第6話 出かける前には挨拶をしてくれ

「いえいえ。では、私はその書簡の配達の手配に行ってきます」

「そうだったな。あ、ちょっと待て」

 別れ際の挨拶をしようと手を取って口付けようとしたイブラヒムをスレイマンが止めた。


「公的な時はそれでいいが、私的な時は頬に。友達や兄弟はそうだろう?」

「確かにそうですね。では……」

 そう言ってイブラヒムが顔を近付けたが……。

「……。……。何故そう緊張なさるのです、まず、顔を上げて下さい」

 両頬に軽く唇が触れるだけの、ごく普通の家族や友人間の挨拶なのに、何故かスレイマンは目を堅く閉じて俯いて震えるように待っている。


「自分で言い出しておいて気づいたのだが、男とは初めてだ」

 その言葉にイブラヒムは愕然とした。故郷では父が寝る前にそうしてくれた。

 イスタンブルに来てからは同室の小姓たちや、親同然の小姓頭、宦官長がそうしてくれた。

 特に言葉を覚えるまでは、そうしたぬくもりが支えだった。


 いや、言葉を覚え、宮廷の恐ろしさを知ってからはなおさら、そうした素朴さが自分を支えていたのかもしれない。

 スレイマンの言っていることはつまり、そういう同性が周りに誰もいなかったと、そういうことなのか。


「お父上は……」

「あの父上が、普通の父親のように身内と慣れ合うと思うか?」

 身も蓋もない言い方だが、その通りなのだろう。

 スレイマンの父、トラブソン州知事セリム王子は、誰よりもオスマン帝国の王族らしい人だという。

 つまり、身内であっても、いや身内であればこそなおさら容赦なく切り捨てる、と。


「スレイマン様……」

 友人としての挨拶をするつもりだったのに、気が付けば両腕で強く抱きしめていた。

「ん……こういうのもあるのか?」

 別れ際の挨拶ではないが、こんな風にしてくれた人がいた。

 多分、イスタンブルに来て間もない頃だ。


 無理矢理親元から引き離され、言葉もわからぬまま泣いていた自分を、年長の宦官が包み込むように抱いていてくれた。

 イスタンブルを自分の故郷と思えるようになったのも、その人のおかげだ。

「挨拶ではありませんが、安心しませんか。暖かくて」

「うん……そうだな……」

 イブラヒムの肩に頭を預けたまま、スレイマンは静かに涙を流していた。

 それに気付いたが、イブラヒムは何も言わなかった。


 何かつらいことがあるのですか。そんなことを自分が聞けば尋問になってしまう。

 スレイマンが何か訴えれば、自分はやはり大宰相府に報告せねばならないだろう。

 だから、何も聞かないし、語らなくてもいい。

 同じ言葉を話す者同士であっても、言葉が通じぬ者同士のように、今はありたい。

 あのとき泣いていた自分。抱きしめてくれた宦官。

 そのようにありたいと、心の底から思った。


「では、スレイマン様、手紙を出してきます」

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