カミソリ

春先の寒さで冷えた床が近藤昭仁の尻を冷やす


1969年春、静岡草薙にて春季キャンプを行っていた大洋ホエールズは春の訪れを告げる雨により、その日は体育館で練習を行っていた。 今でこそ室内練習場が完備されているのが当たり前の時代であるが、当時はそのような豪勢な設備を持っていた球団は少なく、雨となれば体育館などで練習を行っていた。


体育館では若手投手たちが4、5人が並んでピッチング練習をしていた。真っ平らで足元が滑る床で黙々と投げる投手たち。しばらくすると、その中で将来有望と呼ばれる1人の男のもとにチームの花形選手である近藤和彦、近藤昭仁が球筋を見るためにキャッチーの横に立った。何球か球筋を見て、両近藤はこんな言葉をその投手に言い放つ。


「なんだ、こんな球しかないのか・・」


その瞬間、その男は頭にカーッと血がのぼり顔が紅潮し始める。投手としてのプライドがその侮辱を許せなかったのだ。怒りにわななき「シュートもあります!」と近藤らに言い返し、今まで一度も投げたことの無いシュートを投げた。

実はその男は社会人野球時代に先輩からシュートを習っていたのであるが、当時はストレートとカーブだけで充分という自信もあり、なんとなく聞き流していただけだという。それがその時にふと頭をよぎったのだ。

ボールの縫い目に指をかけず、肩をストレートのように少し開いて、手を遅らせて男は眼前のキャッチャーミットめがけて投げる。すると、ボールは真ん中付近から大きく曲がり、近藤昭仁の胸元にえぐりこむ。あまりにも大きく切れ味鋭く曲がったボールに近藤昭仁は驚嘆の声を上げて床に尻餅をついてしまう。


「おい、平松!スゴイ球があるじゃないか!なんで今までなげなかったんだ!」


平松。男の名前である。

平松政次。

岡山東高時代には1965年センバツ大会で39回連続無失点をマークし優勝。第1回ドラフト会議では中日ドラゴンズから4位指名を受けるが入団拒否。その後、社会人野球の日本石油(現:JX-ENEOS)に入社。翌1966年の第2回2次ドラフト会議では2位指名を受けるが入団保留をし、1967年8月8日に行われた第38回都市対抗野球大会で橋戸賞を受賞した2日後に大洋入団を果たす。

入団に至るまでには説得のために同郷で高校の先輩でもある秋山登、土井淳が平松の許を訪ねてきたという。そして、背番号は3。少年時代からの憧れの長嶋茂雄と同じ番号に平松の心は躍っていた。


しかし、プロの世界は甘くなかった。


1年目、2年目とわずか8勝に終わりくすぶる生活を送る。背番号も3から27へ変更となった。

アーム式の投げ方でヒジがうまく使えず、高めにボールが浮いてしまい痛打される日々。しかし、新監督の別当薫は平松をそれでも使い続けた。必ずこの男がエースとしてチームを引っ張るんだという期待を込めて。


そして、その日。

平松は自身の殻を鋭利なカミソリで切り拓いたのである。巧打者近藤昭仁が尻餅をつくほどのシュートを目の当たりにした近藤和彦はすぐさま、監督やコーチを呼んだ。そこで平松はあのボールを立て続けに投げ込んでいく。きっと別当監督も万感の想いで平松の投球を見ていたのであろう。


その後、平松は大洋ホエールズのエースとして君臨し始める。

当時のプロ野球界はまさに巨人軍9連覇の黄金時代。王貞治、長嶋茂雄らを擁する巨人軍の強さは他球団を圧倒していた。しかし、平松はその最強巨人軍に敢然と立ち向かう。

また、あの日投げたシュートはあまりのキレ味に「カミソリシュート」と呼ばるようになり、多くの右打者を戦慄させた。あの長嶋茂雄すらもバットを短くして打ち、川上監督は「平松のシュートには手を出すな」と指示を出した。

こうして、平松は「巨人キラー」の名を欲しいままにしていくのであった。


そして、チームも群雄割拠のセ・リーグの中で3年連続Aクラスを保つ力を見せて奮闘した。

近藤昭仁、近藤和彦、長田幸雄らのベテランらしい熟練の妙技を見せ、若手の松原誠、中塚政幸、江尻亮、伊藤勲らがチームを活気づけた。また、投手陣も山下律夫、坂井勝二、小谷正勝が大車輪の活躍を見せた。


クジラ達は大波乱のセリーグの大海を沈まぬよう必死に戦い抜いた。クジラを喰らおうとする巨人達の喉元にカミソリを突き付ける背番号27の背中を見ながら。

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