第11話 濃姫

「愉快。愉快。今日は、我らにとって忘れられぬ日じゃ。」

 肥田玄蕃ひだげんばは、心から愉しげといった様子で言った。

 この男は酒に強い。一体、どれくらいんでいるのだろう。酒に強いのが、豪傑の一条件とすれば、この男はそれをゆうに満たしている。酒宴になって、半刻はんとき(1時間)ほどだが、一人で3しょう(約5.4リットル)は呑んでいるようだ。だが、顔色ひとつ変えずに呑み続けている。


 光秀は、たまに口元へ猪口ちょこを持って行き、酒を軽くなめる程度しか呑んでいない。肴として出された岩魚いわなや味噌、塩ばかり口に入れていた。利三や新吾も、光秀ほど酒に弱くはないが、玄蕃の酒量には到底及ばない。酒量に個々人の差はあれど、この米田城よねだじょう奥書院おくしょいんでの酒宴は、和気藹々わきあいあいとしたものだった。


「利三殿は、義龍よしたつ殿に命を狙われたとか。難儀を受けられたな。刺客の数は?」

 玄蕃は、利三に視線を向けて言う。


「この新吾も入れて5名。ただ、新吾は、初めから加わるつもりはなかったので、襲ってきたのは、4名です。」


「光秀殿から、一人取り逃がしたとお聞きしたが。残りの3名は返り討ちにされたのか?」


「そうです。逃げた一人は、相当の遣い手でした。光秀殿や土井庄左衛門どいしょうざえもん殿がいなければ、斬られていた。」


「3人も討ち果たすとは、利三殿も相当の腕じゃな。だが、逃げた一人が気になりますな。どのような男です?」

 玄蕃は、利三に「相当の遣い手」と評された男に興味をもったようだ。


「もう50近いような人相の男でした。だが、おれは一度も見たことがない男だった。新吾も、よく分からぬようです。」


「なぜ、分からんのだ?お前は、刺客の一人だったのにか?新吾。」

 光秀が口元に猪口を持って行く手を止めて、言った。


「いやあ、義龍に利三殿暗殺の命を受け、ノ《の》くちの定められた場所で他の刺客たちと落ち合ったのですが、そこで頭分かしらぶんの者から簡単な指示を受けただけです。お互いに素性も明かさず、川辺郷へ来るまでろくに会話もしませんでした。ただ、頭分以外の者3人は稲葉山城いなばやまじょうで見かけたことがありました。いずれも義龍の家臣です。」


「そうか。おれが撃った男は、分からずじまいか。」

 光秀は、猪口を置きながら言った。


「なんにしろ、今後も身辺には気をつけられるとよい。利三殿も、新吾殿も。この肥田家中は、盟友であるお二人をお守り致す。」


「かたじけなく存ずる。だが、玄蕃殿やそのご家中ばかりに頼っていてはいかん。おれたちも稽古に稽古を重ね、剣の腕を高めなければならんぞ。新吾。」

 利三が言うと、新吾は深く頷いた。


「ところで、光秀殿。」

 と、利三は、話柄わへいを変えて、

「玄蕃殿のように、義龍を見限り、織田に心を寄せ始めている者は多いのですか?」


「そこまで多いわけではない。美濃の中でも稲葉山城を中心とした一帯や西美濃では、義龍を支持する者は、ほぼすべてと言っていい。そして、それらの者たちは、みな実力者たちばかりだ。だが、この川辺郷を含む加茂郡かもごおり可児郡かにごおり、そして、東美濃では、徐々に織田にこうと考えている者が増えているのも確かだ。」


 光秀は、東美濃の恵那郡えなごおりの岩村城を拠点に勢力を張る遠山氏について語った。光秀は、明智城落城後、この岩村遠山氏のもとに身を潜めていたこともある。このとき、光秀は、岩村遠山氏の当主・景任かげとうに織田に附くことの利を説いた。徐々に景任の心は動き、もうすぐ、信長の叔母をめとる話がまとまりそうだという。

