第16話 帰還

「それは、めでたいことではないか。その縁談、受けた方がよい。」

 光秀は、破顔はがんして言った。


 利三にとって、光秀がそんな風に答えるとは、意外だった。


 土井どい庄左衛門しょうざえもんの館で父に面会し、その日の夕暮れに米田城へ戻ったが、光秀は外に出ているとかで不在だった。それゆえ、次の日のたつこく(午前8時頃)に光秀の居室を訪れた。光秀は、朝早くに姿を見せた利三に驚いていたが、話を真剣に聞いてくれた。


「なにゆえです?龍興たつおきの重臣・西美濃三人衆筆頭の稲葉いなば良通よしみち殿の息女と縁組すれば、おれは龍興たつおき側の者になってしまう。それでは、光秀殿と交わした誓いに違背いはいしてしまい、光秀殿が目指す世の中を生み出す助けとなることができなくなる。」

 利三は、光秀がこの話に反対するものと思っていた。反対されれば、ぜひもない。美濃国主・斎藤家のもとを出奔しゅっぽんしてでも、光秀とこうを共にするという決意でいた。

「おれは前にも申した通り、光秀殿と共にこの乱世を闘い、光秀殿の目指す世を共につくりたいのです。ゆえに、このたびの話には困惑している。」


「利三は、前妻を亡くしたそうだな。」

 光秀は、ぽつりと言った。視線は、利三に向けられたままだ。

「おれには、熙子ひろこという妻がいる。今は、恵那郡えなごおり(現:岐阜県恵那市)の遠山殿のところにかくまっていただいているが、たまにおれが顔を出すと喜んでくれる。その笑顔を見るのが、おれも好きでな。」


 利三には、光秀が何の意図でこんなことを言っているのか分からなかった。


伴侶はんりょというものは、人生に華をえてくれるものだ。お前にも、ぜひそんな伴侶を得てほしいのだ。はじのうちは、夫婦めおとの仲もぎこちないものだろうが、だんだんと心通うようになる。そうなれば、あとは一蓮托生いちれんたくしょうだろうよ。」

 一蓮托生・・・。あの世に行っても、同じ蓮華れんげの上に生まれ変わり、そこに一緒に座することをいう。これが夫婦の理想像だと光秀は言いたいのだろう。


「この乱世にあって、夫婦の仲がどうのなどと申している場合ではないと思いますが。明日あすどうなるかもわからないというのに。」

 利三は、小夜さよのことを思った。利三が蟄居ちっきょとなったせいで、小夜には寂しい思いをさせた。だから、もう一度、妻をめとることには気が引けるのだ。


「乱世だからこそだ。乱世を生きるおれたち武士だからこそ、鳥がその宿り木を求めるように、心の安穏あんのんを求めてもよいのではないか。それこそが人というものだ。人というものが分からず、『和』をたっとぶ世の中などつくれんぞ。」

 光秀の言葉には重みがあった。彼にとっての宿り木は、妻・熙子なのだ。


 光秀は、続けた。

「稲葉殿のご息女を娶ることに賛同するのには、もう一つわけがある。今、信長殿は、少しずつ美濃の武士の心を捉え始めているのは、お前も知っての通りだ。だが、西美濃の方の武士は、龍興の本拠・稲葉山に近く、おれもなかなか運動しにくい。お前が稲葉殿のところへ入ってくれれば、稲葉殿をはじめ西美濃三人衆の心に食い込めるのではないかと思っている。」


「相手のふところに入り、内から切り崩すということですか。」

 利三は、稲葉良通の娘を娶ることは、龍興陣営に組み込まれることとばかり思っていたが、光秀の言うやり方もあることに気づいた。そこまで考える光秀の発想力に感じ入った。


「お前ほどの武士には、おれと共に行動してほしいという想いもあるが、ここは、おれもそれを我慢して頼んでいるのだ。この美濃にいて、稲葉殿の心を信長殿へ向けさせるよう骨折ってくれんか。さすれば、西美濃三人衆も他の美濃の武士も信長殿を迎え入れる方へ傾くはずだ。」


 光秀の言葉に利三は、しばし考え込んだ。光秀は、利三の幸せを願う一方で、稲葉良通をはじめとする美濃の武士たちを信長の方へけさせる運動を利三に願っている。利三も、光秀と行を共にしたいという想いがあるが、光秀もそうしたい想いを我慢しているなら、自分もここは耐えて、妻を娶り、美濃で運動しようと思った。

