第10話 岩魚
口の大きな男だ。男は、川魚を手づかみにして頭からかぶりついている。口を閉じて食べてはいるが、骨を
この田舎豪族を画に描いたような男が、
玄蕃は、川魚を一気に平らげるとその大きな口を開けた。
「この魚は、
光秀は、普段は礼儀正しい男であることは、その
「利三は、岩魚は初めてか?身がしまってうまいぞ。」
「魚は、日干しにしたものはよく食べますが、焼き魚はたまにしか食べません。そして、この岩魚というのは初めてです。」
利三も岩魚を手に取り、かぶりついた。日干しした魚とは比べものにならない美味だ。つい、声も出てしまうほどだった。
「おお、うまい。」
玄蕃が新吾の方を見て、
「新吾殿は、道三公の
とからかうように言った。
「なかなか
「新吾殿は、長良川の鮎に慣れてしまっておるのではないかな。鮎は箸できれいに別けられるが、岩魚は、なかなかそうはいかん。さあ、一息に。」
玄蕃は、新吾に促すように、自分の器の上のもう一匹の岩魚を頭からいった。
新吾も結局、箸を置いて、手で食べた。
「・・・いやあ、鮎とは違う
玄蕃は新吾に微笑を向けた後、真顔になり、三人を見渡した。
「左様。この身のしまりから来る旨味のように、岩魚には、岩魚のよさがある。鮎のように安全な流れの中を優雅に泳ぐ魚ではなく、激しい流れの中を泳ぐがゆえ、身を引きしめ、その中を生き抜く
三人は、玄蕃の語ることに耳をそばだてた。
「ただ、岩魚は、激しい流れに
「つまり、この乱世という激流の中に活路を見いだせた者が生き抜くことができる、と。」
新吾が玄蕃をまっすぐに見つめながら言った。
「左様。今の有り
「次の世を生み出す勢いとは?肥田殿は、どう見ておられるのです?」
利三は、肥田玄蕃が見ている「勢い」に関心をもった。
「玄蕃殿は、それを尾張の織田信長に見いだしている。」
光秀が言った。光秀は、かなり前から玄蕃と、信長の「勢い」について論じ合い、信長に
玄蕃は、
「今の国主・義龍殿のやり方では、いずれ美濃は立ちゆかなくなる。義龍殿は、自らを先の守護・
利三は、光秀の方を見た。光秀の顔にやや暗い影が差した。
「これでは、いつか
「光秀殿は、織田とつながりをもち、動いておられるのか。」
利三は、このことは知らなかった。光秀が頷く。
「おれが、この玄蕃殿の城が安全と言ったのは、そういうわけだ。玄蕃殿の心は、もう義龍などにはなく、信長殿に寄せられておる。」
光秀は、これまで利三と話すとき、信長のことを「信長」と呼んできたが、今、それに「殿」をつけるようになった。利三は、光秀が織田信長のために働いていることを、自分に明確に伝えるために、このような呼び方に変えたのだと思った。
不意に、光秀は、声を張り、利三を凝視して言った。
「利三。この玄蕃殿のように美濃の心ある者たちは、信長殿へ希望をもち始めている。お主も、その一人として加わってもらえんか。道三公の目指された世は、信長殿によって実現させられると思っている。昨夜、感じたのだ。お主は、そのために必要な男とな。頼む。」
(これも、光秀殿が、道三公が夢見た世を創り上げるためなのだ。昨夜、心ゆくまで語り合い、心惹かれた光秀殿が目指す世。そのためなら自分の命を賭けられる。)
利三は、光秀から話を聴いた、道三の目指した世の中にも共感していたが、それ以上に、その夢に邁進する明智光秀という男に惚れ込んでいる自分に気づいた。
利三は、光秀にほほえみを向け、口を開いた。
「わかりました。光秀殿は、おれを少々買いかぶっているが、おれも混ぜてもらいますよ。」
「ありがたい、利三。何かと頼りにしたい。」
光秀は、頭を下げた。
光秀に頭を下げられると、利三は、気恥ずかしくなった。
「やめてください。かしこまるのは。いつもの調子でいきましょう。」
と、利三の隣で新吾が声を上げた。
「おれも、入れてください!師の利三殿がそのご決心であるなら、おれも同じです。おれも、義龍に命を狙われている身。義龍は、もう兄とは思っておりません。これからは、まだ会ったことはないですが、義兄の信長殿を兄と思いたいと思っています。」
道三の娘で信長の正室・
光秀の
「その心意気、うれしいぞ。道三公の子であるお前が加わってくれること、心強い。」
新吾は、目を輝かせながら、頷いた。希望に満ちた目をしている。利三は、新吾を連れてきてよかったと思った。
玄蕃が口を開いた。
「話は、まとまったな。今日は、我らの新しい門出となる
「薄めてもらっても少ししか呑みませんぞ。おれは、酒より岩魚をもっと食べたい。」
「いいぞ。岩魚も準備させよう。」
「あの・・・先ほどより気にかかっておりましたが。」
新吾が心配そうに口を開いた。その声は、かなりひそめたものだった。
「ここは奥書院とは言え、今の話が義龍の放った手の者がもし入り込んでおり、盗み
「新吾殿、心配は要らん。わしの腹心の者を10人ほど、この奥書院の周りに置いて番をさせている。」
「あ、さすがの心配りですな。」
「はは。新吾殿は、やはり長良川の近くで育ったせいか、鮎に似ておるな。鮎は、自分の縄張りを気にしすぎる。それで、縄張りに入った他の鮎を攻撃しおる。その
「はい。よいことを学びました。」
新吾は頭を
玄蕃が小者を呼び、
小者が勝手元へ小走りで去る音、玄蕃が雑談を始めた声などが聞こえた。だが、利三は、それらの音が遠くで聞こえているような感じだった。光秀に惚れ込んでいる自分に気づいたこと、光秀に「必要な男」と言われたことによって、まだ心の中の高揚感が続いていたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます