第8話 質問の仕方がわからない

「それにしても誰から近習学校の話をお聞きになったのですか。物語でも出回っているのですか?」

「いや、州知事様から直接聞いた」

 クリミア州知事メフメト・ベイは県知事であるスレイマンの上官にあたり、また近習学校出身の若い奴隷官僚だ。


「州知事様……ああ、テオ室長。懐かしい。スレイマン様はお親しいのですか」

「テオ室長?」

 聞き慣れぬ名にスレイマンは首を傾げた。


「ええ、ご存知のようにメフメトという名は預言者ムハンマドの名であり、先帝の名であるため、同名が多いでしょう。州知事様もその同期の方々の多くもメフメトの名を賜ったため、結局元の名が渾名のように使われています」

「ああ、それでテオ……テオドロスだからか」

 もともとの名前であれ、キリスト教から改宗してつけられた名前であれ、この世代の男子の名前として最も多いのがメフメトだ。


「私が七歳でイスタンブルに来たとき、あの方は十七歳で室長――まあ、大部屋の子供たちに宮中の礼儀作法を教えたりする仕事をしておられました。三年後にセヴァストポリに赴任なさるまで、お世話になりました」

「そうなのか、それは奇遇だな。そなたはあの方のことをどう思う?」

「どう……とですか。憧れ、尊敬しております。厳しいけれどあたたかく公正で……今私は初めて会った頃のテオ室長と同じ年になったわけですが、そう考えると自分の未熟さが恥ずかしくなります」

 そう言いながらも、イブラヒムは思いがけず懐かしいその人のことを話せて、胸が熱くなった。


「そうか。私からみればそなたはイスタンブルのことや政治のこと、何でも知っているように思うが、やはり十歳も年上の先輩にはかなわないと思うのか」

「ええ、知識だけなら追いつくことができても、あの方の持つ独特の強さはまねできないものでしょう」

「そうだな。何だろう、叱るのと励ますのが巧いな」

「ええ、そうです。……ってスレイマン様も叱られたりするのですか、王族なのに」

 確かに自分も気安く口を利いていたが、一応スレイマンは今上皇帝の孫にあたる。


「当たり前だ。王族でも部下は部下だ。しかも二年前に赴任した頃は私は本当に仕事ができなくてな。書類を出すたびに不備があって、“県知事を呼んでこい”とお怒りの文が来て、何度もセヴァストポリに訂正と謝罪に行った」

「……そうだったのですか。私が知っている限り、スレイマン様は仕事を手際よく終わらせて文や物語を書くほど有能さを持て余す県知事のようですが……」

「……嫌味だな……。だが、今は私が一人で県庁の仕事をしているわけではないだろう?」


「当然ではありませんか。部下の適性に合わせて仕事を割り振るのが知事の仕事ですから」

「だから、それができなかった。親元でぼんやりと暮らしていたから、人に命じることも頼むことも慣れていない。まして、仕事の全体像を把握して人に割り振るなど……」

「ああ……なるほど……。もしかして、全部自分で背負い込まれたとか?」

 イブラヒムの指摘にスレイマンは苦々しく笑った。


「そう。しかも王族だから、という妙な矜持もあり、他の者にわからないことを聞くこともできなかった。それで、自分なりに書式を作って提出したのだが…」

「駄目ですよそれは。オスマン帝国の行政書式は意味不明なほど細分化されておりますが、意味はあるのですから合わせないと」

 思えば自分もその細分化された書式を学ぶことに、近習学校時代、多くの時間を費やしてきたように思う。

「そうだろう。本当、厳しく怒られた。一番厳しく注意されたのは、何かわかるか?」


「……書式のことではなく……誰にも聞かずに一人で解決しようとしたこと、ですか?」

「やはりそなたにはわかるのだな。故郷では家庭教師から一通りの学問を学んだが、こちらに来て一番わからなくて困ったのが、家庭教師以外の者にどのように質問してよいかわからなかったことだ。そなたは学校に行っていたからそんな苦労はないだろう?」


「ええ……しかし、それとは少し種類が違いますが、トルコ語が全くわからなかったので、人とどのように意思疎通をしてよいのかわかりませんでした」

 ギリシア人のイブラヒムに限らず、奴隷として異国に連れて来られた少年が最初に当たる壁が言葉だ。

 当然、そのような苦労をしたことのないスレイマンは心配そうにイブラヒムをじっと見た。


「……その方が深刻そうではないか。どうやって乗り越えたのだ?鬼のようだと評判の授業か?」

「勿論、最初の一年は殆どトルコ語の授業でしたので、それもありますが、やはり人の身振りや表情を注意深く読み取り、自分の伝えたいことが伝わっているかを確認するのです」

「なるほどな」

「先ほど書き文で回した夕食の相談くらいなら、実は言葉を使わなくてもできるでしょう」


「確かに……だが、やってみたかったのだ」

 スレイマンが目を輝かせる理由がわかるようなわからないような。

 一応、聞いてみる。

「何故ですか……」

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