大仏造立の詔
十月二十九日に平城京を出発した聖武天皇は、堀越、名張、阿保と壬申の乱で天武天皇がたどった道筋を歩んだ。十一月三日、伊勢国壱志郡河口の
平城京から大極殿や兵庫を移し、公卿百官が移り住んで、恭仁京の建設に邁進している中で、聖武天皇は近江国
恭仁京に都を遷し始めてから三年経った、天平十五年十月十五日、聖武天皇は紫香楽宮に橘諸兄ら太政官を呼んだ。
紫香楽宮のまわりの山々は紅葉が盛りで、赤や黄色で染め上げられた錦の衣を着ているように美しい。猿の群れが秋の果物を探しキーキーと鳴きながら木々の間を飛び回っている。小猿を背中に乗せて歩く母猿の姿が微笑ましい。椋鳥は山柿の木に群がって大騒ぎをし、雁は編隊を組んで南を目指して飛んでいった。
小さな白い雲を浮かべた空は抜けるように青く澄んで、どこまでも登ってゆけるような気持ちにさせる。太陽の光は夏に比べてずいぶんと優しくなってきた。
風が吹くと乾いた落ち葉が、カサカサという音を立てて舞い上がり、籾殻を焼く臭いが漂ってくる。近くの村からは幾筋もの煙が上がっていた。刈り入れが終わった村人たちは、一休みして秋の祭りの話をしていることだろう。
聖武天皇の前には、橘諸兄、鈴鹿王をはじめとして太政官が勢揃いした。それぞれに神妙な顔をしている。今年の新嘗祭を担当する藤原豊成は出番を待つような眼差しをしていた。
天皇は横に座った光明皇后をちらりと見てから、おもむろに口を開いた。
「朕は紫香楽の地に盧舎那仏を造立することに決めた」
諸兄以外の太政官は突然のことに呆然として何も言えない。鈴鹿王、藤原豊成たちは何を言われたのか全く分からないという顔をした。
「朕は河内の知識寺で拝見した盧舎那仏のお姿を忘れることができない。河内の民ですら長い月日を掛け、知識を持ち寄って仏様を造った。日本国を治める朕が、どうして盧舎那仏を造らないでいられようか」
鈴鹿王が困惑した表情を浮かべて尋ねてきた。
「知識寺は丈六の大仏様でした。天皇様はどのくらいの大きさの仏様をお考えでしょうか」
「六丈(約十八メートル)の大仏様を考えている」
鈴鹿王は口を半開きにしたまま声を出せなくなった。
「先年、諸国には
「恭仁京の建設を続けていますので大仏様を造立しようとすると国家の費用が持ちません」
「朕が即位してから日照や地震など天災、瘡病の大災厄が起こり、民が苦しんでいる。ついには臣下が謀反の兵を挙げた。すべて朕に徳がないからであると考えている。朕は写経や大仏造立を通じて徳を積んでゆきたい。朕が徳を積むことは国家が徳を積むことであり、仏の加護によって天下泰平、万民安楽を実現できると考えている。費用について鈴鹿王の懸念はもっともである。朕は河内の知識寺で民一人一人が、財や労力を出し合って大仏を造り、寺を守っている姿に感動した。朕は民と知識をあわせて盧舎那仏を造立したいと考えている。朕と民で造った盧舎那仏様が見えるようだ」
仰ぎ見る盧舎那仏の前に、朕と皇后が跪き、後ろには公卿百官、そして諸国の民がひれ伏している。全員で唱和する般若経は、山や谷を越えて日本中に響き渡るのだ。そして、盧舎那仏様の慈悲によって
「大仏造立については、きのう、今日に思いついたことではない。知識寺で大仏様を見たときからずっと思っていた。東国巡幸の最中に広嗣の逮捕を聞いてもすぐに都に帰らなかったのは、大仏様を建てるのに適した土地を見つけるためであった。当初は恭仁京の地が適していると思ったが、紫香楽の地の方が近江路に近いことから、この地に建てることにした。紫香楽の離宮へ来たときに、山の中に盧舎那仏のお姿が見えたのだ。朝日が昇ってゆく中に現れた黒い影は、知識寺で見た大仏様の影そのものであった。仏様のお告げを受けたからには、天皇として、日本を加護してくださる仏像を造らなければならない」
「民と造るとおっしゃっても……」
「藤原仲麻呂が、僧行基を見つけてくれた」
末席にいた仲麻呂は頭を下げる。
「行基は仏教の教えを広めるために、各地に道場を作っているという。難波や河内では民を動員して、溜め池や灌漑用の溝を多く作った。行基をして民の知識を集め大仏を造立したい」
「お言葉ですが、前の天皇様の時代に、行基は民に仏教を布教しているとして取り締まったことがあります」
「朕が諸国に国分寺を建てさせたときに、朕と行基の志は同じであることがわかった。行基を僧正に取り立てて大仏造立の責任者に任じたい」
「天皇様は鎮護国家をお考えになっている」
聞き慣れない言葉に、太政官たちは声の主である諸兄を見た。
「鎮護国家とは、仏様のお力によって国を守り民を安んじることである。我々は天皇様の臣下であるから、天皇様の思いを叶えるよう努めなければならない」
「左大臣殿の言うことは分かるが、恭仁京と大仏様の二つを作るだけの余裕は……」
「天皇様は恭仁京の建設を中断して、大仏様を造立なさるおつもりである」
諸兄の言葉に太政官たちは互いにに顔を見合わせた。
「すでに詔は用意してある」
聖武天皇から詔を受け取った諸兄が読み上げる。
「朕は薄徳の身でありながら天皇の位を受け継ぎ、民を慈しんできた。地の果てまで恵みを広めてきたが、未だ
ここに、菩薩の大願を
この富と勢をもって尊像を造ることは容易いが、形だけのものとなり、心はこもらない。ただ
それゆえに、朕の知識に参加する者は、自らが盧舎那仏を造立しているのだという気持ちになって欲しい。
一枝の草や、
三日間推敲を重ねただけあって、我ながら良いできである。詔を中務省に任せず朕が自ら書いたことで、公卿らは朕の思いの深さを分かってくれたことと思う。特に、一枝の草、一把の土のくだりから朕の思いがどこにあるかをくみ取って欲しい。
盧舎那仏は朕だけで造るのではなく、河内の大仏様のように民の知識を集めて造らなければならない。民の力を集めることで、仏様の加護は天下にゆき渡るのだ。
「朕は、民の力と国の力を合わせて盧舎那仏を造ることにした」
聖武天皇の力強い言葉に、太政官たちは目をつむり頭を下げて「畏まりました」と答えてくれた。
秋茜が一匹部屋に飛び込んできた。透明な羽をつけた赤い体が滑るように宙を飛んでゆく。
トンボですら大仏造立の知識に加わりたいらしい。きっと民も朕の心を理解して喜んで知識を持ち寄ってくれるだろう。紫香楽の地に大仏様が見えてきた。
聖武天皇は、恭仁京の建設、一切経の写経事業、元旦朝賀など費用がかかる事業をすべて中止し、諸国からの庸調を紫香楽宮に集中させ、紫香楽の大仏造立を始めた。
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