桜の花
大宰府は「
奈良時代は、五畿七道を中央政府が直接統治する政治体制であったが、西海道九国や三島(壱岐、対馬、大隅諸島)は中央から遠く、朝鮮や中国からの不意の襲撃に機敏な対応をとるために、大宰府が中央に代わって統治することになっていた。
博多湾から十五キロメートルほど内陸にある大宰府は平城京を模して作られている。面積は平城京の四分の一と小さいが、町は条坊制に従い東西、南北にまっすぐ延びる道で碁盤の目に区割りされている。町の北端、平城京ならば宮に当たる場所には、大宰府政庁である
大宰帥は欠員、大弐の高橋安麻呂は右大弁を兼務しているため平城京にいて、少弐である藤原広嗣が実質的に大宰府の長となっていた。
天平十二年(七四〇年)四月一日。大宰府で二回目の春を迎えた藤原広嗣は、
広嗣は、都府楼の中庭で「大極殿」を背にして、赤い毛氈の上に座る。
澄み切った青空に、白い雲が一つ気持ちよさそうに東に流れてゆく。春の日差しが庭を満たして、温かい陽気に蝶が舞い、柔らかな風が頬をなでる。鶯の優雅な声は薮から湧き起こり、雲雀の甲高い鳴き声は空の高いところから降りてくる。庭に植えられている山桜の木々は、赤い新芽と真っ白な花を枝一杯に咲かせていた。下女たちが膳を運んできて、できたての料理の匂いが鼻を刺激する。
「兄者、盆と正月が一緒に来たみたいだぜ。都の天皇様でも食べられないような料理だ」
広嗣の弟である藤原綱手、腹心の部下である
広嗣の「乾杯」の発声に宴会が始まり、綱手たちは待ってましたとばかりに箸を取った。
「
「白米だけのご飯に感動です。自分も家への土産にしてよいでしょうか」
広嗣は芳醇な香りを漂わせている濁り酒を一気にあおった。
「出された料理は全部食べてくれ。お前たちが持って帰る土産はちゃんと用意してある」
宴会に集まっていた部下はいっせいに拍手した。
すかさず広嗣が右手を挙げると、笛や太鼓の陽気な音楽が始まった。
広嗣の部下たちは、代わる代わる前に来て挨拶をして行く。
「広嗣様に付いてきて良かったです」
「都ではできない暮らしをさせていただき感謝に堪えません」
「お若い方が赴任されると心配していましたが、今までの中で一番物わかりが良く仕事が快調に進みます」
頭を下げる部下に、広嗣は酒をついでやる。
「兄者、俺も蘇を初めて食べた。甘くてけっこういけるな」
「宮中の朝賀で食べたことがある。あのときは親指の先くらいの小さなもので味が分からず、つまらない思いをしたから、今回はたっぷりと用意させた」
「竹の子や、菜の花、蕗もいい感じに煮てあって旨い」
「もうじき焼き魚や、鴨肉も出てくる。たっぷりと楽しんでくれ」
再び大きな拍手が起こり、三田塩籠が自慢ののどを披露し始めた。歌にあわせて手拍子が始まる。
「兄者について大宰府くんだりまで来て良かった。都の宴会は、粟飯で腹をいっぱいにして、まずい酒で酔うだけだが、今日は料理も飯も酒も最高だ」
「大宰府は辺境だと思っていたが、意外に垢抜けていた。新羅が近いせいか、都にはない変わった物がある。なにより冬が暖かくてすごしやすい。上座でお前たちが喜んで飲み食いしている様子を見ると帝になった気分だ」
「兄者は大宰府の頭だから、西海道を治める帝だよ」
「天気の良い日に飲む酒は最高だな」
と広嗣は声を上げて笑った。
大宰府に来て一年経った。住めば都とはよく言ったもので、しだいに大宰府の良さが分かってきた。
海に近いから新鮮な魚や、大きな蛤が食べられる。山もあるから猟を楽しめる。新羅と関係が深い土地だから変わった物や風習がある。
西海道全域の
大宰府は良い町だ。
しかし、俺は大宰府の少弐に満足している男ではない。都で左大臣となって、公卿や百官たちを睥睨してこそ、真の俺なのだ。
三田塩籠の歌が終わると、待っていたように笛が始まり、薄桃色の衣を着た女が踊り始めた。
「兄者、こんなに豪華な料理や歌の宴会を開いて大丈夫か」
「大丈夫だ。管内の国司に少しずつ正倉を開けさせた。今日は重大な発表をする。だから俺の手足となる者には充分楽しんでもらいたい」
「いよいよ、表だって動き出すのか」
「その前に、女は踊りが上手だが顔は今一だ。からかってやろう」
広嗣は、下人に庭に咲いている山桜の枝を折ってこさせた。人の腕ほどの長さに、赤い若葉と白い花があふれるように付いている。
