考えてくださいと申し上げます」
「お
聖武天皇の語気に、基親王が泣き出した。
たちまち天皇は笑い顔になって、基親王を抱こうとする。部屋の隅に控えていた采女が飛び出してきて手伝い始めた。
また、天皇と喧嘩になってしまった。「天子に
寝ていた光明子も子供の声に目を覚まして半身を起こした。
長屋王が光明子に挨拶していると、天皇は赤ん坊を抱き、赤ちゃん言葉であやし始めた。
子煩悩な父親は見ていて微笑ましいが、聖武天皇は天皇としての自覚を持ってほしい。赤子を皇太子にするという馬鹿なことはやめさせねばならない。少し間を置いて、天皇の頭が冷えた頃に説得するか。それとも、元正太上天皇様から言ってもらうか。「やれやれ」と言うしかない。
長屋王は深呼吸をしてから、退席の挨拶をして部屋を後にした。
柔らかい秋の日差しが、赤や黄色に色づいた紅葉を輝かし、茜色の空は、気持ちよさそうな筋雲を浮かべ、秋茜の群れが美しく舞っている。
素直な気持ちで親王の誕生を祝いに来たのに、とんだ問題を抱えてしまった。トンボのように自由に空を飛べたら気持ちがよいだろう。
聖武天皇は、長屋王の反対を押し切って、生まれたばかりの基親王を皇太子にした。大納言・多治比池守が朝廷の使者として、藤原不比等邸に公卿百官を率いて祝いに出かけたが、長屋王は出席しなかった。
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