海底航行
キャッチャー土井淳が大洋ホエールズに入団したのは1956年。
ソ連のフルシチョフ第一書記が独裁者スターリンへの個人崇拝を批判する「スターリン批判」を行い、スーダンはイギリスから、モロッコとチュニジアはフランスからの独立を果たした年である。
また、我が国では日活映画「太陽の季節」が大ヒット。それに影響されて洒脱な風俗に耽る若者が続出して彼らは「太陽族」と呼ばれた。
そして、この年の経済白書の結びでは「もはや戦後ではない」と記述され、流行語となったのもこの年である。
このように世界全体が第二次大戦の悲しみを乗り越えて、新しく自由と独立を叫ぶ時代へ差し掛かっていた。
そんな1956年に土井淳は岡山東高、明大時代を共に過ごした秋山登とバッテリー揃って入団し、同年入団の岩岡保宏・黒木弘重・沖山光利と共に「明大5人組」とも呼ばれた。
明大第一次黄金時代を築いた選手たちを獲得し、チームの再建を図ろうとしていた。果たしてクジラたちは海面に浮上することは出来たのか。
ここからは雑誌の取材の土井本人の証言をもとに辿っていこう。
ーー土井さんが入った時の大洋はとにかく弱かった時代ですよねーー
「あぁ、負けてばかり、最下位ばかりです(笑)。我々が56年に入ってからが4年連続最下位で、合わせて6年連続最下位ですからね。僕はね、プロに入ったら技術的にも、精神的にも高度になるんだろうと想像したけど、全然違った。大学時代はリーグ優勝ではあるけど、優勝を争い、一発勝負で負けたら終わりみたいな戦い方をしていたのが、大洋に入ったら毎日負けるんだもんね(笑)」
130試合もあるし、それがプロかもしれんけど、負けてもしゃらっとして『明日頑張ろうぜ!』と言う。我々は負けたら島岡さんにぶん殴られてましたからね(笑)」
土井が入団した1956年から1959年まで大洋ホエールズは4年連続最下位。そして、入団する前年の1955年、大洋ホエールズは川崎球場にフランチャイズを移して心機一転シーズンに臨んだが結果は31勝99敗。未だに破られていないセ・リーグシーズン敗戦記録である。
ーー大洋入りした明大の同期の5人ですね。その5人でチームを変えようとは思わなかったのですか。ーー
「最初はそう思っていたけど、まけてばかりだから、負けに慣れてくるんですよ。一生懸命頑張ってもしょうがない雰囲気になる。朱に交われば赤くなるってね(笑)」
負け犬根性が染み付いた体質は明大第一次黄金時代を築いた若き選手たちからは異質に見えた。土井と共に入った秋山登も1年目は25勝25敗で新人王を獲得。チーム全体で43勝、比率58.1%は2リーグ制後最大記録。そして、2年目も24勝27敗も大車輪の活躍し、投球回は400回を超えた。崩壊状態の投手陣の中で秋山は投げて投げて投げ抜いた結果、入団以来4年連続でリーグ最多敗戦を喫した。
また、1953年入団の権藤正利も1年目は15勝で新人王に輝くも、3年目の1955年に3勝してからは、足かけ3年に及んで世界記録となる28連敗を記録する。
とにかく投げても、投げても報われない・・。打てない、走れない、守れない・・。
そして、気がつけば大洋ホエールズは6年連続最下位という未曾有の暗黒時代を迎えていた。
ーーあの頃は先の見えない闘いが続きましたねーー
「大洋はこの頃、私たち明大5人組を含めて、大学出の選手を毎年入れてました。大学担当のスカウトを入れて、選手として底力のある、大きな大会を経験してきた選手、実績ある選手を多く入団させていました。
力のある選手が揃ってきてはいたのですが、やはり、チームは負け癖が付いているとなかなか浮上できないんですよね。そこで球団はトップを変えないとと決断したんじゃないでしょうか。」
トップを変える。
すっかり海底に沈むことに慣れてしまったクジラ達を変えるには、太陽が燦々とさす青空を知っている人物を呼ぶしかない。そのためにはトップ、すなわち監督を変えるしかない。
そこで大洋ホエールズは藁にもすがるような気持ちで1人の男に接触するよう、土井淳に声をかけた。
その男とは一体。
続く
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