踊りが終わったところで、広嗣は女を呼んだ。
「みごとな舞であった。褒美に桜の花と歌を下そう」
女が桜の花を捧げ持ったところで、広嗣は木簡に歌を書いた。
この花の
(この桜の一枝には、たくさんの想いが込められている。けっしておろそかにしてはいけない)
女はにっこりと笑う。
「それでは、お返しの歌でございます」
この花の 一節のうちは 百種の
(この桜の枝は、たくさんの想いを持ち切れないので、折れてしまったのですね)
「女! 見事である」
広嗣が大笑いすると拍手が起こった。
女は桜の枝を掲げて下がった。
「兄者の負けだな」
「俺から相聞歌を受け取った女が、どきまぎしてうろたえるところを見たかったが、してやられた。だが、酒の余興としてはおもしろかったろう」
広嗣が話しているところへ、さらに二品運ばれてきた。
「最後の料理が出てきたようだ。菓子だが、なんだか当ててみろ」
綱手らはうれしそうに食べて、それぞれに感想を言う。
茶色い巾着状の物は「
「正解だ。遣唐使が作り方を持ち帰ったものだ。もう一つは分かるか?」
山芋を使った何かであることで話がまとまったが、甘みの付け方に議論が分かれた。
「半分正解だ。山芋を小さく切り刻んで
「甘葛って、ほんの少ししか採れないから、天皇様や皇后様でもめったに口にできない物じゃないか」
「そのとおりだが、大宰府の長官であれば皆に振る舞うことができる。土産にも入れてあるから、家へ持って帰って子供たちに父親の権威を見せてやってくれ」
小長谷常人が声を殺して泣いていた。
「常人はいかがしたのだ」
「いただいた菓子を五年前に瘡病で死んだ子供にも食べさせてやりたかった」
「お前の今の子供は?」
「三人の子が飛び跳ねています」
「死んだ子供の分まで、今の子供をかわいがってやれ。子供で何か困ったことがあれば俺のところへ来い」
常人たちは深く頭を下げる。
桜の花びらを浮かべた白湯が出た。
湯気を吹きながら、ほんのりと塩気がある白湯をゆっくりと飲むと、満足感が全身に広がる。日差しは柔らかく、鶯の声は心地よい。青い空に、真っ白なちぎれ雲が足早に東へ流れていった。
膳が下げられ、給仕をしていた下男下女、楽士らも姿を消した。
「さて、今日までお前たちにはばらばらに動いてもらっていた。各人の動きを一つにまとめるときが来た」
綱手以下全員が身を正して広嗣の方に体を向けた。
「俺は都の諸兄、真備、玄昉らを蹴散らすことにした」
「兄者、ついに動き始めるのか」
「大宰府が良いところであることは分かってきたが、俺は辺境で終わるような男ではない。都では、帝の気の弱さにつけ込んで、橘諸兄と取り巻き連中が政を私している。諸兄たちは、帝の獅子身中の虫である。俺は害虫を一掃し帝をお守りすることを決意した。思い起こせば、我が父は帝のために文字どおり東奔西走し骨身を砕いて働いた。結果として正三位式部卿になったわけだが、俺は正三位や式部卿では満足できない。大宰府を出るならば頂点をめざす」
「軍をまとめて上京するときが来たのだな」
「綱手の言うとおりである。各個に指示をしてきたことをまとめ上げるときが来た。今までは裏で仕事をしてきたが、今日からは堂々と動き出す」
「謀反を起こすのか。覚悟はしていたが実際に時が来ると身震いする」
「謀反とは帝を倒して新しい王朝を立ち上げようとすることだ。俺たちは宮中に巣くう悪人たちを退治し帝を助けるのだ。朝廷は昨年で徴兵を止めたから、都にはたいした兵がいない。対する俺たちには防人もいれば、西海道の諸国から兵を集めることができる。俺は帝に対して、諸兄たちの不忠を指弾する上表文を出す。上表文で帝は目を覚ますだろう。上表文は帝だけではなく、叔母である光明皇后、藤原の氏上である藤原豊成も目にするはずだから、二人は帝に対して口添えしてくれるはずだ。上表文とは別に、藤原式家や同心してくれる者たちへ密書を出す。式家の宿奈麻呂や田麻呂が決起に呼応してくれるはずだ」
「勝てるぞ」
綱手の力強い言葉に、多胡古麻呂たちが頷く。
「俺は都へ行き太政大臣になる」
「兄者が大臣になったら、公卿に取り立ててくれ」
「おうとも。五衛府の長官にしてやろう」
大声を上げる広嗣に、雉が声を合わせて鳴いてくれた。
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