「光秀殿のお気持ち、よくわかりました。おれも光秀殿と共に動きたいが、今は忍びます。稲葉殿の息女を娶ることにします。」

 利三は、それまでのやや暗く、思い悩んでいたはずの気持ちが自ずと晴れがましいばかりのものになっていることに気づいた。


「ありがたい。そして、めでたい。」

と光秀は言うと、居室きょしつ文机ふづくえの上にあったきりの箱を持って来た。

「これは少しだが、おれからの祝儀だ。」

 桐の箱から、銀判ぎんばん5枚を取り出し、懐紙かいしに包んで利三に差し出した。


「こんなにも・・・。受け取れません。」


「いや、盟友の婚儀だ。これくらいは当たり前よ。」

 光秀は、利三の手をとると、そこへ懐紙に包まれた銀判を握らせ、にっと笑った。その笑顔は、抜けるようにさわやかなものだった。


 利三は、深く礼をした。それから、

「明日、父と共に稲葉山へ向かいます。光秀殿、どうか達者で。それで、光秀殿は、これからは、どのように動いていくのですか?」

と尋ねた。


「実はな・・・。」

 光秀は、文机の中から油紙あぶらがみで包まれた書状を出した。その油紙の中からは、利三が前にいだことのある香りがした。油紙を光秀が開く、一気に伽羅きゃらの香りが立ちのぼってきた。


帰蝶きちょう様・・・。)

 利三は、伽羅の香りがするたびに帰蝶の名が頭に浮かぶようになっていた。


「もう、この香りでわかるな。帰蝶様から昨日届いた。信長殿の指示がしたためてある。これには、信長殿は美濃を平定した後のことを考えておられ、京へ出ることを目指されていると書かれている。つまり、上洛じょうらくだ。」


「上洛・・・。つまり、織田家は、尾張から京までをおさえ、信長殿は京の主となるということですか?」

 利三には、ぴんとこない。まだ、美濃も平定していないのに、京をおさえることを言い出しているとは、信長という人物は、よほどの夢想家むそうかなのか。


「京の主として、ふるまうことになるだろうが、まだ幕府は残っている。信長殿は足利将軍を立てるつもりだ。」


「将軍を立てて、そのもとで京の為政者いせいしゃとして振る舞うのですね。」


「そういうことだ。いずれは、その将軍をも越えていくかもしれん。その後、信長殿が目指されるのは・・・」

光秀は、一呼吸おいて、利三に考えさせるようにをつくった。


「天下を一統する・・・ですか。」

 利三は、そこまで行くのに、信長も目の前の光秀も、そして自分も、あまたの困難、障壁に必ずぶつかる。それらの相剋そうこくを乗り越えていく力が必要だと強く感じた。


「そうなるな。そして、おれたちの目指している世の中を天下という規模で実現されるだろう。」

 光秀は、遠い目をした。そうなったときの世の民の顔を思い浮かべているのかもしれない。


「それで、光秀殿が受けた信長殿の指示とは?」


「京へ出て、将軍家に仕えて補佐しながら、信長殿が上洛する下準備をするというものだ。おれの明智家も、かつては、お前の家と同じ奉公衆ほうこうしゅうだった。将軍に近づく伝手つてや人脈は、いくらでも持っているからな。」

 明智家も美濃斎藤家と同じほどふるくから奉公衆を務めていたから、光秀には自信があるのだろう。それが表情に表れている。


「なるほど。左馬助さまのすけはどうするのですか?連れて行かれる?」


「左馬助には、京にいるおれと、尾張の信長殿や美濃のお前や玄蕃げんば殿らとの間を往来させ、連携できるようにする。」


「左馬助もさらに忙しくなりますな。あとは、この美濃から光秀殿が抜けたのちのことです。だれが美濃の中を動き回るのですか?おれは稲葉家やその周辺しか運動できないでしょうから。」


「この書状には、木下藤吉郎という者が、美濃での運動を引き継ぐとある。」


「木下・・・?聞き慣れない苗字ですな。」


「もとは足軽の家だったが、父が戦で受けた傷で死んでからは百姓をしているという家の出だそうだ。信長殿に拾われて、小者のような身分から出世を続けているという。」


「信長殿は、百姓の家の出の者もお取り立てになるのか。美濃では考えられぬことですな。」


「それも信長殿の魅力よ。木下藤吉郎もそうだが、おれも一介の浪人にすぎん。だが、帰蝶様を介して声をかけてくださった。」


(信長殿は、人の取り立て方ひとつでも、家柄や地縁に縛られた旧い考え方の今の世を、そういうものにとらわれない新しい考え方によって一新していこうとしている。)

 利三は、時代の先を見続ける織田信長という人物に、ますます興味をもった。


 その後も、二人の間で、信長の考えていることや美濃のこれからについて長らく語らい合った。


「光秀殿。京でのご活躍、お祈りしています。」


「ああ。利三もな。」

 二人は、固く手を取り合った。


 翌朝、利三は、光秀と肥田ひだ玄蕃とにねんごろに礼を言って別れ、甚介じんすけと共に土井庄左衛門の館へ戻った。


 そして、父・利賢としかた、利賢の家臣たち、甚介と共に稲葉山へ出立した。3年ぶりの稲葉山である。

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