魔術師
「おい土井くん、すまんけど試合が終わったら、ある人に会いに行ってくれんか」
押しも押されもせぬ正捕手へと成長していた土井淳が、現役時代は「塀際の魔術師」の異名を取ったフロントの平山菊二から耳打ちされたのは、1958年のシーズンもほとんど終わりに差し掛かった10月3日、後楽園球場での巨人戦の試合中であった。
「いいですよ、でも、ある人っていうのはいったい誰なんですか」
すると平山は周りに人がいないのを確認すると、神妙な面持ちで声をひそめてこう言った。
「三原脩さんだよ、西鉄の。是非ともお前と会いたいそうなんだ。これはウチの監督も知っている。だけど、この話は誰にも内緒でな」
三原脩。
かつて”魔術師”と呼ばれたプロ野球史上に残る名将である。
1951年、生涯のライバルである水原茂に追われる形で巨人を去り、遠く九州は福岡の西鉄ライオンズに新天地を求めた三原は、打倒巨人、打倒水原に心に秘めた。そして、 そこで三原は巨人の伝統ある紳士的な野球と対極に位置する、豪快で自由奔放な野球で西鉄ライオンズに黄金時代をもたらす。
大下弘、中西太、豊田泰光、仰木彬らに代表される個性あふれる選手たちは「野武士軍団」と呼ばれ、観る者すべてを魅了した。最初はBクラスだった西鉄は、一年ごとにたくましさを増していき、三原が監督に就任して4年目の1954年に、常勝軍団の南海ホークスを下して初優勝を果たした。
また、日本シリーズでは”フォークボールの神様”杉下茂を擁する中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れてしまう。しかし、1956年には、後に”鉄腕”と呼ばれる稲尾和久が入団してからはその投手陣は大盤石となり、1956〜1958年まで南海ホークスに競り勝ってリーグ3連覇を達成するのである、
さらに、三原と水原は宿命の対決とされ、”巌流島の決戦”とまで言われた日本シリーズでも魔術師・三原に率いられた野武士軍団は、三たび巨人軍を滅多斬りに斬り伏せた。九州の地に産声を上げ、ついには名声を欲しいままにしていた巨人軍にまでも引導を渡したサムライたちに人々は賞賛の拍手を送った。
そして、圧巻だったのは逆転に次ぐ逆転で頂点を極めた1958年のシーズンであった。前半戦では南海ホークスに11.5ゲーム差をつけられる大苦戦であった。
しかし、オールスター戦明けから野武士軍団がその刀を鞘から抜いた。復調した稲尾和久の大車輪、中西太の豪打によって、それまでの不調が嘘のように猛スパート。破竹の13連勝という離れ業までやってのけ、若鷹軍団を土壇場で撃墜せしめたのである。そして、水原巨人との3度目の対決となった日本シリーズでは、3連敗後、稲尾の4連投で奇跡の4連勝。この獅子奮迅の大活躍に人は彼を”神様、仏様、稲尾様”と呼んで崇め奉った。
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そんな球界の名将の名前を聞いて土井は驚いた。西鉄と言えば、前日の2日、1引き分けをはさむ破竹の13連勝によって2試合を残したばかり。しかも場所は平和台球場で。
「いったいなんの用事でオレに?もしかしたら、日本シリーズの相手の巨人の情報収集のために?」と土井は考えうる限りの考えを巡らせる。しかし、冷静に考えて見ても、セ・リーグに身を置く自分が他球団の情報を漏洩することは憚られると思った。そこで後に面倒にならないためにも、土井は監督の迫畑正己に「本当にあってもいいんですか?」と念を押した。
すると迫畑から返ってきた言葉は意外なものであったら、
「いいんだ、いいんだ。この件は球団も認めていることなんだから」
どこか腑に落ちない気分のまま、土井はゲーム内終了と共に着替えを済ませ、指定された後楽園球場からほぼ近い神楽坂の料亭に向かった。
続く。
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