第二章 藤原広嗣
天然痘の大流行
藤原宇合薨去
長屋王の変から六年後の天平七年(七三五年)八月、大宰府で天然痘(
天然痘は翌八年春にいったん沈静化するが、天平九年(七三七年)、再び大宰府で発生し全国に広まった。天然痘の流行に合わせるように、天平七年から九年にかけて、天災や旱魃による飢饉が発生し、人々の生活は困窮した。
多くの官人が死に、六月一日には、平城京の諸役所を閉鎖しなければならない事態となってしまった。太政官では、四月十七日に参議・民部卿の
八月六日、藤原宇合の長男である
太陽は朝から焼き付けるような光を照らしている。朝服の袖をまくり上げないと暑くてたまらないが、上げれば太陽の光が腕を刺して痛い。空気が乾いているので、日陰に入れば暑くないのが救いだ。広嗣は塀の影を歩くことにした。
昼間だというのに都大路には人影がない。四、五町に一人見かければ良い方だ。人々は瘡病を恐れて外出を控えている。強い日差しの元で、広い通りに土埃が舞い、野良犬がえさを探してうろついている。
広嗣が犬に石をぶつけると、犬はキャンキャン吠えながらどこかへ行ってしまった。
「何が『
広嗣の見えるところに、答えてくれる人はいない。
宮門をくぐり朝堂院に入ったが、登庁が停止されているので、朝堂院は真夜中のようにひっそりとして、物音一つしない。そもそも、宮門を守る衛士が二人しかいなかった。その兵士も、自信なさそうに立っているだけで、いざというとき役立ちそうもない。わずかに見る舎人や采女は、病気を恐れて隠れるように動いている。
「どいつもこいつも情けない奴らばかりだ。瘡病など気力で飛ばせ」
初めて入る内裏も火が消えたみたいに寂しい。日差しが強い外は暑かったが、日光が入ってこない廊下はひんやりとしていた。足の裏の冷たい感触が気持ちよい。しかし、空気は澱んで重苦しかった。朱色の柱や板壁の絵が色あせて見える。
「何が『
内裏の奥にある天皇の部屋に通された広嗣は、聖武天皇、光明皇后の前に座ると、頭を床につけて言上した。
「父の宇合が瘡病にて昨日亡くなりました。父は臨終の間際まで帝に尽くしたいと申しており、私ども子供には誠心誠意、帝のために働くようにと遺言しました」
聖武天皇からの返事はない。
広嗣が顔を上げると、聖武天皇は両手で顔を覆い倒れそうになってた。光明皇后があわてて横から支えようとしていた。
「いかがなされました」
「朕の徳がないために、先年より災害や疫病で多くの人が死んだ。百官も多く死んで朝廷が開けなくなっている。旱魃も三年目に入り、田畑の実りは望みがなく民は悲嘆にくれている。天を仰いで朕の不徳を恥じていたところへ、式部卿(藤原宇合)が死んだという知らせが届いた。
聖武天皇は朝賀の時に遠くから見たことしかなかったが、間近に見ると、小柄で貧相な顔をしている。色白で腕も細くて力はなさそうだ。錦の衣と冠がなければ、中年のしょぼい舎人にしか見えない。
こんな男が天皇なのか。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」とは誰かに教えてもらった言葉だが、俺が左大臣になって、天皇の代わりに
確かに、瘡病は深刻で俺の親とか叔父は皆死んでしまった。民も多くが死に河原には、死体の捨て場所がなくなっている。官人の多くも出仕できないから朝廷は閉鎖されている。
だから何だというのだ。瘡病に負けるような弱い奴がくたばっているだけではないか。
天皇ならば、国家が苦しいときほど強く、威厳に満ちていなければならない。「不徳を恥じていた」とか「朕だけを苦しめればよい」などと気弱は物笑いの種だ。
おまけに、親父が死んだという知らせに、泣いて皇后に支えられるとは情けない。俺は親父が死んでも涙一つ流さなかったぞ。
「
「藤原宇合の長子、広嗣と申します。先年から出仕し今年で二十三になります」
聖武天皇は、ため息をついて黙り込んでしまった。
間の悪い男だ。黙ったままでは、わざわざ内裏まで来た目的を達成することができない。
「藤原式家の
広嗣が「それで」と言葉を継ごうとしたときに、部屋に入ってきた者たちがあった。
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