丑の日

どこか腑に落ちない気分のまま、土井は着替えを済ませて、指定された後楽園球場からほど近い神楽坂の料亭へと向かった。

「いったい、三原さんはオレになんの用があって呼び寄せたんだ?」

そして、料亭に着くと、奥の一室に案内された。その一室で、すでに三原は待っていた。野球界最高峰の名将が目の前にいる。しかも一対一で。明治大学からプロ入りし、この年が3年目の25歳。土井は感激と恐れ多さで、かつて味わったことのない緊張感に襲われていた。


そんな気分を見透かすように、三原は口元に笑みを浮かべ、穏やかな表情で、単刀直入に本題に入った。


「実はね、土井くん。僕は大洋の森茂雄代表から監督就任の要請を受けたんだ。それで僕は、その要請を受けようと思っていてね。ついては土井くんに、大洋のチーム事情や選手一人ひとりの特徴などを教えてもらいたいんだ。君に聞くのが1番いいと思ってね。」


てっきり巨人の情報収集かと思っていた土井はまさに青天の霹靂と言わんばかりに、驚いた。

「日本一の大監督が、大洋のようなチームの監督を引き受けるなんて・・」。

差し障りのない範囲で、ベテランの多すぎるチーム構成、ともすれば勝利への意欲が薄い選手など、土井は気持ちの動揺を抑えながら率直に語った。

西鉄とは月とスッポンの差がある、悲しいくらいに情けなくてひ弱な大洋。しかし、三原はお寒い現実に表情を曇らせるどころか、笑顔を絶やすことなく最後まで熱心に土井の話に耳を傾けた。この時、三原が何を思って聞いていたのか。土井にはそれを忖度する術は無かった。


土井は半ば上の空になったまま神楽坂の料亭を後にしながら、三原との縁を感じていた。

「岡山東商の頃は、島根県の出雲で行われた招待試合にスタンドに三原さんの姿があったな。もっとも、お目当ては我々と同じように招待され、3本のホームランを打つ中西太だったが・・・。そして、明治からプロ入りする時も、三原さんの西鉄から誘われもした。この時は、アキと一緒が獲ってくれた大洋に行くために、西鉄にはお断りの電話を入れたっけなぁ〜・・」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

西鉄から身を退き、大洋監督就任に心を動かした三原には、決断にあたって大きな理由があった。

2年連続の日本一で迎えた1958年のシーズン。故障者が続出してなかなかエンジンがかからない西鉄ライオンズは、鶴岡一人監督率いる南海ホークスに最大11.5ゲーム差もつけられる。


「流石の西鉄も今年は無理であろう」


そんな声がファンからも、そして球団内からも聞こえるようになっていた。そして、三原の頭を飛び越えて選手起用などの話が進むようになり、球団への不信感はみるみるうちに募っていった。不成績に乗じて監督更送を目論む三原批判勢力。逆境になればなるほど闘争心をたぎらせる三原の反骨精神に、この一件は油を注いだ。三原が「逆転優勝」を意識の中にしっかりと根付かせたのは、このときであった。


そんな折であった。東京遠征の際に、早稲田の先輩である大洋球団代表の森茂雄と街角で偶然出会ったのは。暑い盛りの丑の日、ウナギ屋だの昼食で、森は真顔でこう切り出した。


「大洋はまるでいかん。そろそろしっかりとしたチーム作りをしようと思ってる。どうだ、ぼつぼつ九州から東京へ戻ってきて、ウチで監督をやってくれんか」


この時の心境を三原は自著でこう述べている。


ーー正直いって、心が動いた。人生には潮時がある。今がそれだ、という気もしてきた。考えてみれば、ローカルよ、田舎チームよといわれた西鉄を、あれだけに仕上げた誇りもあった。西鉄球団史上、刮目すべき好成績をあげた。球団を黒字にもした。なのに、西鉄はどうしてくれたか。

手のひらを返したような、雑音を耳に入れさえした。どういうつもりなのか理解に苦しむ言動が、私を不快にさせていたこともたしかだった。大げさにいえば、栄光のむなしさだったろうか。私の心が揺れ動いたとしても、それは仕方なかったと思う。ーー「風雲の軌跡ーわが野球人生の実記ー」


三原は森に対し「今の私は西鉄監督の身。しかし、チーム事情が許しさえしたならば、お世話になりましょう」と答えた三原だが、事実上、心は「ここで森さんに会ったもの何かの縁。今が潮時であり、来年からは大洋で」と決心が固まったのである。

そして、オールスター明け、西鉄ライオンズは破竹の勢いで逆転優勝を果たし、返す刀で巨人との日本シリーズは剣ヶ峰からひっくり返した。まさに野武士軍団野球が凝縮された大逆転劇に球団は湧いた。その祝勝会で三原は西亦次郎球団代表に、口頭で「これで西鉄での私の仕事は終わりました。今シーズン限りで辞めさせていただきます」と伝えた。

森からは「おめでとう。これで心置きなく大洋に来てくれるね」という電話をもらった。すでに土井から大洋のチーム事情は詳しく聞き出すなど、準備も万端。あとは、大洋監督就任のための手続きを1つずつ踏んでいくだけになった。


しかし、翌1959年シーズン、三原が大洋のユニフォームを着ることはなかった。

なんと、祝勝会の翌日、あるスポーツ新聞が「三原、大洋入り」と大々的にすっぱ抜いたことで事態が急変したのである。大洋のコーチ候補てして密かに就任を打診して某氏から、つながりのあるスポーツ紙に漏れたのが事の真相であった。

この一件で西鉄ライオンズの球団フロント、選手、ファンは必死に三原の引き止めにかかる。自宅には選手たちから「オヤジさん、やめないでくれ」という涙ながらの電話が相次いだ。

そして、三原は球団フロントの面子を立てる意味で「もう一年だけ」と約束して西鉄ライオンズのユニフォームを着たのである。

しかし、一度出来たシコリのようなものは1年間消えることはなかった。天才打者・大下弘の衰え、稲尾に頼りきりの投手陣・・。故障者が続出した西鉄ライオンズは日本一チームの面影もなくBクラスの4位でシーズンを終えた。坂道を転げ落ちるかのような衰退ぶり。三原の西鉄における最後のシーズンは、知将の冴えを発揮する場面もないまま終わった。


一方、迎えるはずの監督が来なかった大洋は、森が責任を取る形で現場の指揮を執ったのである。「オレはしんどいよ」、「困ったことになった」という森の愚痴を土井は幾度となく聞いたという。こんな状態では勝てるわけもなく、シーズンが終わってみれば6年連続の最下位。

しかし、森は三原の意を受けたチーム改造のいくつかに着手していた。


ます、青田昇をはじめとするベテランの大量放出し、チームの若返りを図った。そして、もう1つが26歳になったばかりの頭脳派キャッチャー土井をキャプテンに据えたことである。全ては三原の就任時を思い描いての措置であった。


こうして様々な紆余曲折を経てら1959年11月21日、晴れて三原脩は大洋のユニフォームに袖を通すことが叶う。

三原は就任時にこう語った。

「巨人に独占されたセントラルリーグに風雲を巻き起こすのが私の務めだ」

2リーグ分裂後、セ・リーグは1950年の松竹ロビンス、1954年の中日ドラゴンズを除けば全て巨人が覇権を握っている。そのセ・リーグの盟主に弱小・大洋を率いて三原はどんな戦いを挑むのか。


こうして様々な不確定要素を孕んだまま、大洋ホエールズは運命の1960年シーズンを迎える。



続く

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