 こうした美濃の東で進む動きの中、肥田玄蕃のもとを訪れた光秀は、信長と義龍を比較しながら語ることで、玄蕃の心を動かした。それに、玄蕃には、織田家との接点が前々からわずかながらあった。玄蕃の父・肥田忠直ひだただなおが、この米田荘よねだのしょうに流れてきて土着したとき、ここの支配者であった福島氏の被官となった。その後、福島氏は、政家まさいえの代に、美濃守護・土岐氏ときしのもとを離れ、尾張の織田信秀のもとへ家ぐるみ移転するということがあった。これにより、肥田氏は米田荘の支配権を継承したわけだが、旧主の福島氏を通じて織田との接点をもったのである。このような土壌があったこともあり、光秀は、玄蕃を説得しやすかったのだ。

光秀は、岩村遠山氏や肥田氏の例を挙げながら、徐々に自分の運動が進んでいることを利三に伝えた。


「福島様には、父上の代にお世話になった。だが、尾張にお移りになってから、なかなか羽振りも悪いらしく、武士でありながら、おけを売る商いを始められたとか聞いておる。おいたわしや。」

玄蕃がしんみりした口調で言った。


利三には、光秀の説明や今の玄蕃の言葉を聞いて、光秀にぶつけてみたい質問が出てきた。

「玄蕃殿の肥田家中と福島殿につながりがあることは分かりましたが、織田家中にとって福島殿は、新参者。その新参の家、しかも玄蕃殿の話では凋落している家。その家を通して、織田家中の深いところの事情を知り得たり、信長殿の指示を受けたりすることなど無理だと存じます。光秀殿は、織田家中の重きを成すところと深いつながりがあるはず。それは?」


光秀は、にやりと笑った。

「それは、これよ。」

そして、ふところから油紙あぶらがみに包まれた一通の書状を取り出して開いた。奥書院の中に気持ちがやわらぐような香りが広がった。利三がこれまで嗅いだことのない香りだった。


「この書状の送り主こそ、おれと織田とをつなげる方だ。美濃と織田とをつなげると言い換えてもよいな。女性にょしょうだ。分からんか?」


帰蝶きちょう様!」

「姉上!」

利三と新吾は、同時に言っていた。


「そうだ。帰蝶様は、道三公と、おれの叔母上・小見おみかた様との間にお生まれになったから、おれとは従妹いとこになる。信長殿に輿入れされ、もう12年だ。織田家中では、濃州のうしゅう(※)から来たので、濃姫のうひめと呼ばれておるが、おれは、この呼び名は好かん。いかにもよそ者扱いという呼び名だからな。美濃の蝮と呼ばれた道三公の娘ということで、輿こし入れ直後は織田家中にあり、辛い想いをされたのではないかと思う。」(※ 美濃の別名。)


利三は、光秀が、今はどうか分からないが、かすかながら嫁ぐ前の帰蝶に恋情れんじょうをもっていたのではないかと感じた。だが、変な勘ぐりはよくないと思い返し、胸にしまいこんだ。

「帰蝶様を通じているならば、織田家中や信長殿とやりとりがしやすいですな。合点がいきました。それにしても、この香りは何ですか?」


「これは、帰蝶様が伽羅きゃらという香木こうぼくの香りを書状にきしめて送られたのよ。武家の奥方であっても、このようなみやびなところもあるのだ。」

光秀の表情は明るい。帰蝶の顔を思い出しているのだろうか。


「まるで、想い人に送る恋文のようじゃな。光秀殿。」

玄蕃が、からかった。


「じょ、冗談は、やめよ、玄蕃殿。尾張一国の主の正室が、一介の素浪人すろうにんにそんな気持ちで書状を送るわけがなかろう。それに、そんな気持ちが帰蝶様にあるのなら、織田家中にとって一大事だ。馬鹿げた邪推じゃすいは、よせ。伽羅というのは、非常に高値たかねの香木なのだ。これを買い、惜しげもなく使えるということは、織田家の銭の力を表していることにもなり、それは、美濃の武士たちに織田家の力を示し、なびかせることにもつながる。帰蝶様は、それを考えてだな・・・」


顔を赤らめながら、動揺を隠すようにしゃべる光秀を、3人は、ほほえみながら見ていた。利三は、普段は、いかにも切れ者という感じで沈着でいるこの男にも、こういう面があることが分かり、少しおかしみを感じると共にますます明智光秀という男の人間性の豊かさを感じるのだった。

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