由比ヶ浜
あれは1973年もあとわずかとなった師走の頃であった。
由比ヶ浜の海岸を、上質なトレンチコートを羽織った長身の紳士が独り歩いていた。現役時代はチャームポイントの丸眼鏡と慶応ボーイらしい上品な佇まいと、三拍子揃った野球センスで「球界の紳士」と呼ばれた男、別当薫氏である。
沖合から吹き抜ける寒風は思いのほか別当の身体を冷やし、本格的に冬の到来を告げていた。
「今年も終わりか。来年はまた久しぶりに背広で仕事をすることになるのか」
別当はトレンチコートの襟を立て、この20年間ほどの自身を振り返る。
「兵隊に取られてもう終いかと思ったが、運良く生き残って野球を続けられた。毎日、大洋、広島で監督もさせてもらえて本当にいい経験をした。しかし、どの球団でも優勝はさせられなかった。男一代、一度はあのグラウンドのど真ん中で宙に舞ってみたいものだがそれは叶わなかった。。」
選手兼任を合わせると1952年から1973年までの間で18年間も間、3球団で監督・コーチを歴任した。物腰の優しさから選手やフロントからも好かれた別当はプロ野球界は放っておかなかったのだ。しかし、今年1973年は最下位に沈み、責任感の強い別当は潔く広島のユニフォームを脱いだのだ。
いわば、別当は気持ちの整理をしたくこの由比ヶ浜海岸を歩いていたのだ。
しばらく歩いていると、別当の黒縁眼鏡はあるものを捉えた。
海岸になにやら少年とクジラらしきものが波打ち際に倒れてる。
「なんだ・・?こんな寒い日に海水浴・・?いや、そんなわけがないだろう。・・とにかくちょっと行ってみるか・・万が一、子どもだったらただごとではない!」
別当は砂浜に下りるとその倒れている子どもとクジラの元へ駆け寄る。革靴が砂に埋もれて上手く走れない。しかし、別当はそんなことは御構い無しに全力で砂浜を走り抜ける。
かつてプロ野球初のトリプルスリーを達成した男の足は初老に差し掛かった男性とは思えないくらい健脚であった。
「おーーい!大丈夫か!?」
別当は波打ちぎわに倒れている物を見やる。
オレンジ色のユニフォームを着た少年と小さなクジラだ。しかし、倒れたまま動かない。
「坊や!しっかりするんだ!」
別当は少年の方を揺らす。
するとその声に気づいたのか少年はかすかに目を開けて。
「・・・こ、ここは・・どこ・・?」
続く
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