平城京還都

 天平十七年(七四五年)の四月になると紫香楽宮近くの山や村で火災が頻発するようになり、五月一日からは毎日のように地震が起きた。

 諸兄は、紫香楽宮の門に立ち、近くの山から立ち上がる白い煙を見た。赤い炎こそ見えないが山は盛大に燃えているらしい。周囲の山々には、白い帯を巻いたように煙が漂っている。空は煙に覆われて花曇りになっている。山火事は自然に消えるまで待つしかないが、宮への延焼を防ぐために近隣の村から人を動員し、宮の近くの木を切り倒し下草を焼くように命じた。動員した人たちのために、炊き出しが宮の横で始まり、女たちが忙しそうに動き回っている。

 風向きが変わり煙が宮に流れてきた。宮は真っ白になって一寸先も見えなくなる。諸兄は煙にむせて咳き込み、しみる目から涙が出てきた。

 雷が落ちて山が燃えることがあるが、四月以来の火事の多さは雷では説明できない。古来より日本では政に不満を募らせた民は放火して異を唱える。天智天皇様が宮を近江へ遷そうとしたときに、倭で火事が頻発したという。公卿百官の不満も溜まっているが、民の不満も限界に来ている。

 都ができて苦労が実ることを実感できるならまだしも、途中でやめてすべてが無駄になったのでは頭にくる。民は火をつける程度ですむが、公卿や諸王など権力や財力を持つ者は藤原広嗣のように謀反を起こすかもしれない。

 地面が小刻みに揺れ、林の木々が音を立てた。

 また地震だ。地震の多さも尋常ではない。天変地異は天神がお怒りの印だ。天にも人にも不満があふれている。

 今の地震は小さかったが、今朝の大きな揺れで大仏様が半壊したことを報告しなければならない。報告と一緒に、職を掛けて諫言申し上げる。

 咳き込む声に振り向くと、聖武天皇が諸兄の後ろに立っていた。

 諸兄は天皇の前に跪いて頭を下げる。

「臣・橘諸兄は罰せられることを承知で言上します。聖武天皇様におかれましては、平城京へ還御ください。藤原広嗣の乱から五年間にわたって天皇様はさまよっておられます。都が定まらないために、公卿百官はもとより民までもが右往左往しています。恭仁京、難波宮、紫香楽宮、甲賀寺の大仏に国帑を費やし、民の暮らしは苦しくなって、不満は頂点に達しています。なにとぞ平城京へお帰りください」

「大仏様を未完成のままにしておけというのか」

「今朝の大地震で櫓が倒れ、体骨柱は折れ曲がり、土台も半壊しました。壊れ方が悪く、もし大仏様を造るのならば、更地に戻してからの仕事となります」

「鎮護国家である。仏様のご加護により天下泰平、万民安楽を実現するのだ。大仏様を造らずして朕の国家はない」

「仏様を造るために民が苦しみ、飢えていては本末転倒です。天皇様は今年に入ってから月に何回も起きている山火事を何とお考えでしょうか。すべて政に不満がある者の放火です」

「放火とわかっているならば、犯人を捕まえて死罪にせよ」

「四月の上旬に伊賀国真木山まぎやまが燃えたときには、この紫香楽宮からも赤い炎がよく見えました。真木山の火消しには、山背国、伊賀国、近江国の人間を動員しました。宮の東の山で火が上がったときには、十日間ほど消えませんでした。民は家財道具を土に埋め、天皇様にも宮から一時的に離れていただきました」

「橘卿の取り締まりがなっていない」

「彷徨五年は綱紀の緩みを招いています。官人にとって、宮が完成しないのに次々と遷ること、大仏造立、国分寺の建立は天皇様が好き勝手なことをしていると映ります。上の人が己を律することなく気ままに動けば、下の者たちは私利私欲を求めて動くようになります。昨年来より巡察使を諸国に派遣しているのは、国、郡の官司が法令を守らなくなってきていることによります」

刑部省ぎようぶしように命じて刑罰を厳密にさせよ」

「今月に入って地震が頻発しております。美濃国では国衙の櫓、館、正倉、国分寺が崩れ落ちました。近江国からも甚大な被害が報告されています。三昼夜続いた余震や、一晩中低い音を立てる山鳴りに百官や民が恐れをなしています。地震は国神くにつかみ様からの警告であります。放火は人の罪ですが、激しく延焼し何日も消せないのは天神様がお怒りなのです。天神、国神の思し召しには天皇様であっても従うべきです」

 地面が横にゆっくりと揺れた。諸兄は思わず右手を地面につけて体を支えた。

 山が低いうなり声を上げ、何羽もの雉が甲高い声で鳴く。

 風が運んできた濃い煙に天皇と諸兄はむせた。

 懐から布を取り出して、滲みる目をぬぐう。

「度重なる遷都に伴う国帑こくどの浪費で人心は乱れ民は困窮しております。平城京に戻っていただきたく、臣・橘諸兄は職をかけて言上いたします」

 天皇は諸兄を見ていなかった。

「卿らも橘卿と同じ意見か?」

 卿ら? 自分と同じ?

 後ろを振り向くと、鈴鹿王、大野東人、藤原豊成、巨勢奈弖麻呂こせのなてまろ大伴牛養おおとものうしかい県犬養石次あがたいぬかいのいわつぐ多治比広足たじひのひろたり紀飯麻呂きのいいまろら太政官が勢揃いして頭を下げていた。

 紫香楽宮に勤める官人たち、人足で来ている者たち、僧侶、消火に動員された村人たちが遠巻きにしている。

 鈴鹿王が言う。

「先年の正月に天皇様がされたように、都をどこに定めるべきか、公卿百官、民に訪ねました。すべての人間が平城京を都にするべきと答えました。さらに平城京の薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺に意見を求めたところ、すべての寺院から平城京を都にすべきであるとの返事がありました。天、地、人、すべてが天皇様の還御を望んでいます。私も職を掛けて天皇様に言上いたします」

 さらに鈴鹿王は諸兄だけに聞こえるように小さな声で、

「卿にはいつも損な役を押しつけて申し訳ない」

 と言ってくれた。

 大野東人たちも口々に、職を掛けて平城京へ帰るべきだと言ってくれた。

「紫香楽の大仏さえ完成すれば……」

 聖武天皇の震える声が途切れた。

「平城京へお帰りになるということでよろしいですね」

 天皇は頭を垂れた。

 諸兄は立ち上がると太政官たちを前に大声を上げた。

「平城京に戻るぞ」

 遠巻きに見ていた者たちの「万歳」という大合唱が白い煙を吹き飛ばす。

「紀飯麻呂を紫香楽宮の留守居役に命じる。藤原豊成は平城京に高御座、大楯、御璽を運ぶ用意を、大野東人は車駕を用意せよ」

 涙が止まらないのは煙にむせたからではない。一世一代の諫言ができたからだ。

 天皇様には嫌われてしまったかもしれないが、初めて臣下としての役割を果たすことができた。

 天皇様が平城京に腰を落ち着かせてくださることで、政を立て直すことができる。律令を正しく用いることで綱紀を粛正することができ、恭仁京や紫香楽宮を止めることで民の負担を減らすことができる。

 紫香楽宮の中に消えてゆく聖武天皇の後ろ姿を、諸兄たちは見送った。

 聖武天皇は恭仁京に一泊後、平城京に還り、二度と遷都を言い出すことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る